第39話 月と鍵と、泣き声と
「……この道、来たことある気がする」
アスランの声。
その一言で、すべてが巻き戻る。
世界が軋み、景色が揺らぐ。
気づけば私は、その坂道に立っていた。
目の前には、まったく同じ表情をしたアスラン。
——回帰した。
ちゃんと、戻れたんだ。
息を吐いた瞬間、目頭が熱くなった。
震える手を押さえながら、こっそりと胸を撫でおろす。
* * * * * *
その夜。私は彼の部屋の明かりが消えるのを待って、そっと扉の外に立った。
——案の定、アスランは部屋を抜け出した。
私は距離を保ち、物音を立てず後を追う。
足取りは迷いなく、街の外れへと向かっていく。
(どこに行くの……?)
やがて、彼は廃れた建物の前で立ち止まった。
蔦に覆われた古びた教会。扉は朽ち、窓は割れ、誰も近づかないはずの場所。
アスランは、ためらいもなく扉を開け、中へと消えていった。
私は鼓動を抑えながら、そっと入口の陰に身を潜める。
やがて、中から微かな声が聞こえた。
「……遅いな」
その声に、私は眉をひそめた。
(誰かいる?)
聞き慣れた、低くて渋い——けれど、今の状況ではあってはならない声。
「悪い。予定が押してた。で、何の話だっけ?」
アスランの声が応じる。
「お前の記憶、本当に戻ってないのか?」
(この声……やっぱりライエル)
けれど、ライエルがこの場にいるのは——監視任務の一環?
確かにアスランの動向を追ってるのは知ってる。
けど、それでも……誰もいない廃教会に現れるなんて、やっぱり違和感がある。
次の瞬間、アスランが口にした。
「……わかんない。けど、夢に見るんだ。……赤い月と、金の鍵。そして——泣いてる誰かの声」
——
時が止まった。
全身から血の気が引いていく。
(え……今……なんて……?)
頭の中が真っ白になる。
(赤い月、金の鍵、泣いてる声……それ、まさか……)
記憶の底から、乙女ゲーム『薔薇と鏡の王国』のあるイベントの映像が蘇る。
あのルート、あの場面。私が何度も繰り返し、泣きながらプレイした“あのイベント”。
——ディアル様のルートでしか見られなかった、特別なシーン。
(どうして……アスランが、その夢を……?)
震える手を握りしめる。息がうまく吸えない。
胸の奥がざわざわと、どうしようもなくざわめく。
(……やっぱり……彼が……)
思考が暴走しそうになる。
(彼が……ディアル様なの!?)
立っていられないほどの衝撃だった。
でも、叫びたくなるこの想いを、私は喉の奥で必死に押しとどめた。
ライエルの低い声が、静かに教会の中に響いた。
「……今はまだ、口を出すな」
「あいつにもまだ……言わないでくれ」
その言葉が、どこか私に向けられたもののように感じて、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
(……あいつって……誰?……ライエルは何をどこまで知っているの……!?)
視界が揺れる。立っているだけで精一杯だった。
アスランが見る夢。ディアル様の記憶。
——私の知っているはずの物語が、音を立てて崩れていく。
(アスランって……いったい、何者なの……?)
* * * * * *
(確かめたい。……けど、今はその時じゃない)
胸の内側がざわつく。さっきの言葉が、耳の奥で何度も反響する。
『……赤い月と、金の鍵。そして——泣いてる誰かの声』
思い出しただけで、喉が詰まる。
——アスランがあの記憶を知っているはずがない。
だけど、それは紛れもなく、私がディアル様のルートで何度も見たイベントだった。
(まさか、アスランが……?)
脳裏に疑念が渦巻く。
でも、いま優先すべきは——
(違う、今は“それ”じゃない)
この夜、彼は死ぬ。
原因はまだわからない。でも私は知っている。放っておいたら、彼は死ぬ。
彼が誰であっても、今は関係ない。絶対に——死なせない。
* * * * * *
ライエルとの会話を終えたアスランは、気だるげに肩を回しながら教会を出た。
私は距離をとりながらその後をつける。彼がどこに向かうのか、一瞬たりとも見逃せない。
「……さっきの話、なんだったんだろう」
呟きそうになる言葉を喉の奥で押し潰した。
アスランは、ふらふらと夜の通りを歩いていく。
誰に声をかけるでもなく、ただ夜風に吹かれるように。
酔っているようにも、眠れていないようにも見えた。
しばらく歩いたのち、彼は路地の先にある小道へと足を踏み入れた。
その先にあるのは、小さな林と、森の入り口。
私は眉をひそめる。
月明かりの下、木々の影が濃くなる。
「……どこ?」
月白草を探していたのかもしれない。だけど、こんな深くまで——
(……危ないって、言えばよかった)
息を潜めて歩き続けたが、アスランの姿は見えなかった。
(見失った——?)
