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第31話 あなたの名前をもう一度

 足音が響く。

 廊下を駆け抜ける風が、胸のざわめきを煽る。


 (お願い、ノア……そこにいて)


 階段を上がり、扉の前に立った瞬間、手が震えた。


 ノックする前に、思わず息を呑む。


 (——生きてて)


 願いにも似た想いが、唇の内側で震える。


 コンコン、と控えめに扉を叩いた。


 沈黙。


 けれど、数秒後——


 「……どうぞ」


 扉が開いて、ノアが顔を出した。


 その姿を見た瞬間、視界が滲む。


 「あ……ノア……」


 生きている。目の前に、ちゃんと、いる。

 胸の奥が熱くなって、何も言えなくなった。


 ノアは少しだけ眉をひそめたが、静かに扉を開けてくれる。


 私はそっと中へ入った。


 淡い魔光石の照明が灯る部屋は、書類と本と魔導具が整然と並んでいた。


 ノアは椅子に腰を下ろし、私にはベッドを示す。

 少し離れた位置。距離が、まだある。


 「……用件は?」


 冷たいわけじゃない。でも、どこか乾いている。


 私は口を開く。


 「……あの、さっきの記録を見て。……ノアが、どんな気持ちで……」


 「見たんだ、あれ」


 ノアが口元に笑みを浮かべる。

 けれどその笑みは、いつかのような優しさではなかった。


 「君は……強いね。あんなの見ても、平然としていられるんだから」


 「そんな……っ、平然なんてしてません。私は、ちゃんと伝えたくて——」


 その瞬間だった。


 ノアが立ち上がった。

 ゆっくりと、でも確実な足取りで近づいてくる。


 私は一歩も動けなかった。


 「ねえ……わかってる?」


 低い声。目の奥に、熱を秘めた光。


 「僕が、どれだけ我慢していたか」


 目の前に立つと、ノアは私の手首をとる。

 そして、ゆっくりと——けれどためらいなく、そのまま私をベッドに押し倒した。


 視界が揺れる。背中が柔らかい寝具に沈む。


 ノアの顔が、すぐそばにある。

 呼吸が近くて、少し乱れていて、頬に触れるかと思うほど近かった。


 「……ずっと、ずっと、見てきた。君が、誰かを見るその目を」


 長い睫毛に、揺れる光が淡く差していた。

 その睫毛の奥の瞳に、張り詰めた何かが見えた。

 怒りでも悲しみでもない、けれど、どこか脆くて危うい色。


 「僕には、向けてくれなかった。あんな笑顔も、あんな視線も」


 ノアの声は、感情を抑え込もうとするたびに、ほんの僅かに掠れて揺れた。


 私は何かを言おうとして——けれど、喉が詰まって、声にならなかった。

 ただ、見上げるしかなかった。


 「なのに、どうして。今さら、こんなふうに来るの?」


 彼の手が、震えていた。

 押し付けられていたはずの力が、少しずつ緩んでいく。


 その瞬間、ノアの表情がほんの僅かに歪んだ。


 「……ごめん。今のは、忘れて」


 ノアはふらりと身体を起こし、ベッドから立ち上がった。

 背を向けたその肩が、ほんの少しだけ揺れている気がした。


 「帰ったほうがいいよ」


 その背中に、何かを言おうとして——私は、ぎゅっと拳を握った。


 「……いやっ!」


 ノアの背中が、ぴくりと揺れる。


 「帰らない。……帰ったら、また同じことが起きるかもしれない。そんなの、もう嫌なの」


 私の声が震えていた。でも、それでも、言葉は止まらなかった。


 「今度こそ、ちゃんと伝えたいの。ノアが、いなくならないように……!」


 ノアは、ゆっくりと振り返った。

 その瞳に映る私を、確かめるように見つめていた。


 「……言いたいことは、ちゃんとあるの。でも……いまは、まだ言葉にならなくて」


 ノアの目が、すこしだけ和らいだ気がした。


 「……明日、話す。ちゃんと伝えるから」


 それだけ言って、私は部屋を後にした。


 

