第23話:君の世界に、僕はいない
淡々と時間が過ぎていく。
観察対象であるハルカ=Kは、昨日と同じ反応を続けていた。
>【観測記録:No.288】
>前日と同傾向継続。感情表出の安定化あり。
>視線回避・発話の簡略化が定着。心理的緊張は軽減。
>干渉の必要なし。
ノアは記録を保存すると、ゆっくりと椅子にもたれた。
何も問題はない。むしろ、好ましい安定といえる。
……なのに。
(……それでいいはずだったのに)
いつの間にか、ハルカが「反応対象」であることに、どこかで安堵していた自分がいた。
あの時の微笑みに反応した彼女が、もう戻ってこないことに——胸の奥が、わずかに騒いでいた。
* * * * * *
個室の照明を少し落として、私は端末を開いた。
立ち上がるのは、かつて王都で共有された任務報告のアーカイブ。
(……これって……!!)
画面に表示されたのは、古い報告書のデータだった。
誰のものか、文字は魔導語で書かれていて、私にはまったく読めない。
けれど、添付されていた画像――報告者の姿が映された小さな記録画像に、私は目を奪われた。
(……ライエル)
無骨な鎧姿。鋭い目つきの中に、静かな意思を宿したその横顔。
間違いない。これだけで、すぐにわかった。
そしてもうひとつ、ページの横に並んだ手書きの筆跡。
読み取れないはずのその文字に、私は強く胸を打たれた。
簡潔で整然としていて、それでもどこか、言葉ではない何かを伝えようとするような――
まるで、あの人自身がそこに触れていたような気配があった。
私は指先でそっと画面に触れていた。
意味なんて、わからなくていい。
それでも、彼が残した“何か”が、まっすぐ胸に届いてくる。
「……ライエル」
小さく名を呼んだ瞬間、心がきゅうっと締めつけられた。
(もっと話せばよかった。ちゃんと、ありがとうを伝えたかった)
目頭が少し熱くなる。
でも、それ以上は泣かない。ただ、端末を静かに胸元に引き寄せた。
* * * * * *
ノアは静かに扉の前に立っていた。
目的は、今日分の魔力測定データの再確認——という建前だった。
だが、指はノックに届かず、その場で止まっていた。
中から、微かに声が聞こえた。
「……ライエル」
その名前が、あまりにも自然に、あたたかく発音された気がした。
ノアは無言のまま、ドアの横に立った。
少しだけ開いていた隙間から、ハルカの姿が見えた。
柔らかい表情。画面に手を添えたまま、何かを大切にするように。
(……そうか)
理解してしまった。
彼女の世界には、もう答えがあったのだと。
自分の観察や、寄り添いもどきの優しさなんかでは、
到底届かない場所に、彼女の心はある。
ノアの呼吸が、わずかに止まる。
彼女が守りたかったのは、自分じゃない。
(君の心にいるのは——)
ノアは何も言わず、そのまま踵を返した。
記録も、ログも残さなかった。
けれど心の奥で、何かが確かに音を立てて崩れていた。
* * * * * *
夜。人気のない実験室。
淡い光に照らされた端末が、静かに稼働している。
ノアはそこにひとり佇み、黙って記録を眺めていた。
日々の観察、測定値、変動なし。
彼女の反応は安定している。記録は完璧。
(……それでも構わないと思っていた。
ただ、彼女がここにいてくれれば)
けれど、今はもうわかっている。
彼女が見ていたのは、自分じゃなかった。
(彼女の世界に、僕はいない)
ノアはため息もつかずに、静かにログを閉じた。
記録を守ることと、誰かに必要とされることは、違う。
* * * * * *
冷えた空気の中、ノアは静かに端末を見つめていた。
データは順調。ハルカの反応も、想定通りに落ち着いている。
ここ数日の観察記録に乱れはなく、全てが安定している。
——なのに。
どこか、胸の奥にずっと沈んだままの何かがある。
(……観察対象としては、優秀だ)
(それなのに、なぜ。君の声を聞くたびに、こんなにも——)
思考が、乱れる。
理性で閉じ込めていたものが、少しずつ外に滲み出してくる。
* * * * * *
ノアは資料ファイルを片手に、ハルカの部屋の前に立っていた。
