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第25話 遺されたものの先へ

 朝が来ても、世界は何も変わっていなかった。


 部屋の中は、昨日と同じまま。

 整えられた机。置き去りにされた手帳。

 そして——もう、帰ってこない彼の気配。


 私は床に座り込んだまま、ぼんやりと窓を見ていた。


 カーテンの隙間から差し込む陽の光は、やけに優しくて。

 その優しさが、酷く残酷に思えた。


 「おはようございます」


 ゼフィルの声が、静かに部屋に落ちた。


 私は振り返らなかった。

 でも、その存在が、すぐ近くにあることはわかっていた。


 「……ありがとう。昨日は……助けてくれて」


 乾いた喉から、かすれた声が出る。

 それでもゼフィルは、変わらぬ調子で答えた。


 「貴方の涙は、貴重なものですから。目に焼き付けておこうと思いまして」


 少しだけ、口元が緩んだ。

 笑うには程遠かったけれど、それでも、何かが少し動いた気がした。


 「……本当に、ひどいな」


 「ひどくても、こうして隣にいられたら十分でしょう?」


 ゼフィルの言葉は、冗談のようで、どこか優しさを含んでいた。

 触れられそうで、触れられない距離。でも——それでいい。


 私はゆっくりと立ち上がり、机に近づいた。

 ノアが残した端末、手帳。すべては、そのままだった。


 (……ノア)


 画面を開く。

 何の変哲もない、研究用のフォルダたち。

 でも、そこに触れるたびに、胸がきゅっと痛む。


 (ノアが……死んだ)


 (——私の言葉で、私の拒絶で)


 彼はあの夜、最後の勇気を振り絞って、私に触れようとした。

 それを私は、振り払った。

 あの声を、あの目を、真正面から否定した。


 (それでも……私は戻れなかった)


 どうして? あれだけ泣いたのに。

 あれだけ苦しかったのに。


 ノアが、死んだのに——


 私は、あの人のことをずっと“研究者”だと思っていた。

 私なんて、ただの被験者で。反応を見るための、観察対象で。


 ——でも違った。


 手帳に残された言葉が、すべてを教えてくれた。


 (そんなに……私のことを、想ってくれていたなんて……)


 あんなにも深く、強く、静かに。

 それに、私は気づいていなかった。……気づこうともしなかった。


 (私が……拒絶したから?)

 (それで、“戻れなかった”の?)

 (ノアの想いを、あの瞬間、切り捨てたから?)


 自分がどれだけ傷ついたかじゃない。

 どれだけ、彼を傷つけていたか。

 その事実が、胸を締めつける。


 (気づくのが……遅すぎたの?)


 (もっと早く……もっと素直に、心を向けていれば——)


 涙が止まらなかった。

 どうしようもない後悔が、胸の中をぐしゃぐしゃに掻き乱していく。


 死に戻りの仕組み。

 信じていたはずの“条件”が、音を立てて崩れていく。


 (ライエルの時は……私も死んだ。ノアの時は……死んだのは彼だけ)


 (それが、違い?)


 (それとも……“死”の瞬間、私たちはもう、繋がっていなかったの?)


 (心を閉じた私に、彼の想いは……届かなくなっていた?)


 問いは答えにならず、答えはまた問いを生む。

 けれどその痛みから、目を背けることだけは、もうしたくなかった。


 私はそっと、ノアの端末に触れた。

 観測データのフォルダを開こうとして——固まった。


 (……ない?)


 ファイルは空だった。

 魔力波形も、共鳴ログも、何も残っていない。

 整頓されていたはずのフォルダが、きれいに——「空白」になっていた。


 (ノア……全部、消したの?)


 消去の痕跡は、完全に整えられていた。

 ご丁寧に、復元ソフトさえ無効化されている。


 ——普通なら、ここで諦めるべきだった。


 でも、ふと、画面の端に目を留めた。


 フォルダ構成。階層のクセ。命名規則。

 どこかで見たことがある、馴染みのある構造。


 (これ……なんとなく、見覚えある)


 ページ内に並ぶのは「空のはず」の参照ログ。

 けれど、消去済みのパスがまだ内部に残っている。


 (あのときと似てる……職場で、上書きミスで全消去されたとき……)


 (データそのものは消されていても、“入口”が残ってた)


 私は画面を操作し、管理者権限の入力画面を呼び出す。


 「……この世界の端末、仕組みは違うけど、考え方は……近いかも」


 再構成コマンド。ログフラグからの参照リンクの逆引き。

 指が、昔の感覚を思い出すように動いていく。


 そして、わずかに画面が揺れた。


 ——未保存のキャッシュから、断片的なデータが浮かび上がる。


 魔力波形の変動グラフ。共鳴値の記録。

 ノアの手によって書かれた、あの日々の記録のかけら。


 (……残ってた)


 (ノア……これは“削除”じゃなくて、“隠した”だけだったのかもしれない)


 スクロールする指先が震えた。


 (あなたの死を……ただの喪失で終わらせたくない)


 胸の奥に、小さく灯るものがあった。

 喪失と向き合い、そこから歩き出すための、はじまりの灯。


 私は静かに頷いて、深く息を吸い込んだ。

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