第38話 失われた明日
「わっ!」
市場の脇道。ふらふらと歩いていたアスランの前に、あのワンコが勢いよく飛び出してきた。
「おおっ!? おまえ……昨日の!」
しっぽをぶんぶん振りながら、アスランの足元にぴたっと座る。
アスランはしゃがみ込んで、そっと頭を撫でた。
「……許してくれたのかな。オレ、あんなに泣いたのに」
「許すもなにも、すっかり懐いてるじゃない」
私は笑いながら言った。
「……よかった」
アスランの笑顔が、どこか照れくさそうで、でもあたたかくて。
その横顔を見ているだけで、胸がじんわりしてくる。
(こんなふうに、笑っていられる時間が、いつまでも続けばいいのに)
* * * * * *
昼過ぎ、ふたりで街の坂道を歩いていたとき。
アスランが、ふと足を止めた。
「……この道、来たことある気がする」
「え? この街は初めてって言ってなかった?」
「うん。初めてのはず、なんだけど……。でも、知ってる気がするんだよ。ここに、大きな噴水があって——」
彼は指さした先には、今は小さな花壇があるだけだった。
「……おかしいな。なんで、知ってるんだろ」
「誰かと来たのかも?」
「かも。でも、その“誰か”が思い出せない」
アスランはぽつりと言い、少し寂しそうに笑った。
私は何も言えず、ただその横顔を見つめることしかできなかった。
(……思い出せない。でも、何か大事なものが、彼の中に残ってる)
(それを思い出してしまったとき、今の彼はどうなるんだろう)
* * * * * *
王都詰所の一室。ライエルは机に置かれた書簡を前に、深く息を吐いた。
「明日は……休暇をもらえないか」
ぽつりと呟いた声に、副官が目を上げる。
「……珍しいですね。隊長が、自ら休暇とは」
「たまにはいいだろう」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
けれど、胸の奥には確かに熱があった。
(伝えたいことがある。今なら——)
ずっと心に押し込めていた想い。
それをようやく形にできる気がしていた。
「明日の調査の帰還予定に合わせて、迎えに行ってやる」
そう思った時には、すでに立ち上がっていた。
* * * * * *
「今日はありがとう、アスラン。私は先に戻るね」
「うん。……ねえ、ハルカちゃん」
別れ際、アスランが声をかけてきた。
「今日、ハルカちゃんと一緒にいられて、すごく楽しかった」
「……うん、私も」
「また明日も、一緒にいてくれる?」
その問いに、私は迷わず頷いた。
(“明日も”って言われただけで、どうしてこんなに嬉しいんだろう)
(でも、その反面……この気持ちが壊れるのが、怖くてたまらない)
「じゃあ、また明日ね、ハルカちゃん」
アスランがそう言って手を振る。
いつもの笑顔。
私は少しだけ照れながら、でも確かに微笑んで、頷いた。
「……うん、また明日」
(明日も——当たり前みたいに、また会えるって思ってた)
* * * * * *
その夜。
詰所に戻った私の前に、焦った様子の騎士が現れた。
「緊急連絡です。街外れの路地で、身元不明の遺体が発見されました。状況から見て……アスランと推定されます」
その瞬間、私の時間が止まった。
「……うそ」
空気が歪む。視界が揺れる。
鼓動が速くなりすぎて、逆に何も聞こえなくなっていく。
駆けつけた現場には、血の跡も、争った形跡もなかった。
ただ、倒れた彼が、ひとり静かに横たわっていた。
その手元には、小さな布に包まれた何かがあった。
布の端は不器用に結ばれ、ほどけかけていた。
「……あれは……月白草……?」
誰かの呟きが耳に入った瞬間、心臓が跳ねた。
そういえば——あの時、彼が言っていた。
(……眠れない時に、いいって聞いたんだ)
それはきっと、私のために。
夜にしか咲かないその花を、わざわざ探してきてくれたんだ。
「……アスラン……どうして……っ」
私の手が震える。声が詰まりそうになる。
想いの籠ったその包みが、何よりも雄弁に語っていた。
——彼は、私に渡すつもりだった。
それだけが、確かに残された事実だった。
「アスラン……」
彼の体はもう冷たく、その表情はどこか安らかだった。
(なんで……なんでこんなことに……!)
膝が崩れる。手が震えて、目の前の光景をまともに見ていられない。
さっきまで、あんなふうに笑ってたのに。
「……アスラン……っ」
震える指先が、布の包みをそっと掴む。
その温もりが、もう残っていないことが、怖かった。
涙が溢れて、止まらなかった。
叫びたいのに、声が出ない。ただ、心の奥がぐちゃぐちゃになっていく。
——やめて。
——やめてよ、こんなの。
(お願い、もう一度……!)
その瞬間。
視界が揺れた。胸の奥が、焼けるように熱くなった。
魂が軋むような感覚。
熱く、強く、私の中の何かが揺れた。
(……来る——!)
すべてが、光に飲まれていく。




