第2話 推しが話しかけてくるなんて聞いてない
それは、光の加減でも、偶然の一致でもなかった。
黒髪。きっちりと整えられた短髪。褐色の肌に、鋭く切れ込んだ目元。
広い肩と厚い胸板を包むのは、漆黒の軍服。金の飾緒が肩から流れ、足取りは静かで力強い。
まさに“ライエル=ヴァレスト”。
私の脳内で、ドカンと何かが炸裂した。
え、えええ……!?
ライエル!? え!? ライエル!?!?
うそでしょ!?!? ライエル=ヴァレスト!?
ど、ど、どういうこと!? なんで!? てか、本物!?
「やばい、やばい、来てる、推しが歩いてる……!」
私、パニック。
呼吸が浅くなる。膝ががくがくしてる。
この目の前の光景、二次元のはずじゃなかった!?
「え、まって、まって!? ライエルってそんなナチュラルに村歩いていいタイプ!?
いやそもそもここどこ!? あああああ!!」
あふれる言葉が止まらない。
リーナさんが裏口からひょっこり顔を出す。
「どうしたのハルカちゃん、顔真っ赤よ? お腹でも——」
「推しが!! 推しが!! 歩いてました!!」
「……へ?」
もう無理、無理すぎる。
だってあれ、どう見てもライエル=ヴァレストだった。
ということは——
「えっ、えっ……えええ……!? ここって、まさか……いや、でもライエルいたし……ていうかこの風景……!」
視線がぐらぐらと揺れる。
「ここ、私が十年以上推し続けた乙女ゲーの世界じゃない!?!?!?!?!?」
っていうかこれ……『薔薇と鏡の王国』じゃん!?!?!?!?
完全にテンパった。
「え、うそでしょ!? なんで!? ちょ、やばくない!? やばいよね!?
私、二次元の世界に入っちゃってる!?!?」
言葉が止まらない。
そして、ライエル——いや“彼”は、私のいる家の前にやって来た。
その瞬間、心臓の音が限界突破した。
「うわああああ!!ちょ、心の準備!! 無理無理無理!!」
頭の中でカウントダウンが始まった。目の前の“推し”がこちらへ向かって歩いてくる。しかも、まっすぐ。
こっち見てる。
え、ちょっとまって……こっち……見て……
あ、やばい、これ……
——意識、持ってかれるやつ。
私の視界が、真っ白になった。
* * * * * *
——ガタゴトと、馬車が揺れる。
私はその振動に身を任せながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
視線を横に向けると——いた。ライエル=ヴァレスト。
(ライエル=ヴァレスト、34歳。王都近衛騎士団に所属する攻略キャラ。
飾らない物言いとぶっきらぼうな態度の奥に、不器用な優しさが滲む“ギャップ王”。
剣の腕は一流。平民出身ながら実力で地位を掴んだ努力型の騎士。
あの重低音だけど色気と力強さを兼ね備えた声で名前を呼ばれるだけで、
昔の記憶が一気に蘇る——私の、原点の推しだった)
(推しと二人きりの馬車……なんて空間密度……)
嬉しいような、落ち着かないような。
でも、この移動には理由がある。
「お前が倒れていた森のあたりに、空間のゆがみと魔力の痕跡が確認された。
状況的に、お前がそれと無関係とは考えにくい」
ライエルの言葉がよみがえる。
(私は“何かのカギを握ってる”疑惑ってことなんだろうな……)
「現時点で敵意や危険性は見られないため、王城で保護しつつ調査を行う。だが、無理強いはしない」
そのときの彼の言葉を、私は反芻する。
(つまり私は、“保護対象兼・調査対象”ってこと……なんだ)
ふと、今朝の別れを思い出す。
リーナさんとロエルさん。あの優しい夫婦。
「本当に……ありがとうございました」
リーナさんは、にっこりと笑って私の手を握ってくれた。
「しっかりね、ハルカちゃん。困ったら、また戻っておいで」
ロエルさんも、ちょっと照れくさそうに頷いてくれた。
私の荷物と呼べるものは、リーナさんが用意してくれた簡素な布袋ひとつ。
その中に、保存食と着替えが入っていた。
(私、こんなに優しくしてもらったの、いつぶりだろう)
喉の奥がつまって、何も言えなかった。だから私は、もう一度深く頭を下げて、馬車に乗った。
「体調はもう問題ないか?」
重低音ボイスが、ふいに鼓膜を震わせる。
「………ひゃ、ひゃい! 元気です! 完全に! 健康体です!!」
テンパってるのが自分でもわかる。
ライエルは私の騒ぎっぷりにも無反応で、まるで護衛任務中のように静かに座っていた。
王都が近づくにつれて、道沿いの建物も徐々に立派になってきた。
(ああ……薔薇と鏡の王国の世界に、本当に来てしまったんだな……)
胸の奥が、じわりと熱くなった。
* * * * * *
王都フェリシアは——想像以上にファンタジーだった。
高くそびえる白い城壁。石畳の道を行き交う馬車と人々。
行商の声が飛び交い、広場では大道芸人が火を吹いている。
(うわ、すご……これ、完全に乙女ゲーの背景じゃん)
私は馬車の窓にへばりつかんばかりの勢いで、景色を目に焼きつけた。
ここが、『薔薇と鏡の王国』——私が十年以上推し続けている乙女ゲームの、王都フェリシア。
まさかその場所に、自分の足で来る日が来ようとは。
(いや、むしろ夢であってくれ……現実なら尊死する……)
馬車が王都の門をくぐると、近衛兵がすぐに駆け寄ってきた。
扉が開かれ、ライエルが先に降りる。
「ハルカ。足元に気をつけろ」
差し出された手。
——推しの、手。
その瞬間、私の脳内で何かが爆発した。
(お、お手を!? お手を差し出されてる!? ライエル様の手が! 私に!?)
動悸。呼吸困難。手汗。膝ガクガク。
(ちょっ、え、これどうするの!? 本当に掴んでいいやつ!? 夢じゃなくて!?!?)
普段、会社では誰とも目を合わせず、コンビニ店員とすら会話が苦手な私。
(かつてネットで言われていた“喪女”ってやつです……)
そんな私が、今、推しに手を取られようとしている。
(無理、無理すぎる、でも尊い、むしろ刺してくれ)
半泣きになりながら、その手を震える指で掴んだ。
ごつごつした掌。なのに、優しい力加減。落ち着いた体温。
(推しの手……でかい……しっかりしてる……神か?)
全力で平静を装いながらも、内心ではファンファーレとサイレンが鳴り響いていた。
そのまま導かれるように降り立ったのは、王城の正門前。
高く、白く、まばゆい塔。
青空を背景に伸びる尖塔と、精緻なレリーフの装飾。
絵画じゃない。ゲームでもない。
今、私は——
(ここで生きるんだ……ほんとに……)
その圧倒的な景色を前に、私は言葉を失っていた。