胸がざわめく。早足になる。
そのとき、ふと視界の端に、何かが倒れているのが見えた。
「……アスラン?」
駆け寄った私の足が、そこで止まる。
草の上に、静かに横たわる彼の姿。
争った形跡はない。血も流れていない。
ただ、力を失ったように、彼は眠るように倒れていた。
私は震える手で彼の肩に触れた。
「……アスラン。ねえ、返事してよ」
返事はなかった。
その肌は、もう冷たくなりかけていた。
「……いや、やだ、やだよ……!」
膝をついたまま、私は必死に彼の周囲を探る。
けれど——月白草は、ない。
薬草の香りもしない。袋の中にも何も入っていない。
(……探しに来たんじゃなかったの?)
地面には、折れた枝と、ふたつの足跡。
ひとつはアスランのもの。もうひとつは——
(まさか……ライエル……?)
心がきしむ音がした。
疑いたくなんて、なかった。
でも、ほんの一時間前、彼は——アスランと何かを話していた。
「……どうして、どうしてまた……!」
こみあげてくる涙を拭う余裕もなく、私は彼の傍に膝をついた。
この夜、何があったのかもわからないまま、私はまた——彼を、失った。
* * * * * *
(……戻る。今度は——)
胸の奥が熱くなり、焼けるような痛みが走る。
視界が白く染まり、音が遠のいていく。
——また、あの坂道から始まる。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
昼過ぎの坂道。
足元の石畳を見つめていた私の前を、彼の影がすっと横切る。
「……この道、来たことある気がする」
アスランが呟く。
その言葉に、私は息を呑んだ。
——戻ってきた。
また、ここに。
記憶がはっきりと焼き付いている。
彼が死んだ日。私が回帰した日。
坂道、午後の光、あの言葉。
全部が、同じ。
(今日は、アスランが——)
胸の奥がじくりと疼く。
でも、震えている暇なんてなかった。
(今度は、見失わない)
私は足を踏み出した。
もう一度、彼の“死”に向き合うために。
* * * * * *
午後の任務。アスランは相変わらず軽い調子で現場をこなしていた。
でも私は、それどころじゃない。
彼の言葉ひとつ、仕草ひとつに過剰に反応してしまう。
「あ〜、眠い……昨日あんまり寝てなくてさ」
その言葉で、脳裏に月白草の記憶が蘇る。
(また、今夜——探しに行く気なんだ)
喉がきゅっと詰まる。
彼の言動を止めることはできない。
でも、見ていることはできる。
今度は、そばにいる。
それだけは、譲らない。
* * * * * *
日が沈む頃、私は自室の明かりを落とし、彼の部屋の前に立った。
前回と同じように、アスランは部屋を抜け出す。
そして、夜の街へと歩き出す。
私は静かにその背を追った。
教会跡地へ向かう足取り。迷いはない。
建物の陰に身を隠しながら、私は彼の様子をうかがう。
中では、また——ライエルが待っていた。
その光景すら、 デジャヴのように感じられる。
そして——
「……赤い月と、金の鍵。そして——泣いてる誰かの声」
前回と、まったく同じ言葉が繰り返される。
(やっぱり……)
でも、私はもう驚かない。知っている。
だからこそ、今は“先”を変えなきゃいけない。
* * * * * *
密会が終わり、アスランは街の外れの森へと歩き出した。
私は距離をとって、絶対に目を離さないように尾行する。
森の入り口に差しかかる頃、彼は小さくつぶやいた。
「……ここなら、咲いてると思ったんだけどなあ」
やっぱり、月白草だ。
でも、彼はまだ何も見つけていない。
(まだ……間に合う)
彼の姿が木々の合間に消えたり現れたりする。
私は緊張しながら、その輪郭を見失わないように食らいついた。
そして——
何かの気配が、風の中に混じった。
木の葉がわずかに揺れる。
枝の影に、誰かがいるような錯覚。
私は立ち止まる。
視線を巡らせたが、そこには誰もいなかった。
(……誰か、いる?)
心臓が早鐘のように鳴る。
でも、アスランはそのまま森を抜け、何事もなかったかのように来た道を引き返しはじめた。
私は安堵と混乱の入り混じった気持ちで、その背中を見つめる。
(……今度は、死ななかった?)
——変わった。
ほんの少しでも、前とは違う。
私は、彼を見失わなかった。
それが何を意味するのか、まだわからない。
でも——
(確かに、何かが変わり始めてる)




