第32話 君は、もうそこにいた
午前の研究所は、不思議なほど静かだった。
まだ人の少ない早朝の時間帯。
窓から差し込む陽光が、書架や机の影を長く伸ばしている。
ノアに呼ばれたのは、資料の整理を手伝ってほしいという理由だった。
けれど、通されたのは、ふだんあまり使われていない個室だった。
扉が閉まる音に、少しだけ胸が高鳴る。
(大丈夫。……ちゃんと、伝えるって決めたんだから)
ノアは机の上の魔導式ファイルを整えながら、私に背を向けたまま言った。
「……昨日、言ってたよね。話したいことがあるって」
「……はい」
静かに椅子を引いて腰かける。
「ノア、私……ずっと、伝えたかったんです」
ノアが動きを止める。ペンを握ったまま、こちらを向かない。
「あなたのことが、気になってた。ずっと」
「最初は、あなたのこと、ただの“観察者”だと思ってた」
「でも、話して、見て、触れて……こんなふうに揺さぶられるなんて、思ってなかった」
息が少しだけ乱れる。
ノアは、ゆっくりとこちらに振り返った。
その顔は、無表情というよりも、どう表情を作っていいのかわからないような、そんな曖昧なものだった。
「……君は、優しいよね。誰にでも、そうなんじゃないかって思うときがある」
「違います」
思わず、語気が強くなった。
「私は……ノアだから、放っておけなかったんです」
「ノアが、私のことを見てくれてたみたいに、私も……ずっと、あなたを見てました」
ノアの指が、机の端をぎゅっと握る。
目が伏せられ、その睫毛がわずかに震えた。
「……なんで、そんなふうに泣きそうな顔をするんだよ。僕のために」
「だって、あなたが……もういなくなってしまうかもしれないって、そう思ったから」
言葉が、静かに、けれど確かに届いていくのがわかる。
私はそっと手を伸ばした。
迷いながら、けれど覚悟を込めて、ノアの手に触れる。
その瞬間——
部屋の空気が、かすかに揺れた。
淡く光る魔導具の封印が、音もなく、かすかに脈打つ。
ノアが、目を見開いた。
「……今のは」
私も気づいていた。魔術的な反応。
でも、それ以上に、
胸の奥で、何かが“共鳴”した気がした。
「……やっぱり、君って、不確定要素の塊だね」
ノアが、どこか呆れたように、でも優しく微笑む。
「それでも、あなたに届くようにって思ってる」
私も、微笑み返した。
ふたりの視線が、静かに交差する。
それはまだ、すべてが通じ合ったわけじゃない。
でも、確かに“届いた”という確信だけが、胸の奥に灯っていた。
* * * * * *
研究所を出た帰り道、ノアと私は並んで歩いていた。
午後の光が、舗道の影を長く伸ばしていく。
沈黙が続いていた。
共鳴のあの瞬間から、お互い何を言えばいいのか分からずにいる。
でも、私はもう決めていた。
(今日、ちゃんと伝えなきゃ。今度こそ)
足元ばかり見ていた視線を上げると、ノアの横顔が見えた。
少しだけ眉間に皺を寄せていて、何かを考えているようだった。
「ノア」
私が呼ぶと、彼はゆっくりと立ち止まり、こちらを見た。
「昨日のこと……あれ、共鳴だったと思う」
ノアがぽつりと呟いた。
「魂が触れ合ったときにしか起きない反応。あれは偶然じゃない」
私は、ふっと息を吸い込んだ。
「……うん、そうだよ」
胸の奥から溢れそうな気持ちを、必死に飲み込むようにして言葉を続ける。
「私……ずっと、伝えたかったの。でも、怖かった。届かないと思ってた」
ノアの目が、少しだけ見開かれる。
私はノアの袖をそっと掴んだ。
彼の目がわずかに揺れる。
「私の世界には、ノアが必要。どうしようもないくらい」
「だから、勝手に消えようなんて、もう言わないで」
「私は……あなたと一緒に、この先を歩いていきたいんです」
ノアは黙ったまま私を見つめていた。
その瞳に、はじめは戸惑いが浮かんでいた。
けれどそれは次第に、熱を帯びた光に変わっていった。
「……そんなふうに言われたの、初めてだ」
低く、かすれた声だった。
そして、そのままそっと目を伏せる。
睫毛の先から、透明な雫がひとすじ、頬を伝う。
私の胸の奥がじんわりと熱くなった。
ノアは顔を上げ、ゆっくりと笑った。
ほんの少しだけ、はにかんだような、そんな笑みだった。
「君って、やっぱり予測不能だね」
私はその言葉に、思わず笑ってしまった。
