第8話 ゼフィルという名の監視者
謁見の間を出たあとも、ハルカはしばらく歩きながら魂がどこかに置き去りになっていた。
(やばい……え、やばくない!?)
感情が大渋滞している。心の中の誰かが拍手を送り、別の誰かが地面に倒れ込んでいる。
(乙女ゲーの世界で、推しに、現実で、会って、喋ってないけど、目が合った……!!)
彼の名前を思い出すだけで、胸が苦しくなる。 ゼフィル。
攻略キャラの中でも最年少、19歳。赤い瞳にプラチナブロンド。何もかもが完璧に造形された“推し”だった。
「……ハルカ?」
声にハッとして振り向くと、ノアが不思議そうに眉をひそめていた。
「……どうしたの。表情の変化が激しいけど。何か変なモノでも口にした?」
「だ、大丈夫……多分……」
足元がふわふわするのは、ゼフィルと目が合ったせいだ。推しとの遭遇は、もはや事故だ。
しかも今、すぐそばにいるノアも推しの一人である。
どこか気だるげな表情と鋭い観察眼、知性の塊みたいな立ち姿。
(推しAの隣に歩いて推しBと目が合った……しんどい、心臓に悪い……ありがたい……でもしんどい……)
そんな混乱のなか、ふいに足音が近づいた。
「おい、無理はしてないか」
廊下の先に立っていたのは、黒い軍服に身を包んだ男——ライエルだった。
「……ライエルさん」
「あー、たまたま通りかかっただけだ」
その言葉に、ハルカの胸が少しだけ温かくなる。
「ありがとうございます。ちょっと、緊張してただけで」
「そうか」
それ以上は何も言わず、ライエルは静かに立っているだけだった。
(ライエルはわざわざ、私の様子を見に来てくれたのかな…)
(そういうところが……不器用なのに優しくて、ずるいんだから)
そして——その時だった。
もうひとつの足音が、廊下に響く。
「ハルカ様ですね?」
凛とした声。振り返ると、そこにいたのは——
ゼフィル本人だった。
(来た。来てしまった。えっ、今度は話すパターン!?)
「王命により、あなたの行動を監察するよう命じられました。ゼフィル・アルネストです。以後、よろしくお願いします」
その声は、艶やかさと可愛らしさをあわせ持つ、まさに天使のようなエンジェルボイスだった。
柔らかく包み込むような響きの中に、どこか危うさと静かな熱を感じさせる。
彼は一礼した。 形式的で、でもどこか礼儀正しくて美しい所作。
「え……っと……あ、よろしく、お願いします……」
呆然としながらも答えると、ゼフィルは天使のような微笑を浮かべた。
(あ~~~!すべてが浄化される。ありがとうございますありがとうございます)
「では、早速ご案内します。禁書庫へ」
それは、運命の始まりだった。 “彼と出会い直した”瞬間。
運命の歯車は静かに動き出した。
* * * * * *
ゼフィルの案内で、王城の奥深くにある禁書庫へと向かう。
薄暗い石造りの通路を抜けた先に、重厚な扉がひとつ——
ゼフィルが魔導印に指をかざすと、低く響く音とともに錠が外れた。
「こちらです。足元にお気をつけて」
中には古い魔導書や記録文書がずらりと並び、光は最小限。空気がひんやりとしている。
「ここが……禁書庫」
思わず、ハルカの声は小さくなる。
重たい扉の先には、古びた羊皮紙のにおいと、ひんやりとした静けさが満ちていた。
ノアは棚を一つ一つ確かめながら、慎重に資料を取り出す。
「“供儀”に関する記録……あった。断片的だけど、どうやらこの地の儀式に関係しているみたいだね」
開かれた古文書の中に、かすれた文字でこう記されていた。
『かの境を錘にて鎮めよ。純なる魂、裂け目に捧げるべし』
「……錘? 裂け目……?」
ハルカの胸にざらりとした不安が広がる。
ノアは指先で文をなぞりながら、静かに口を開いた。
「“錘”は何かを封じるための象徴。ここで言う“裂け目”が何を指すかは不明だが、遺跡の位置や魔力異常の記録と照らし合わせると……何らかの“空間の歪み”と関係がありそうだ」
彼の目が鋭くなる。
「何かが“目覚める”のか、“現れる”のか……解釈は分かれる。けれど、遺跡の魔力異常との関連性は高い」
ノアが眉をひそめる。
「問題は、“誰が選ばれるか”だ。記録には明確な基準が記されていない。ただ、“純なる魂”という言葉だけが繰り返し現れる」
ハルカの背に冷たいものが走る。
(まさか、少女が……“選ばれた者”なの?)
「……私、もう一度行ってみたいです。あの祠に」
ゼフィルがハルカの横顔を見つめる。けれど、何も言わず小さく頷いた。
「危険はあります。ですが、目的が明確であれば、進言の上で再調査は可能です」
ノアも資料を片付けながら言った。
「記録を持ち帰って解析を進める。明日の調査準備を整えよう」
禁書庫を出る頃、外はもう夜に近かった。
重たい扉が閉じる音を背に、ハルカはふと振り返る。
(この中に、少女を救う手がかりがあったなら——)
その答えに手が届くまで、まだ遠い。
けれど、進まなければ辿り着けない。
静かな闇の中、ハルカは一歩を踏み出した。