第24話 光のない朝に
昨夜のことが、ずっと胸の奥に引っかかっていた。
壁際で迫られたあの瞬間。
ノアの声も、表情も、どこか壊れかけていた。
私は——はっきりと拒絶した。
「やめてください」と、線を引いた。
でも、それでよかったのか、わからなかった。
あのときのノアの顔が、焼きついて離れなかった。
(……きっと、今日なら話せるかもしれない)
あれは一時の感情の爆発だった。
彼なら、冷静さを取り戻してくれているかもしれない。
そう信じたかった。
* * * * * *
研究室の前で足が止まった。
まだ朝早く、誰も来ていない時間だった。
けれど——扉は、開かなかった。
中は無人。明かりも点いていない。
次に彼の私室へ向かう。ノックする。返事はない。
扉には鍵がかかっていなかった。私は、静かにノブを回す。
中は、いつも通りに整っていた。
机の上には、閉じられた端末と、一冊の手帳。
それだけが、異様なほど整然と置かれていた。
(……いない)
ベッドも使われた形跡がなかった。室温も、冷たかった。
まるで、もう何日も人が入っていないかのように。
(どこかに出たのかな……でも、それなら一言くらい……)
足がすくんだまま、机の前に立つ。恐る恐る、手帳を開く。
私はふらふらと足を進め、恐る恐る、その前に立つ。
手帳の表紙に、見慣れた文字が魔力で刻まれていた。
そのすぐ下に、薄く埋め込まれた魔導具——記録式の、音声再生装置。
(これ……)
手が震えた。
触れたら、何かが終わる気がして。
けれど、触れなければ、前に進めない。
私はそっと、指先をあてた。
ぴ、と静かな起動音。
そして——彼の声が、現実よりもずっと優しく響き始めた。
「君がこれを聞いているということは、たぶん——
僕は、もうこの世にいないんだろうね。」
その声は、いつもより穏やかで、どこか遠かった。
思わず息を呑む。喉がひりつく。
「君の笑顔が、観測値を乱す原因だとしたら、
僕は観測者として不適格なのかもしれない」
「それでも、見ていたかった。彼女が笑うたびに、心臓の動きが加速する。
……くだらない。これは魔導理論の範疇じゃない」
手帳を抱えるようにして、私は膝をついた。
ノアの声が、静かに続く。
まるで、隣で囁くように。
最初から、私だけに聞かせるつもりだったみたいに。
「彼女の視線の先に、彼がいた。それを見た瞬間、すべて理解した。
彼女の心には、彼がいる。なら、僕がいる理由は……」
一瞬、間があった。
機械のように安定していた彼の声に、わずかな揺れが混じる。
「もうない」
ひどくかすれて聞こえた。
それは、理性でコーティングされた声の奥に、感情の震えが滲んでいた。
「彼女の世界に、僕はいらない。
でも、僕の世界には、彼女しかいなかった。それだけだ。」
「この記録を最後に、僕は観測を終了する。
——願わくば、君が幸せであるように」
音が、止まった。
静寂が戻ってくる。
「……っ……やだ、やだ……!」
胸が、潰れたように痛かった。
目の奥が焼ける。呼吸ができない。
喉の奥が詰まり、息を吸おうとしても、吸えなかった。
胃がひっくり返るような感覚に、私はその場に崩れ落ちる。
——私が、突き放したから。
昨日の夜。私はあの人の最後の賭けを、真正面から否定した。
苦しかった。怖かった。
でもそれ以上に、今のこの現実が、どうしようもなくつらかった。
「うっ……っ、ごほ……っ、ぐ……!」
何かを吐き出すように、嗚咽と涙が混じった。
それでも言葉にならなくて、ただ震えて、泣いた。
震える指で端末を開く。
何か記録があるかもしれない。メッセージでも、音声でも。
——何でもいい。彼に繋がるものを、もう一度だけ。
(お願い……お願いだから……)
「戻って……ノア……戻ってきて……!」
世界が震えるような錯覚が一瞬あった。
でも、光は訪れなかった。
「なんで……ノアが死んだのに……」
「どうして……!? 推しの死が、死に戻りのトリガーじゃなかったの……?」
胸が冷えていく。手足が動かない。
光は来なかった。世界は、ただ、変わらなかった。
(なんで……どうして……っ!
肝心なときに……私にはもう、特別な力がなくなってしまったの……!?
戻れない……本当に……もう、戻れないの!?)
ぐしゃ、とカーペットを握りしめる手に、血がにじむほど力がこもった。
「……っ……ノア……っ……!」
どれだけ名前を呼んでも、彼は返事をくれなかった。
* * * * * *
ひとりで泣くその部屋に、足音が近づいた。
「……泣かせるんですね、彼は」
振り返ると、ゼフィルが立っていた。
赤い瞳が、静かに揺れていた。
その声が届いた瞬間、私は顔を上げることができなかった。
視界が涙でぐしゃぐしゃで、喉が焼けるように詰まっていた。
呼吸ができない。ただ生きてるだけなのに、胸が痛い。
(声……出ない……)
うつむいたまま、震える手を胸に押し当てる。
心臓が、壊れそうなほど暴れていた。
それなのに、全身が冷えて、空気が肺まで届かなかった。
「……動けないですよね。わかります」
ゼフィルの声は静かだった。
けれど、不思議と耳にすっと入ってくる。
まるでこの沈んだ空気を割らないように、呼吸に寄り添うように。
「誰かがいなくなっても、世界は変わらない。
昨日と同じ空があって、風が吹いて、陽が差す。……残酷ですよね」
私は、何も返せなかった。
その言葉が、あまりにも正しくて、あまりにも痛かったから。
「けれど……変わらないことが、救いになることもあります」
ゼフィルの足音が近づく。
ゆっくりと、焦らず、壊れたものに触れるような足取りだった。
「時間が経てば、あなたはまた笑えるかもしれない。……そう願ってます」
言葉とともに、何かが私の手に触れた。
ゼフィルの指先だった。その手が、妙に温かく感じた。
「僕には……まだそれが、よくわかりません」
「けれど、あなたが泣いている姿を見て、少しだけ思ったんです」
私は、顔を上げる。
ゼフィルの赤い瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていた。
そこに浮かんでいたのは、憐れみでも慰めでもなかった。
ただ、まっすぐな問いだった。
「人は、こんなにも……誰かを、愛せるんですね」
涙が、またあふれた。
今度の涙は、さっきのように壊れそうなものじゃなかった。
ただ、止められない、流れ続ける涙だった。
「……なんで……ノア……どうして……」
かすれた声で絞り出すように言ったとき、ゼフィルはそっと言った。
「今は、無理に答えを出さなくていい。
泣いても、崩れても、あなたは……あなたです」
「——だから、安心して泣いてください。僕は、ここにいますから」
その言葉が、胸の奥に静かに染み込んだ。
私は、ゼフィルの肩に、そっと体を預けた。
誰かに寄りかかって泣くなんて、何年ぶりだろう。
壊れた心が、少しだけ、音もなく形を変えていくような気がした。




