第82話 命火を継ぐ者たち
王妃軍本陣――その最奥、緋の絨毯が敷き詰められた玉座の間。
ひざまずく男のくすんだローズピンクの髪が、微かに揺れた。
精緻な銀細工の鎧に血の跡はないが、戦場の緊張をまとった空気は彼の背に重くのしかかっていた。
「……沈黙の帳は、我々が破り、その後、結界を踏破し中枢へ突入しましたが……革命軍の魔導師が、こちらの毒を即座に無効化しました。
予想以上の対応力……並の集団ではありません」
そう述べる声は、戦場のそれとはまるで違う。
滑らかで端正な口調に、凛とした響きを帯びていた。
マティアス・ヴァロワ。
戦場では鮮やかに敵を薙ぎ払う優雅な剣士だが、今は仰ぎ見る玉座の前で、その端正な顔に慎ましやかな忠誠を浮かべていた。
緋の椅子に身を預ける女が、細い指先を組んだまま微笑む。
王妃ヴァレリア。
葡萄色の髪は金の髪飾りに飾られ、紫水晶の瞳には静かな炎が揺れる。唇に宿るのは、まるで恋人の失敗を愛でるような、冷たくも艶やかな笑みだった。
「そう……じゃあ、あの隠れ家は、もう野晒しの焚き火みたいなものなのね」
「はい。燃え尽きるには、もうひと押しが要る程度かと」
王妃は喉奥でくす、と笑った。
「火遊びが過ぎたようね……そろそろ、本気で焼き尽くす頃合いかしら」
艶やかな声音が玉座の間に漂い、マティアスの眼差しが静かに揺れる。
「貴女の望みとあらば――薔薇の棘は、容赦なく刺させていただきます」
それは甘美な愛を囁くかのような声音だった。だがその言葉の裏にあるのは、容赦なき忠誠と冷ややかな業火。
王妃が身を起こし、マティアスの前に歩み寄る。ドレスの裾が絨毯をなぞり、周囲の空気すら妖艶に染めていく。
「ならば、お行きなさい。私の可愛い、薔薇の焰……美しく、すべてを燃やしておいでなさい」
彼女の指がそっとマティアスの顎に触れる。
「次は、灰も残さず。いいわね?」
「……ははっ。かしこまりました、ヴァレリア様」
マティアスは薔薇の騎士としてではなく、王妃に忠誠を捧げる従者として、静かに立ち上がった。
その瞳には、甘さと残酷さを併せ持つ光が宿っていた。
* * * * * *
夜の王宮。
静まり返った回廊を、ゼフィルはひとり歩いていた。
重厚な扉を抜けた先、広間の奥――玉座には、王が座っていた。
しかしその瞳は、虚ろだった。
「……これを、……これを、……討て。反逆を……討て……」
うわごとのように同じ言葉を繰り返し、焦点の合わない目で空を見つめる王。
その姿は、かつての威厳に満ちた王とは、まるで別人のようだった。
ゼフィルは沈黙のまま数歩進み、やがて立ち止まる。
(……あの方の瞳は、もっと澄んでいた)
心の奥で、そっと呟いた。
「ゼフィル殿、陛下はお疲れなのです」
背後から、側近が気まずそうに言葉を継いだ。
「新たな王命も間もなく。どうか……お引き取りを」
ゼフィルは無言でうなずいたが、その瞳には疑念の色が浮かんでいた。
(何かが……狂い始めている)
月明かりが窓から差し込み、ゼフィルの影が、玉座の前に伸びた。
* * * * * *
焚き火の炎が、パチパチと静かに薪を焦がしていた。
賑やかだった夕餉の気配は落ち着き、各々がまばらに腰を下ろしている。
ハルカはその輪の中、温かい空気に包まれながらも、胸の奥に澱のような焦燥を感じていた。
──穏やかで、あたたかい。
けれど、これで終わりじゃない。そんな予感が、消えてくれなかった。
そっと視線を伏せ、誰にともなく呟く。
「……ここからが、きっと長い戦いの始まりなんだね」
その言葉に、隣にいたレオニスがゆっくりと頷いた。
真剣な瞳が、炎の向こうに向けられる。
「ああ。王妃軍はまだ動いている。ここで終わりじゃない」
焚き火の周囲が、一瞬だけ静まり返った。
ヴィスが膝を抱えたまま、ぽつりと口を開く。
「……燃え残りの火種は、消さなきゃな」
カイネルが枝をくべながら、低く呟いた。
「一晩寝たら、また次の備え。緩めるなよ、どこもな」
やや離れた場所で背を預けていたエレナが、腕を組んだまま視線を巡らせる。
「今までが前哨戦ってことよ。本番は、これから」
ハルカはそっと手のひらを握りしめ、深く息を吸い込んだ。
その様子を見たレオニスが、そっと手を添えて囁く。
「怖いときは、俺を頼れ。……もう一人で背負うな」
ハルカは驚いたように彼を見上げ、それから少し笑って、小さく頷く。
「うん……ありがとう」
誰もが、夜空の下、己の決意と向き合っていた。
焚き火の炎が、次なる戦いの始まりを静かに告げていた。
* * * * * *
——後に語り部エイル=ネストは、こう記す。
王国暦1251年、第九月の夜——
のちに〈霧中の奇跡〉と呼ばれるこの戦いは、
革命軍の名を歴史に刻む転機となった。
わずか五十の兵が、六百もの王妃軍に挑み、
絶望の中で踏みとどまった彼らのもとへ、
援軍百機が駆けつける。
その日、王妃軍は後退を余儀なくされ、
王政の均衡は、初めて大きく揺らいだ。
……あれは、ただの戦ではない。
炎が絶望を裂いた“最初の火種”。
革命の名が、風に乗って広がり始めた夜である、と——。