「……でも、今なら、少しだけ信じられる気がする」
ノアは、そっと言葉を続けた。
「……君の世界にも、僕がいていいって」
私は何も言わずに、そっと彼の手を取った。
ノアもまた、静かにその手を握り返してくれた。
夕陽の光の中で、ふたりの影が重なる。
言葉の奥で、確かに響き合う何かが、そこにあった。
* * * * * *
薄明の空の下、静寂だけが部屋に満ちていた。
ノアは机に向かっていた。
右手には魔導波形の記録紙。左手には、彼女が震えるような筆跡で書き残したノートの切れ端。
『わたしのせかいに、ノアがひつよう。ど うしようもなく』
綴りは甘く、文法も破綻している。
でも、伝えたかったんだろう。……必死で。自分の手で。
——それだけのために、この文字を、覚えてくれたんだ。
「……馬鹿だな、ほんと」
笑おうとして、うまくできなかった。
声が掠れた。喉の奥が熱い。
「たったこれだけのために……」
彼女の世界には“ノア”が必要。
たどたどしい字で、そう書かれていた一文が、
静かに、でも確かに、彼の心を打ち抜いていた。
ノアは震える手で、その紙片を丁寧に折りたたんだ。
その手つきはまるで、壊れやすい宝石を扱うようで——
彼は引き出しの奥から、小さな金属製の箱を取り出す。
誰にも見せたことのない私物。
魔導記録や成果報告のメモ、それに……過去の記憶のかけらを閉じ込めた箱。
迷いなく、その切れ端を中に収め、ゆっくりと蓋を閉じた。
——まるで、宝物のように。
* * * * * *
魂の共鳴——魔術的な現象のひとつ。
だがその本質は、単なる魔力波形の干渉ではない。
魂の深層、意志と記憶と感情が“強く”共振したとき、世界そのものにわずかなひずみを生む。
最近得られた報告と、祠の封印変動ログ、そして自らの記録を突き合わせたとき。
ノアの中で、ひとつの仮説が形を成し始めていた。
「共鳴とは……単なる干渉じゃない。魂の波が、現実に影響を及ぼす——」
ノアは、立ち上がって机を歩き回る。
言葉にならない興奮が、脳を駆け巡っていた。
「もし、強い感情が閾値を超えたとき……魂そのものが、時の流れに干渉する可能性がある?」
つまり、それは——
魂が、時間を超える現象—回帰—。
“回帰”の本質は、魔術ではなく、共鳴の果てにある奇跡なのかもしれない。
そう思った瞬間。
ノアの中に、ある記憶が閃くようによみがえった。
(……あれは)
「ノアさん、あの……今日の測定、少し延期できませんか?」
あの測定日。妙に怯えたような目で、突然そう言ってきたハルカ。
あれは不自然だった。初期段階の彼女に、測定内容のリスクなど知るはずもなかったのに。
(まるで、結果を知っているような——)
次に浮かぶのは、あの夜のこと。
「……ノア……ノア……! よかった……生きてて……」
涙を流しながら、自分の名を繰り返し呼んだ、あの声。
“安堵”ではなく、“確信の反転”に近い何か。
彼女は、最初から知っていた。
いや——体験していた。
ノアは、震える手で机を支えた。
視界がわずかに滲む。
「彼女は……一度、僕を失って——それでも、“戻ってきた”というのか……?」
胸の奥に、痛みとも熱とも言えない感情が渦巻く。
なぜ気づかなかった。
なぜ、気づけなかった。
あんなにも自分を見つめてくれていたのに。
あんなにも、必死に想いを伝えてくれていたのに。
「どうして……君は、そんなことを……っ」
喉が焼けつくように熱い。
手が震える。呼吸が乱れる。
それでもノアは、吐き出すように呟いた。
「バカだ、君は……! そんなの、壊れてしまってもおかしくないのに……っ」
唇を噛みしめる。
感情が理性を飲み込んでいく。
だけど——
それでも、
彼女は、もう一度手を伸ばしてくれた。
彼女の世界に、自分が必要だと言ってくれた。
ノアはゆっくりと深呼吸し、席に戻る。
震える手で、ノートを開く。
* * * * * *
ノートに記す文字は、すでに感情と理論が融合した言葉になっていた。
『共鳴条件:魂の双方向的干渉/強い感情の臨界点』
『回帰未発動例:一方通行/自己犠牲的放棄』
『現在状態:双方向成立・安定共鳴』
そして、最後に。
『目標:君の世界で、生きること』
ペンを置いた指先が、静かに机を叩く。
「……確かに、君がいた」
その声には、涙と決意が滲んでいた。




