第36話 はじまりの三日間
市場の石畳は、朝露に濡れてつるりと滑る。
人通りの多い通りで、ふと足を取られた私は、前につんのめりかけた。
「あ——」
そのとき。
誰かの腕が、私の手を掴んで支えてくれた。
ぴたりと安定した力。鋼のように硬く、でもどこか、包み込むような温度があった。
「……気をつけろ」
ライエルだった。
あの頃と変わらない声色。でも、ほんの少しだけ——優しかった。
私はとっさに顔を上げられず、ただうつむいたまま、胸の奥のざわつきを押し込めた。
(……前にも、こんなことがあった気がする。あの頃は、もっと“ときめいて”た)
(でも今は……懐かしいのに、ちょっとだけ苦しい)
(——だって、わたしの心には、もうノアがいるから)
(……それでも、こうして優しくされたら。思い出してしまう)
「っていうか、ライエルさん!? すごっ、超反射神経! 騎士ってやっぱ反応速度違うんだね〜!」
アスランの能天気な声が、空気をかき混ぜる。
私は慌てて一歩下がり、手を離した。
「だ、大丈夫。ありがとう、ライエルさん」
ライエルは短くうなずき、すぐに視線を周囲に戻す。
その無駄のない動作に、アスランがじっと見入っていた。
「なんか、見てるだけで背筋伸びるんだけど。オレ、こういう人と一緒にいたことあったっけな〜……」
「……アスラン?」
「ん、いや、なんでもない! さ、朝ごはん朝ごはん♪」
そう言って、勝手に屋台の方へ走り出す。
私とライエルは顔を見合わせ、小さくため息をついた。
「……あいつ、朝からずっと落ち着きがないな」
「そうですね……でも、どこか楽しそうです」
その無邪気さに救われている自分がいる。
でも、それがどこか儚く思えるのは、なぜだろう。
* * * * * *
その日の夕方。
宿の裏手にある小さな花壇で、水を撒いていたアスランが、ふと立ち止まる。
「……この感じ、なんか思い出しそうで思い出せないんだよな」
「また、夢の話?」
私が声をかけると、アスランは顔を上げて笑った。
「うん。夢なのか記憶なのかもわかんないけど……子どもの手を引いて走ってた気がする。何かから、必死で守ろうとしてた」
「……それ、怖い夢?」
「ううん、あったかかった。すごく、大事な時間だった気がするんだ」
私は胸の奥がぎゅっとなるのを感じながら、彼の横顔を見つめた。
(この人は——どこから来たんだろう)
(なにを失って、今ここにいるんだろう)
知りたくて、でも、知るのが怖くて。
そんな相反する感情が、胸の奥で波紋のように広がっていった。
* * * * * *
夜。騎士団詰所の仮設宿舎。
ライエルは窓際の机に腰かけ、ペンを走らせていた。
その手元には、定期報告用の簡素な用紙が一枚。
『監視対象:アスラン』
視線を紙から離し、ふと天井を見上げる。
昼間のやり取りが脳裏に焼きついて離れなかった。
あの瞬間、自分よりも先にアスランがハルカの手を引くのではないか——そんな、訳の分からない焦燥が胸を掠めた。
「……くだらん」
独りごちるように呟いた声は、妙にかすれていた。
窓の外には、まだ灯りの消えぬ民家と、微かに笑い声の漏れる宿の一室。
報告用紙の末尾に、彼は一言だけ付け足す。
『引き続き、観察を継続する』
インクが乾くまでのわずかな間、彼の視線は、夜の闇に溶けていた。
* * * * * *
薄明かりの中、鳥のさえずりが静かに聞こえていた。
目を覚ましたアスランは、ぼんやりと天井を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
(また……変な夢)
暗闇。誰かの声。重なる光と影。
名も知らない誰かが、遠くから呼んでいる。
『おまえは……誰だ』
はっとして、アスランは身を起こした。
額にうっすら汗が浮かんでいる。
「なんなんだよ、もう……」
自分でも理由のわからない焦燥が、胸の奥をじりじりと焼いていた。
* * * * * *
昼下がり、私はアスランと並んで、街の広場を歩いていた。
彼の手には焼きたてのパン。私は資料の包みを抱えている。
「……あのさ、これ言うと変かもしれないけど」
アスランが、不意に言った。
「こうやって、誰かと昼飯食って、何でもない話してるの、なんか懐かしい気がするんだよね」
「懐かしい、って……記憶、戻ってきてるの?」
「うーん、違うんだけど……風景とか、感覚とか。デジャヴってやつ?」
私は黙って頷いたけれど、胸の奥がざわめいていた。
(また、“懐かしい”って……やっぱり、なにか覚えてる)
気づけば、私は彼の横顔ばかり見ていた。
明るくて無邪気で、でもどこか寂しそうで。 その笑顔が、ふいに心を掴んで離さなかった。
(……やだ、今の私、なんでこんな——)
* * * * * *
夕暮れ時、詰所の二階から、広場を見下ろす影がひとつ。
ライエルは窓辺に立ち、手元の報告書に視線を落としていた。
紙の上には、定型句で綴られた文面。
『監視対象、特記事項なし』
けれど、視線の先には——ハルカとアスランの姿があった。
パンをちぎって分け合いながら、笑い合っているふたり。
「……ずいぶん、よく笑うようになったな」
ライエルの声は低く、誰にも届かない。
(……あいつといるときのお前の笑い方、いつからそんなふうになった?)
(ノアと一緒に過ごして、何があった?)
わからない。けれど、胸の奥がざらついていた。
“騎士”として、守ることに迷いはない。
けれど——ただそれだけで済ませられるほど、単純でもない。
* * * * * *
夜。
私は騎士団詰所から出てきたアスランを見かけて、小さく手を振った。
「お疲れさま。調査、長引いた?」
「うん、ちょっとだけ……」
そう言った彼の足取りが、少しふらついた。
「——アスラン?」
私は慌てて駆け寄り、肩を支える。
体温が、妙に低い。触れた指先がひやりとした。
「だ、大丈夫?」
「……ごめん。ちょっと、変な感じで……目が、回る……」
アスランは額を押さえながら、苦笑した。
その姿が、なぜかひどく儚く見えて——
(なにこれ……アスラン、いったい何が起きてるの?)
* * * * * *
その夜。
アスランは眠っていた。
けれど、心は眠っていなかった。
闇の中、幾重にも重なる声が響く。
『戻れ』『まだだ』『見つけなければ』『目覚めよ』『誰だ』
——『おまえは……誰だ』
その言葉に、アスランは答えようとして——
「……おれ、は……」
言葉の途中で、目を覚ました。
暗い天井を見つめ、胸を押さえる。
自分の心が、何かを思い出そうとしている。 でも、それが何かは、まだわからない。
(オレは……いったい、誰なんだ)




