第72話 月のもと、血に濡れて
夜の帳が下り、隠れ里を囲む山々に静寂が満ちていく。
その中心で、焚き火の周囲に人々が集まっていた。
だが、そこに漂うのは安らぎではない。
緊張、そして恐怖。
誰もが、目前に迫る“終わり”の気配を感じ取っていた。
「……今、隠れ里に残る戦力は、五十名。敵軍は六百」
仮面の梟――レオニスが口を開くと、その場にざわめきが走った。
木陰の奥で、若い兵士の肩が震えているのが見える。
年老いた男が、片手に握った鍬の柄を強く握りしめていた。
女性たちの間にも、互いの手を取り合う姿があった。
それでも仮面の梟の声は、静かに、しっかりと全員に届く。
「逃げ場なんて、とうに捨てた。
この拠点は“希望”そのものだ。……だから、ここで負けるわけにはいかない」
焚き火の火が、彼の仮面にゆらめく影を落とす。
「だったら……守ろう。皆で、この場所を」
誰かが息を呑む音がした。
「迎撃の罠はすでに張り終えた。結界も反転させてある。
この作戦がうまくいけば、敵の先陣は崩れる」
「でも……それでも、戦力差は……」
震える声に、仮面の梟は頷いた。
「だからこそ、頼みたい。剣を取れない者も、手を貸してほしい。
負傷者の看護、水の運搬、警戒、食料の用意……
命の数だけ、やれることがある。力を貸してほしい」
その言葉に、沈黙が広がる。
やがて一人の老爺が立ち上がった。
「ほな、ワシは火の番やな。若いもんがよう見えるように、明るうしといたる」
その言葉に、笑いが漏れた。
「おじいちゃん、あんた寝る時間ないで」
「ハッ、年寄りはのう、昼間うたた寝してんねん。夜は任せとき」
笑いと共に、空気が少しずつ、やわらいでいく。
小さな火種が、心にぽっと灯る。
焚き火を囲む仲間たちのもとを、仮面の梟がひとり、静かに歩いていく。
彼の足取りには、迷いも焦りもない。ただ、目の前にいる一人ひとりを、しっかりと見据えていた。
「おばちゃん」
声をかけると、薪を組んでいた女性が顔を上げた。
「明日の陣の配置、あなたの知恵を貸してください。……頼りにしてます」
「ふふ。それぐらいしか出来ひんけど、力になれるなら、喜んで。……アンタが命張るんやもん、うちもやるよ」
あたたかな笑みとともに、彼女は手ぬぐいで額を拭った。
次に視線を向けたのは、武具の手入れをしていたエレナ。
「エレナ。君の力が要だ。頼んだよ」
「たよりにしなさいよ。こっちは戦場慣れしてるんだから」
唇の端を吊り上げ、肩を回す仕草に気迫がにじむ。
続いて、静かに立つハルカの前に立つ。
「ハルカ。……君には、できれば前線には出てほしくないが」
「でも、わたしも革命軍の一員です。戦います」
迷いなく告げたハルカの瞳を見て、彼は少しだけ口元を緩めた。
その足元に、ふわ、と白い毛並みの影が滑り込む。スフレが、きゅいと一声鳴いて、ハルカの隣にちょこんと座った。
「……なら、せめて、生き延びてくれ。君が立っているだけで、救われる命もある」
その声は、少しだけ低くなり、彼女にしか聞こえないほどの距離で囁かれる。
「この戦いが終わったら、君に……」
言葉の続きを呑み込んでから、仮面の梟は視線をスフレへと移す。
「君も立派な隊員だ。……ハルカを、頼む」
きゅっ、とスフレがひと鳴きすると、彼は満足げに頷き、焚き火の向こうへと歩み去った。
少し離れた木陰に、ひとり座る影があった。
「ゼフィル。……ここにいたのか。一緒に戦ってくれるんだな。守ろう。共に」
ゼフィルは静かに立ち上がり、仮面の梟に一礼したあと、ふと焚き火の向こうにいるハルカの姿に目を向けた。
「……助けていただいた恩、忘れていません。
あの人がここにいる限り、僕も……剣を取ります」
月明かりにその横顔が照らされる。
そっと息を吸い、手にした剣を見つめた。
そして、仮面の梟は再び歩き出す。
焚き火を囲む輪の中へ――
震える若者の肩に、そっと手を置いて頷く。
薬草を分別していた女性には「頼りにしてる」と声をかけ、
腰をさすっていた老兵には、「鍬、貸してくれ」と笑って見せた。
