第37話 明日も一緒に
「……ハルカちゃんが来てくれるなら、オレ、朝から全部がんばれる気がする〜」
扉を開けた瞬間、そんな能天気な声が飛び込んできて、私は思わず呆れたように笑ってしまった。
「そういうの、軽く言わないで」
「えっ、軽いかな? でも本心だよ?」
アスランは、寝癖のままの髪を片手で押さえながら、ベッドの端で器用にパンをかじっていた。
その姿がなんだか無防備すぎて、見てはいけないものを見たような気になる。
「……行くよ。今日は配達の手伝いでしょ?」
「はーい!」
* * * * * *
午前中いっぱい、私とアスランは街中を歩き回っていた。
軽い荷物の配達を手伝うだけの仕事。それでも、ふたりきりで過ごす時間は、いつもより少しだけ特別に感じた。
「ねえハルカちゃん、あの屋台の前って通ったことあったっけ?」
「昨日も一緒に通ったけど……ほんとに記憶ないの?」
「うーん、たぶん。でもなんか、妙に懐かしい気がする」
彼の言葉には、いつもどこか“前に経験したような響き”が混ざっている。
それがなんなのか、私にはまだわからなかった。
* * * * * *
そんなときだった。
通りの角から、子犬が駆けてきた。荷車から転げ落ちたらしい。
それを追って、小さな子どもも飛び出してくる。
「危ない!」
反射的にアスランが動いた。
ぐい、と私の腕を引いて後ろに下げ、自分の身体を盾のように差し出す。
……といっても、荷車は止まり、子犬も無事だった。子どもも軽く転んだだけ。
何事もなくてよかった——と胸をなでおろした次の瞬間。
「……あ〜〜〜〜〜〜」
アスランが地面にへたり込んでいた。
「ど、どうしたの!?」
「ワンコがぁぁぁああ……!!」
よく見れば、転んだ拍子に子犬が尻尾を挟んでしまったらしく、きゅんと鳴いている。
「だ、大丈夫か……?」
アスランが子犬の頭をそっと撫でる。
尻尾を挟んだ部分が少し痛むのか、ワンコは「きゅーん」と弱く鳴いた。
「……ごめんな、ごめんな〜〜〜〜っ!!」
その瞬間、アスランの目から涙がぶわっとあふれた。
「オレ、守ってあげたかったのに〜〜〜〜!!!」
ワンコが心配そうに鼻をすり寄せ、子どもが「あの、お兄ちゃん泣かないで……」とそっと袖を引く。
ワンコと子どもに逆になぐさめられながら、アスランはぐすぐすと泣き続けていた。
子どもよりも落ち込んでる彼の姿に、私は呆れながらも——どこか、胸が温かくなるのを感じた。
* * * * * *
一方その頃——
高台の詰所で、ライエルは広場を見下ろしていた。
アスランがへたりこみ、ハルカが慌てて子犬を抱き上げる。その光景に、思わず目を細める。
(……笑ってる)
以前よりもずっと自然な、やわらかい笑顔。
(守るつもりだった。けど、気づけばもう……あいつは、誰かに守られている側じゃない)
その事実が、胸の奥をじわりと満たしていく。
彼は報告書の空欄を見つめたまま、ペンを動かせずにいた。
『監視対象:特記事項なし』
その先の文が、どうしても書けなかった。
* * * * * *
夜。
宿の前で、アスランと別れ際に立ち止まる。
「……今日は、ありがと。すっごく楽しかった」
「私も。楽しかったよ」
「……じゃあ、また明日も、一緒にいてくれる?」
その言葉に、私はほんの少し、照れながら頷いた。
(“明日も”って言われただけで、こんなに嬉しいなんて)
(でも——なぜだろう。不安が、胸の奥にずっと、残ってる)
* * * * * *
深夜。
アスランは汗ばんだ額を拭いながら、ベッドの上で息を荒くしていた。
夢の中で誰かが泣いていた。
手を伸ばした。届かなかった。
『まって』『まだ行かないで』
声にならない声が、耳の奥で響く。
「……オレは……」
言葉の続きを言えないまま、目が覚めた。
窓の外には、誰もいないはずの路地に、確かに何かがいた。
影。気配。わずかなざわめき。
アスランは、胸の奥が冷たくなるのを感じながら、ゆっくりと手を伸ばした。
その手が、誰かに届く日は来るのだろうか——
* * * * * *
アスランと合流した翌朝、私は目覚めてすぐ、彼がいないことに気づいた。
——また、勝手に出て行った?
怒る気力もなく、私は身支度をして簡単な朝食を済ませる。
彼の行動にはもう、いちいち驚かなくなってきていた。
けれど、それでも。
彼がいつもの調子で帰ってきたとき、思わず口から出たのは、呆れたような安堵のような言葉だった。
「……おかえり。アスラン」
「おう、ただいま。……朝ごはん、もう食べた?」
「とっくに」
「そっかー。じゃ、オレの分……って、えっ、ないの!?」
「自分で用意してください」
「ちぇー……」
そんなやり取りを交わしながらも、アスランは全く気にしていない様子で荷物を下ろす。
その後、調査報告のため、ふたりは王都との通信端末に向かった。
とはいえ、ハルカが操作できるはずもなく、アスランが代わりに端末を操作する。
通信端末といっても、王都と各地を繋ぐ魔導通信は、視覚的な操作が中心だ。
魔力の流れに反応するスロットを押し込んだり、定型文が刻まれたパネルを選んで送信するだけ。
文章の読み書きができなくても、魔力に感応する直感的な仕組みで十分にやり取りは可能だった。
「ハルカちゃんは、こういうの苦手?」
「……うん。ボタンの形はわかるけど、文字が全部……魔導文字で」
「そっか。じゃあ、オレがやっとくね。……えーと、次の定型、これ……っと」
アスランは、指先を魔導盤に軽くかざし、何の迷いもなく定型通信を送信していく。
その手際のよさに、私は素直に感心した。
しばらくすると、通信盤の魔法陣が明滅し、淡く光の柱が立ち上がった。
その中に、魔導研究所の研究員、シェイドの姿が浮かぶ。
「……予定通りか」
淡々としたその口調は、相変わらず感情が読めない。
「補佐は、順調か?」
最初からこちらを見ていた。問いかけというより、監視の継続確認のように思えた。
アスランが苦笑いで肩をすくめる。
「まあまあ、ってとこかな」
シェイドは何も言わず、一瞬だけ視線を私に流す。
冷たいというより、無関心に近い視線。
「……報告は見た。引き続き、任務を」
それだけを告げると、通信は唐突に切れた。
空気が少しだけ冷たくなった気がした。
アスランが、モニターから目を離さないままぽつりと呟く。
「ねえ、ハルカちゃん。昨日、ちょっと眠れてなかった?」
「え……なんで?」
「うーん、なんとなく。目の下、少し赤いなーって思っただけ」
彼の声はいつも通り軽くて、どこか優しい。
シェイドの無機質な言葉のあとだから、余計に心に染みた。
「大丈夫だよ、ちょっと眠れなかっただけで——」
「……眠れないときに、いいって聞いたことがあるんだ。『月白草』って花」
「月白草?」
「うん。夜にしか咲かないやつで、ちょっと甘い香りがしてさ。薬草にも使われるんだけど、なんか……落ち着くんだって」
私は、彼の言葉に目を見張った。
アスランが、そんな風に人の体調を気遣うなんて、ちょっと意外だった。
「アスラン、詳しいんだね」
「たまたまだよ。昔の知り合いが、よく探してたから覚えてただけ」
そんなやり取りに、つい笑ってしまう自分がいた。




