第27話 繋がるために
禁書庫の空気は、相変わらずひんやりとしていて、息を吸い込むたびに、胸の奥に静かなしこりが残る。
私は、まだ閉じられたままの《魂相図録》を見つめていた。
銀の封印符がわずかに脈動している。微かに、私の魔力に反応しながらも、開くには至らない。
(私ひとりの力じゃ、足りない)
それは、図録が教えてくれた事実だった。
魂の共鳴は、片方の感情だけでは成立しない。
互いに響き合い、干渉し合って、はじめて意味を持つ。
(なら——繋がるしかない。もう一度、ノアと)
封印を解く鍵は、魂の再共鳴。
そしてそのためには、ただ想うだけでは足りない。
彼が私を見ていたように、今度は——私が、彼を見つけなければならない。
背後から、気配がした。
「……準備は?」
ゼフィルが、少し離れた棚の陰から姿を現す。
相変わらず涼しげな顔のまま、私の手元を見やった。
「図録は、封印されたままです」
「でも……まだ、終わっていません。ノア様の記録が残っている。そこに、きっと答えが」
ゼフィルは静かに頷いた。
「では、研究棟の記録端末へのアクセス権限を申請しましょう。
貴方が“研究を引き継ぐ者”として正式に認められれば、再解析が可能です」
私は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
(もう、泣いてばかりじゃいられない)
(私が——ノアの回帰を証明する)
* * * * * *
研究棟の端末ルームは、無機質で静かだった。
かつてここで、ノアが何百時間も観測データと向き合っていたと思うと、息を呑む。
ゼフィルの手続きによって、一部端末の閲覧権限が私に譲渡された。
画面には、「観測者:ノア=アルフェリア」のログが並ぶ。
(これが……ノアの見ていた世界)
指を動かす。
そこにあったのは、数字と波形だけの世界だった。
でも、不思議と冷たさはなかった。
ゼフィルがスクリーンに表示された一覧の中で、あるファイルを指差した。
「……この記録、“魔力共鳴記録_識別対象:不定”とあります」
私には読めないファイル名。でも、その響きに胸がざわつく。
ゼフィルが操作すると、静かにファイルが開いた。
そこに記録されていたのは——
私と接触した直後に発生した、“共鳴波形”のデータだった。
魂がふれて、魔力が一時的に同調したような——そんな、揺らぎ。
あの日、あの瞬間、ノアと私のあいだに確かに存在した何か。
ゼフィルが、さらに記録の横にある小さなメモを読み上げていく。
「……『魂の共鳴とは、互いに認識し、影響を及ぼし合う状態』」
「『一方通行の感情は、魔術的な“揺らぎ”を起こさず、干渉しない』」
「『観測対象との“共鳴”が成立した瞬間、魔力に異常値が走る』……そして」
彼の指が、最後の一文に止まった。
「『——なら、魂が再び重なれば、時間さえ——』……ここで、記述が途切れています」
私は、ゼフィルの言葉をかみ砕くように、胸の中で繰り返した。
(魂が……重なれば、時間さえ——)
(ノア……ここまで、わかってたの?)
私は息を呑んだ。
彼は、私が何も知らなかった頃から、
“魂の共鳴”という現象を、真剣に見つめていた。
それを——私との接触の中で、確かに“起きた”と記録していた。
(なら……やれる。私は、もう一度……)
記録を閉じ、私は振り返る。
「ゼフィル。お願いがあります」
「……王に、謁見を申し込みたいんです」
ゼフィルは片眉を上げた。
「王に、ですか。随分と思い切りましたね」
「ノアさんの理論を、証明したい。そのためには、正式な研究許可が必要です。
禁書庫と連携した検証。……きっと王の許可がなければ動かせません」
ゼフィルはわずかに微笑み、頭を傾けた。
「……ふふ。随分と変わりましたね、貴方は」
「ええ。手配しましょう。貴方のためなら、喜んで」
私は小さく、でも確かに頷いた。
(私が、繋ぐ。この魂を——あの人へ)
* * * * * *
玉座の間に足を踏み入れるのは、これが二度目だった。
かつて——ノアと共にこの場所を訪れたとき、私はただ横に立っていただけだった。
言葉を発することもできず、場の空気に押し潰されそうで、必死に立っているのが精一杯だった。
でも今は違う。
誰かの後ろではなく、自分の足でこの場所に立っている。
(私が来た。私の意志で)
高い天井。赤い絨毯。玉座の奥に座る王の姿。
私の隣には、ゼフィルが控えていた。
王の正面に立ったとき、背筋が自然と伸びるのを感じた。
「申請書、確認いたしました」
王の側近が一礼し、静かに後ろへ下がる。
玉座に座る王は、まっすぐに私を見据えた。
「貴女が、“魂理論”を持ち出した女性か。……面白い発想だ」