 * * * * * *

 

 夜明け前の静けさが、部屋の隅々にまで染み込んでいた。


 眠れなかった。

 ベッドに横たわっても、瞼を閉じるたびに思い出してしまう。


 ——ノアの手の温度。

 ——掠れるような声。

 ——そして、あの震える瞳。


 (……今日、話すって言ったのに)


 私はまだ、何ひとつ伝えられていない。


 ノートを開く。


 昨夜、どうしても言葉にできなかった気持ち。


 『薔薇と鏡の王国(ロズミラ)』で見たノアは、誰にでも冷静で、皮肉屋で、突き放したような人だった。でも、いま目の前にいる彼は違った。


 私の目を見て、ふいに名前を呼び、何気ない仕草で手を差し伸べてくる——そんな“感情を見せるノア”に触れたときからだったと思う。「この人を、もっと知りたい」と思いはじめたのは。


 誰かと笑っている私を見て、ほんの一瞬だけ表情を曇らせた顔も。


 私の世界に自分がいないと思い込んで、そっと姿を消そうとした——そんな壊れやすいほど繊細なノアの心。


 「資料、渡し忘れてた。……ついでに、ちょっと話がしたかっただけ」


 あのときの声は、優しさでも理屈でもなく、ただ真っ直ぐで。

 それを思い出すたび、胸がぎゅっと締めつけられる。


 笑うでも怒るでもなく、ただ静かに私を見つめていた。


 そして——二度目の回帰後、ふいにからかってきたり、照れ隠しのように視線を逸らしたり。

 そんな“今まで見たことのない彼”が、心の奥に沁み込んできた。


 それらすべてが、好きとか嫌いとか、そんな単純な言葉では言い表せない、重たくて熱を帯びた感情になっていた。


 (……そうか、私、ちゃんと見てたんだ。ノアのこと)


 不器用に心を隠す彼の、その奥にあるものを。

 触れたくて、踏み込みたくて、でも怖くて——それでも、ずっと目が離せなかった。


 私はページをめくり、インクの染みた紙面を見つめた。

 かすれた筆跡が残るそこに、私は震える手で文字を刻む。


 ——この言葉だけは、間違えたくなかった。


 何度もノアの書いた記録を見て、綴りをなぞって、読み方を思い出して。

 不恰好でも、ゆっくりと、ひと文字ずつ。


 『私の世界には、ノアが必要。どうしようもないくらい』


 滲んだインクの線を、指先でそっとなぞる。

 胸の奥がきゅっと痛んで、それでも——消えない。

 この気持ちだけは、きっと、本物だから。



 * * * * * *


 朝、研究所の廊下でばったりノアと出くわした。


 私が立ち止まると、ノアも足を止める。


 「……おはよう」


 声は落ち着いていた。でも、どこかぎこちなさが残る。


 「おはようございます」


 私はできるだけ自然な声を返した。


 ノアは手に持っていた資料ファイルを差し出す。


 「昨日の続き。……資料、整理しておいた」


 「ありがとうございます」


 ファイルを受け取った瞬間、指先がふれた。

 ノアは一瞬だけ、手を引くのをためらったように見えた。


 「……昨日のこと、すまなかった」


 ぽつりと、目を逸らしたままの声。


 私は首を横に振った。


 「……謝らないでください。私も、何も言えなかったから」


 その言葉に、ノアの目が少しだけ揺れる。


 (違う。これは、謝罪で終わらせる話じゃない)


 彼が背を向けて歩き出そうとした瞬間、私は咄嗟にその袖を掴んだ。


 ノアが、驚いたように振り返る。


 「ノア……」


 息が震えそうになるのをこらえて、私は言った。


 「今日は、ちゃんと話します。……あなたに、私の言葉を」


 ノアの睫毛が、わずかに揺れた。


 そして——静かに、頷いた。




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