第28話 その声に、応えて
装置の波形は、限界近くまで上昇していた。
魔力の共鳴値が、揺らぎながら、確かに臨界へと迫っている。
ゼフィルは静かにモニターを見つめ、呟いた。
「共鳴反応、現在92%。あと少しで……」
あと少し。
でも、届かない。
私はノアの音声記録を再生しながら、何度も思い出そうとした。
彼が差し出した記録紙、測定のたびに交わした言葉、あのさりげない笑顔——
けれど、臨界には届かない。
(……足りない。まだ、何かが)
ノアの声が、もう一度、スピーカーから流れた。
『——くだらない。これは、研究じゃない。
……でも、本当は——』
音声が途切れる。
途中で切られたような記録に、私は思わずログファイルを探った。
ゼフィルがその横で、静かに呟く。
「……未処理の音声記録があります。非公開フラグがかかっていますが、解除可能です」
「お願い……聞かせて」
再生された音声は、さきほどよりもずっと小さく、掠れていた。
そこに、ノアが非公開にしていた断片的な言葉が残っていた。
「彼女が笑うと、胸が苦しくなる。呼吸がうまくできない。
こんな感覚は知らなかった。……これはもう、観察なんかじゃない」
「……きっと、僕はこの人を——、愛しているんだ」
その瞬間、何かが崩れた。
胸が熱くなる。視界がにじむ。
込み上げてきたのは、悲しみでも後悔でもなく——“愛されていた”という確信だった。
(こんなにも……こんなにも、私のことを……)
思い出す。
不器用な優しさ。重ねられた指先のあたたかさ。
観察者の顔の奥に、隠されていた想い。
(どうして、もっと早く気づけなかったんだろう)
(私も……こんなにも、ノアさんのことを……)
言葉にならない想いが、胸を締めつける。
伝えたい。今なら言える。
「ノア……私、あなたに——」
その瞬間、装置が高く警告音を鳴らした。
ゼフィルが振り向く。
「——臨界突破。揺らぎ、発生中!」
視界が歪んだ。
空間が、光の粒で満たされていく。
深い水の中に落ちるような感覚。けれど、怖くなかった。
(もう一度——会いたい)
(もう一度、今度こそ……伝えたい)
世界が反転する。
脳が追いつく前に、意識が引き戻されていく。
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「資料、渡し忘れてた。……ついでに、ちょっと話がしたかっただけ」
聞き慣れた声が、耳に届いた。
顔を上げる。そこには、白衣を着たノアがいた。
表情も声も、前と同じ。けれど——もう、私は知っている。
(戻った……!)
全身が震えた。
ここは、あの夜だ…。
もう、彼の想いを知らないフリなんて、できない。
(今度こそ、ちゃんと……応える)
胸の奥が静かに熱を持つ。
私は、もう一度ノアを見つめた。
* * * * * *
白衣の裾、静かな足音。夜の香り。
——間違いない。この夜。ノアが、自ら命を絶った、あの夜。
心臓が跳ねた。喉が焼けるほど詰まった。
でも、そこにいる。ノアは——まだ、生きている。
「ノア……っ」
名前を呼んだ瞬間、感情が決壊した。
震える声。立ち尽くす足。
涙がこぼれるより早く、心が叫んでいた。
「ノア……ノア……! よかった……生きてて……」
「ごめん、ごめんなさい……ほんとは……!」
ノアが驚いたように目を見開いていた。
その表情に戸惑いと動揺、そして——微かな困惑。
「……どうしたんだい。君がそんなふうに……」
私はかぶりを振り、涙をぬぐいながら言葉を繋ぐ。
「夢を見たの。ノアさんが、いなくなる夢……」
「どれだけ呼んでも、届かなくて……苦しくて、怖くて……」
「だから、今ここにいてくれて、本当に……本当に嬉しい……!」
ノアの瞳が揺れる。
けれど今、私はもう“拒絶”なんてしない。
「ノアさんのこと……好き」
「声も、仕草も、皮肉屋なところも。
笑うと目がちょっと細くなるところも、真剣に怒ると耳まで赤くなるとこも——」
「全部、ちゃんと見てた。ちゃんと、好きだったの」
ノアは絶句していた。
目を大きく見開いたまま、しばらく言葉を失っていた。
「君……今、何を……」
私は小さく笑って、彼から資料を受け取った。
「ありがとう。……資料、受け取ったよ」
「それと、“話”、まだ聞いてないんだけど?」
空気が少し緩んだ気がした。
そして——ノアが、かすかに微笑んだ。
ノアは視線を外し、立ち上がった。
「……じゃあ、そろそろ行くよ。遅くに悪かったね」
その言葉に、胸がざわつく。
このまま帰してはいけない気がした。
「……待って!」
思わず声を上げていた。
ノアの足が止まる。こちらに視線が返ってくる。
「……朝まで、一緒に……いてくれませんか?」
言った瞬間、自分でも赤面した。
(何言ってるの私!? でも……でも、目を離したら、また——)
ノアが硬直した。
頬がみるみる赤くなっていく。
「……な、何を……言って……?」
あの冷静なノアが、動揺で視線を泳がせている。
いつもの“観察者”の面影は消え失せ、そこにいるのは——
一人の青年だった。
私は、真っ直ぐに見つめ返した。
「ごめんなさい、変なこと言ったよね……でも、なんだか……」
「今、あなたを一人にするのが怖いの。……だから」
ノアの視線が揺れた。
何かを抑え込むように、肩がわずかに震える。
「君……本気で……」
私は頷いた。
「今度こそ、ちゃんと向き合いたいの。あなたと、あなたの気持ちと」
ノアはゆっくりと、ソファのそばまで戻ってきた。
部屋の静寂が、どこか優しく変わっていく。
「……じゃあ、少しだけ。……朝までは、長いからね」
ノアが戻ってきて、静かにソファに腰を下ろした。
距離はさっきと同じ。でも、空気はまるで違っていた。
(え、ほんとに引き止めちゃった……!?)
(な、なに話せばいいの!? 無理じゃない!?)
(いや、ゲームの中なら5股くらい余裕だったけど!?)
(リアルは! 違う!! まじで無理!!!)
頭の中でテンパりながらも、外見だけは何とか取り繕おうとする私。
けれど、私の動揺は……とっくに、隣の彼にバレバレだった。
ノアが少しだけ、身体をこちらに向ける。
そして——低く、甘く囁くように、耳元に顔を寄せた。
「ねえ……君は」
「僕と、朝まで……ナニがしたいの?」
空気が、弾けた。
(な、な、な、な、なにィィィィィィィ!?)
頭が真っ白になる。
心臓が破裂しそう。呼吸ができない。
顔面温度100度超え。
「……うあああああっ……!!」
私は反射的にクッションを引き寄せて、そこに顔をうずめてジタバタする。
「む、む、む、無理!!!」
「そういうのは!! ゲームの選択肢がある時に!! 選ばせて!!」
ノアが、そんな私を見て——
ふっと、クスクスと笑った。
その笑い声が、信じられないくらい優しかった。
「……はは、冗談だよ。冗談」
「でも、そんなふうに反応してくれるなんて。嬉しいね」
私がようやく顔を上げると、目の前にあったのは、
私の大好きな——目を細めて笑うノアの顔だった。
そして、彼の手がそっと私の頭に置かれた。
優しく、愛おしそうに、何度も撫でてくれる。
(……ずるい、こんなの)
でも私は気づかなかった。
その笑顔の裏で、ノアの指先がわずかに震えていたことに。