用件は、データ共有。
ただ、それだけのはずだった。
けれど、それを口実にしなければ、彼女の部屋を訪れる理由が見つからなかった。
——扉の前に立ったまま、しばらく動けなかった。
彼女が、自分ではない誰かを想っていることなど、もう分かっている。
前の晩、扉越しに、彼女がライエルの報告書に触れ、静かに名前を呼ぶ声を聞いた。
それでも、あきらめきれなかった。
(せめて、もう一度だけ。君の目に、僕を——)
ノックする。
「ノアさん?」
少し驚いたような声がして、扉が開く。
そこにいたのは、いつも通りの、優しい瞳をしたハルカだった。
けれどその瞳が、自分の姿に一瞬警戒するように揺れたのを、ノアは見逃さなかった。
「資料、渡し忘れてた。……ついでに、ちょっと話がしたかっただけ」
口実は自然だった。
ハルカは戸惑いながらも頷き、ノアを部屋に迎え入れた。
部屋の灯りは控えめで、ベッドとデスクだけの簡素な空間に、ふたりの沈黙が落ちた。
資料を渡したあとも、ノアはその場を動かなかった。
「……なにか?」
「……いや、ただ……」
ノアの視線が床に落ちたまま、言葉を選ぶように口を開いた。
「君は、今でも——彼のことを想ってるのかい?」
「え……?」
不意の言葉に、ハルカは目を見開いた。
ノアの表情は変わらない。けれど、その声の奥に、かすかな震えがあった。
「僕は……ずっと君を見てきた。
観察して、記録して、分析して……でも、それだけじゃ駄目なんだろう?」
ハルカは一瞬、言葉を失った。
どう返していいかわからず、視線をそらしながら、小さく眉を寄せた。
困ったような、戸惑いの混じった表情。
それは優しさも含んでいたけれど、明確な“答え”ではなかった。
ノアは、その表情に決定的なものを見た。
(……そうか。君にとっての僕は、最初から「かわいそうな人」だったんだ)
(ただの観察者。届かない誰か)
何かが、ぷつんと音を立てて切れた。
次の瞬間、ノアは衝動に駆られるように一歩、踏み込んだ。
壁際にいたハルカの腕を取り、そのまま反対の手で壁に手をつく。
ごくわずかに——けれど確かに体が触れた。
布越しに伝わる体温。息づかい。逃げ場のない距離。
(……壁ドン、だ)
頭の片隅で、そんな冷静なツッコミが浮かんで消えた。
でも、怖いとは思わなかった——最初は。
ただ、ノアの体温が近すぎて、呼吸がうまくできなくなる。
「違う……僕は、観察なんかじゃない。
君を、ずっと……見ていたのに。
もっと、近づきたかったのに……」
その声は苦しげで、切実で、胸に迫ってくるのに——
体が固まった。背中は壁。前にはノア。汗が背を伝った。
(だめ、わかってるのに……)
言葉は、たぶん嬉しかった。
でも、身体が先に「怖い」って叫んでた。
(近い、近いよ……怖い……)
目の奥が熱くなる。言葉よりも早く、涙があふれた。
自分でもよくわからない。怖いのか、苦しいのか、悲しいのか。
全部がぐちゃぐちゃに混ざって、どうにもならなかった。
「……やめてください」
絞り出すように、声が漏れた。
それは拒絶だった。でも、理性じゃ止められなかった。
ノアの手が止まる。
ゆっくりと、視線を合わせたその目に、ハルカの震えが映る。
何かを言いかけたように口が動いたが、言葉は出なかった。
そして——ノアは静かに、手を下ろした。
「……ごめん。忘れてくれ」
低く、かすれた声だった。
そのままノアは背を向け、部屋を出ていった。
扉が、カチリと音を立てて閉じる。
* * * * * *
ノアはひとり、研究室の端末に向かっていた。
ログイン認証。記録データのバックアップ。
必要な処理を淡々とこなしていく。
それらすべてが、“自分が存在した証”だった。
——けれど、それらを、静かに削除していく。
(これで、いい)
(僕は彼女の世界にいない。
なら、観測者としても、意味はない)
(彼女の未来から、僕が消えたところで——きっと、何も変わらない)
全てのデータが消えたことを確認し、ノアは一息ついた。
静かで、凍りつくような夜の中。
誰にも見られない場所で、ひとり、目を閉じた。




