第29話 それでも君が笑ったから
朝が来た。
光が、部屋の隅をやさしく照らしている。
私は目を覚ますと、反射的に横を向いた。
——そこに、ノアがいた。
ソファに浅く腰をかけたまま、眠っている。
少し乱れた髪。眼鏡は外され、胸元で軽く腕を組んでいた。
(……生きてる)
昨夜のことが、全部夢だったんじゃないかって、ずっと怖かった。
だから、こうして彼の寝息が聞こえる今が——本当に、奇跡のようだった。
けれど。
(……止められた、よね?)
心の奥で、まだ確信が持てない。
彼の中で「何か」が変わったのか、それとも——
今はただ、たまたま死なずに“そこにいる”だけなのか。
私は小さく息を呑んで、枕元からそっと体を起こした。
* * * * * *
「……おはよう」
少しして、ノアがまぶたを開いた。
寝起きの声は低く掠れていて、それなのに、やわらかかった。
「おはようございます」
言葉を返した瞬間、涙が出そうになった。
このやり取りが、当たり前のように交わせることが——嬉しくてたまらなかった。
ノアは水を注ぎ、コップを一つ私のほうへ滑らせてくる。
何気ないその手つきすら、私はこっそり観察していた。
(表情……しっかりしてる)
(声のトーンも落ち着いてる……でも……)
時折、ふと目が虚ろになる瞬間。
沈黙が一拍だけ長く続いたとき。
——その“隙間”に、私はどうしても不安を感じてしまう。
(まだ……あの夜の名残が、どこかに残ってる)
ノアがぽつりと呟いた。
「……昨日のこと、覚えてる?」
「……ぜんぶ、ですか?」
「忘れてた方がよかった?」
飲んでいた水を軽く吹きそうになった。
なんとか飲み込みながら、私は真っ赤な顔で言い返す。
「そんなことないです。むしろ……あれを言えた自分を、褒めてやりたいです」
ノアが少し目を丸くしてから、ふっと笑った。
「……自分で自分を褒める君って、初めて見た」
「でも、そういうのも……悪くないね」
笑いながらそう言う彼を見て、私は安心しそうになって——すぐに我に返った。
(だめ。安心しすぎないで)
(だって、私は“あの後”を知らないんだ)
(この先、彼がどう動くのか——まだ、わからない)
* * * * * *
廊下で出くわしたゼフィルは、私の顔を見るなり、静かに立ち止まった。
「……昨日より、瞳の色が澄んでいますね。彼のも、貴女のも」
「……わかるんですか?」
「魔力の流れに、影響が出ていますから」
ゼフィルは少しだけ口元を緩めた。
「“誰か”が彼を変えたのだとしたら——その人は、たいへん貴重な存在です」
私はその言葉に、ただ静かに頷いた。
でも心の中では、まだざわついていた。
(本当に、変えられた……のかな)
* * * * * *
ノアの研究室の前に立つ。
ドアに手を伸ばす直前、私は一度、深呼吸をした。
(まだ怖い。でも、あの夜よりずっと希望がある)
ノックの音に応えて、ノアがすぐに扉を開けた。
「……また来たんだね」
「はい。また来ました」
ノアが少しだけ照れくさそうに笑う。
「……昨日の続き、する?」
私は顔を赤くして言い返した。
「またからかうつもりですよね!? 昨日の分、もう十分恥ずかしかったんですけど!」
ノアが声を立てて笑った。
私はその笑顔を、できるだけ長く、心に焼きつけた。
(この朝が、奇跡で終わらないように)
(私はまだ、見つめ続ける)
(彼が“生きていたい”と思える日が、きっと来ると信じて)
* * * * * *
研究棟の廊下を、私はそっと歩いていた。
(今日も……ちゃんと、そこにいてくれるかな)
昨日の夜、私は確かにノアを引き留めた。けれど、それが夢だったような気もして、心の奥がざわついていた。
すれ違った研究員とは軽く挨拶を交わしたけれど、意識はずっと別のところにあった。
「……おはよう、ハルカ」
聞き慣れた、けれど少しだけ低く落ち着いた声が、背後から届いた。
振り返ると、淡い青緑の髪が朝陽に揺れていた。ノアだった。
(……よかった。本当によかった)
「おはようございます……!」
胸の奥に込み上げるものを飲み込んで、私は無理に笑った。
ノアは一瞬まばたきして、ふっと微笑んだ。
「……君って案外、表情豊かだよね」
驚いたように、けれどどこか嬉しそうに。
その笑顔が、少しだけぎこちないのがまた愛しくて——私はまた泣きそうになった。
* * * * * *
ノアは、変わらず穏やかな口調で接してくれる。
……でも、どこか、怖がっているようにも見えた。
(あの夜、私がどんなに想いをぶつけても、彼には届ききってなかったのかもしれない)
信じてほしいと願う私と、信じることに臆病な彼。
たった一歩が、まだ遠い。
久しぶりに見る実験室は、少しだけ空気が違って感じられた。
ノアは無言で試薬を並べ、端末に数値を打ち込んでいく。
その手元を、私は黙って見つめる。
……あの時と同じ、けれど確かに違う。
(今、この時間を取り戻せたんだ)
ふと、ノアがこちらを見た。
「……何か変な顔してる」
「っ、そ、そんなこと……!」
私が慌てて目を逸らすと、ノアはくすっと笑った。
「……冗談」
淡い、優しい声音。
ああ、本当に戻ってきてくれたんだ。
* * * * * *
終業のチャイムが鳴る。
私が荷物をまとめていると、ノアが不意に呟いた。
「今日は……ありがと」
そのまま背を向けて、静かに去っていく。
私は、思わずその背中に手を伸ばしかけ——
(ううん。まだ、ここから)
拳をぎゅっと握りしめて、心に誓う。
(まだ終わってなんかない。彼がそこにいる限り、私は——)
ふと、ノアの机の端末に目をやる。
その片隅に、小さな“ノイズのような魔力の揺らぎ”が残っていた。
(……これ、まさか)
かすかに光るその痕跡は、まるで何かのログが、無理やり消去された名残のようだった。
触れるのが怖い。けれど、目が離せなかった。
(ノアの“ほんとう”が……あそこに残っている気がする)
再び、私の時間が動き始めていた。