誰かの手に触れ、誰かの目を見て、誰かに言葉を送る。
一人ひとりに、声を。
一人ひとりに、心を。
それはまるで、“王”のようだった。
焚き火の光が大きく揺れ、彼の姿を際立たせる。
「……明日の昼には、援軍が来る。必ずだ。
それまで、誰一人、欠けることなく迎えよう」
仮面の奥から放たれた声に、場が静まり返る。
やがて、ぽつりと小さな拍手が起きた。
それはすぐに波紋のように広がり、
ささやかな希望の音が、輪を包む。
人々の表情が変わっていく。
恐れに縛られていた顔が、少しずつ、戦う覚悟に染まっていく。
この夜、革命軍の心に――、一つの火が灯った。
* * * * * *
月明かりに照らされた山道。
冷たい光が林に差し込み、木々の間を静かに潤していた。
そこを進む、王妃軍の先発部隊。
約百名の歩兵と魔導士たちは、進軍に適した山道を選び、整然と前進していた。
そのとき——
一人の魔導士が、違和感を覚えて顔を上げた。
耳に触れる、妙な風切り音。
——どさっ。
次の瞬間、前を行く兵が声もなく倒れた。
「なっ、何を——」
警戒の声を上げかけたその瞬間、そこかしこから斬撃音が連鎖する。
枝を裂き、肉を断ち、血が飛沫を上げる音。
見渡す林のなかに、月光が差し込んでいた。
その中に——ただ一人、静かに立つ影。
ゼフィルは月明かりを背に、青白く輝く長剣を携え、無表情に笑った。
「……記憶していますよ。
傷を負わせてくれた方々へ、お返しに伺いました」
冷ややかに、しかし丁寧に告げる声。
返答する暇もなく、彼の刃は次の魔導士の胸元を切り裂いた。
切る。殺す。また切る。
動きに一切の無駄がない。呼吸を整えるように、儀式のように、殺し続ける。
「ひ……人じゃねえ……!」
先に悲鳴を上げたのは、魔導兵のひとりだった。
ゼフィルは応えない。
ただ淡く微笑みながら、指先をすっと掲げる。
その刹那、敵の足元に展開された小さな魔法陣が淡く光を放ち、次の瞬間、轟音とともに炸裂した。
「なっ……!?」
爆風が舞い上がり、兵たちが吹き飛ぶ。
逃げ惑う影を追うように、ゼフィルは矢継ぎ早に術式を紡いだ。
誰も彼の動きを捉えられない。
言葉もなく、足音すらなく、ただ粛々と命を刈り取っていくその姿は、まさに死神そのものだった。
「ひっ、やめろぉっ!」
後退しながら放たれた炎の魔弾を、彼は指先で軽く払った。
火球はそのまま弾け、元の術者へと跳ね返り——絶叫とともに黒煙が舞う。
森が、再び静寂に包まれる。
息をしている者は、もう数えるほどもいない。
それでも、逃げ延びた数人の兵が、恐慌のままに馬で駆け出した。
ゼフィルの目が細くなる。
(……逃げた先で、情報を持ち帰られては困ります)
風が一筋、夜気を裂いた。
外套の裾を翻し、ゼフィルは無言で地を蹴る。
その動きは静かでありながら、まるで地形を無視するかのような滑らかさだった。
追跡は、始まっていた。
* * * * * *
月影の下、深い森の抜け道。
そこに、息を切らしながら駆ける馬の足音が響いていた。
「く、来るな……来るな来るな来るな……!」
先を急ぐ兵士たちの背後に、風を切る音。
振り返った瞬間、ひとりが胸元を閃光に貫かれ、絶叫もなく落馬する。
「ば、化け物が……!」
続く者もひとり、またひとりと地に伏していく。
残るは、あとふたり。
ゼフィルは速度を落とさない。
次の術式を構築しようとした——その瞬間。
「……っ!」
草陰から放たれた一条の光が、ゼフィルの肩を撃ち抜いた。
魔導弾。しかも、術式を撹乱する特殊なものだった。
鋭い痛みに、ゼフィルの身体が傾ぐ。
その場に立っていた彼は、ゆっくりと膝をついた。
肩から流れ落ちる血が、地面に音もなく滴る。
その音は、静かで、どこか雪解けのように澄んでいた。
ゼフィルは視線を落とし、膝をついたまま目を閉じる。
月光に濡れた血の中。
その姿は、黒よりも深く、紅よりも烈しく、美しかった。
見ていた者たちは誰ひとり言葉を発せなかった。
息を潜め、ただその場の“異様な美”に呑まれるように立ち尽くした。
夜が、静かに深まっていく——。