低く響く声。その静けさの中に、見透かすような力を感じた。
「申請内容には、禁書資料の再調査および実証実験とある。……理由を聞こう」
私は、一度深く息を吸ってから、しっかりと顔を上げた。
「ノア=アルフェリアという研究者が、亡くなりました」
「彼は生前、“魂の共鳴”という現象を追い続けていました。私はその被験者であり、観測対象でもあります」
言葉を口にするたびに、胸の奥が静かに熱を帯びていく。
「けれど彼は——途中で止まってしまった。理論が未完成だったからではなく、時間が足りなかったから」
「彼の残した記録は、確かに存在していました。魂と魂が共鳴し合う“揺らぎ”を私は感じました。
彼の目を通して、私もそれを見たんです」
玉座の間に、静寂が満ちる。
「だから私は、それを証明したい。彼の研究がただの空想じゃなかったと、誰よりも知っているから」
王の目が、ふと細められる。
(……かつては、視線も合わさずおどおどしていた少女が)
(良き仲間に巡り合い、ここまで成長したのだな。……ふむ)
「……研究とは、時に命を削るものだ。感情では動かせぬ。だが」
言葉を一度切り、王は静かに続けた。
「命を以って繋がれた理論ならば、それを継ぐ者にも相応の覚悟が必要だろう」
「——実験の許可は、条件付きで認めよう」
私は思わず、拳を握りしめる。
「禁書資料の使用は一時的に開放する。ただし、成果が出なければ記録は再封印される。
さらに、貴女の行動はすべて監査対象とする」
王は視線を、私の隣に立つゼフィルへと向けた。
「ゼフィル。監査官として、君に随行を命じる。慎重に見届けよ」
ゼフィルは片眉を上げ、少しだけ口元を緩めた。
「“監査役”として任命されるのは二度目ですね。……今度は堂々と、というわけですか」
私は、深く頭を下げた。
(ノア。私は、あなたの理論を証明します)
(あなたの死を——ただの終わりにしない)
玉座の間に響く、自分の鼓動がはっきりと聞こえた。
* * * * * *
王の許可が下りてから、研究棟の一角が私専用の作業区として解放された。
そこには、ノアが使っていた観測装置と、記録された膨大な魔力ログが残されていた。
無機質な光を放つパネル越しに、彼がいた気配がわずかに残っている気がした。
「ここに立つのも……何度目だろう」
つぶやきながら、私はノアの魔力観測装置にそっと手を添えた。
指先が触れた瞬間、装置が静かに反応し、ノアのIDで記録されたファイル一覧が開く。
その中に、一つだけ、未分類のファイルがあった。
《Private_Record_Noah》
フォルダを開いた瞬間、スピーカーから音声が流れた。
『……この記録は、私的な観測メモとする。研究とは直接関係がない、はずだ。……でも——』
ノアの声だった。
少し照れたような、けれどどこか真剣な響きが混じっていた。
『彼女の魔力波形は、接触するたびに変化する。揺らぎが、穏やかなリズムで共振する。
……それが、僕の魔力にも、影響している』
『共鳴とは、一方通行では成立しない。けれど、あれは——確かに“触れた”感覚だった』
私は、息を止めた。
そのとき、観測装置のセンサーがかすかに反応する。
(揺れた? 今……?)
データログには微細な変化。
私の魔力が、ノアの声に呼応して、ごくわずかに共鳴した記録が浮かび上がる。
「ゼフィル、これ……」
隣に立っていたゼフィルが、そっと首を傾けた。
「数値が揺れましたね。ほんのわずかですが、確かに反応しています」
「音声だけで、魂が揺らいだ……とすれば、それは——」
「……私の“感情”が、応えたってこと」
ノアの声に、私の魂が反応した。
あの人の想いに、遅れてでも届こうとしている。
(共鳴は、理論じゃない。これは……私の心が、動いた瞬間)
もう一つ、音声ファイルがあった。
再生ボタンを押すと、短い記録が流れた。
『……君が笑うたびに、心臓が加速する。
こんな数値、研究に残せるはずがない。……でも、本当は——』
音声はそこで切れた。
私は、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。
(あのとき気づけなかった想いが、今になって……)
装置がまた小さく反応する。
先ほどより、ほんの少しだけ、大きな揺らぎ。
「……ノア。私は、あなたを失いたくない」
声に出した瞬間、センサーの針がぴたりと跳ねた。
ゼフィルが、そっとモニターに目を落とした。
「……今の反応。臨界値の30%。あと少しで、共鳴が成立するかもしれません」
私は、拳を強く握った。
(あと少し。届くはず。もう一度——あの揺らぎへ)
画面の向こうにいるノアの気配を、たしかに感じながら。
私は、再現のための次の準備に取りかかった。




