第30話 もう一度、君の声で
終業のチャイムが鳴る。
私が荷物をまとめていると、ノアが不意に呟いた。
「今日は……ありがと」
そのまま背を向けて、静かに去っていく。
私は、思わずその背中に手を伸ばしかけ——
(ううん。まだ、ここから)
拳をぎゅっと握りしめて、心に誓う。
(まだ終わってなんかない。彼がそこにいる限り、私は——)
* * * * * *
中庭の木陰。木洩れ陽の差すベンチに、黒の軍服姿の男性が静かに座っていた。
(……ライエル!!)
思わず足が止まる。任務から戻ってきたばかりなのか、制服には土埃がついている。
久しぶりに見るその姿に、胸の奥がきゅっとなる。
気づかれたくないような、でも声をかけたいような——
会いたかった、わたしの“推しの原点”。
ずっと恋しかったはずの人。でも、今は——
(……ノアのことで、気持ちがいっぱいで……)
視線を落としていると、
「……ハルカ」
低く、けれど確かに響く声。
顔を上げると、ライエルがこちらを見ていた。
「無事で、何よりだ」
その言葉には、硬さの奥に安堵が滲んでいた。
「……あ、はい。ライエルさんも、お疲れさまです」
私がぎこちなく頭を下げると、彼は一歩だけ近づいて、少し戸惑いながらも口を開く。
「王都に戻ってから、ずっと……心配していた。姿が見えなかったから」
そして、ごく自然な動きで、私の頭にそっと手を置いた。
「……よかった」
その大きな手のひらに、胸がじんわりと熱くなる。
その目に、ほんの一瞬だけ迷いと安心が交錯するのを見た気がして——私は、少しだけ微笑んだ。
ライエルはひとつ頷いて立ち上がり、足音を残して去っていく。
それだけの、ほんの短いやりとり。
でも、どこかあたたかくて、懐かしくて——思わず私は微笑んでしまった。
その瞬間だった。
廊下の陰に、淡い青緑の髪が揺れるのが見えた。
ノアが、じっとこちらを見ていた。
目が合う前に、彼はふいと視線を逸らし、そのまま背を向けて歩き去ってしまう。
まるで、何かを見てしまったように。
(ノア……?)
ざわりと、胸が揺れた。
* * * * * *
その日の夕方、私は端末の整理中に、あるファイルを見つけた。
「NOA-050」——見覚えのない記録。
削除済みと表示されていたが、断片的に音声データが残っているようだった。
(……昨日のファイルとは、別?)
おそるおそる、再生ボタンに触れる。
『笑っていた。彼と、幸せそうに。あんな顔、僕には見せたことがあっただろうか。』
ノアの声だった。
淡々としているのに、どこか苦しげで、乾いた響き。
『僕が見てきたのは反応じゃない。君の“気持ち”だ。
……それが僕に向いていないことなんて、わかってた。でも、ちゃんと突きつけられたのは、初めてだった。』
息をのむ。
『彼女の心には、彼がいる。なら、僕がいる理由は……もうない。』
(そんな……)
記録の最後、彼の声はほとんど囁きのようだった。
『彼女の世界に、僕はいらない。……でも、僕の世界には、彼女しかいなかった。それだけだ。』
その言葉が終わった瞬間、血の気が引くのを感じた。
(そんな……そんなの……!!)
胸がざわめき、息が詰まりそうになる。
あの夜、ノアは——この言葉を最後に、自ら命を絶った。
(私……止められなかったの!?)
ガタンと椅子を引き、私は立ち上がる。
(今は違う。今は、まだ……!)
部屋を飛び出し、廊下を駆ける。
どこにいるの? お願い、姿を見せて——




