第22話:気づいてしまった温度
「ハルカ、今日の測定は、少しだけ詳細な項目を——」
さっきと同じセリフ。
同じ空気。同じ光。同じノアの表情。
(……戻った)
今度こそ、助ける。
そう誓うより先に、涙が一滴だけ、静かに頬を滑り落ちていた。
私は小さく息を吸って、ノアの方へと顔を向ける。
「ノアさん、あの……今日の測定、少し延期できませんか?」
彼がわずかに目を見開いた。
私の方から申し出るのは、おそらく初めてだった。
「どうして?」
「なんだか、ぼーっとしていて……。正確な記録が取れない気がして。
一度、体調を整えてからのほうが、いいデータが出せるかと」
沈黙。
銀灰色の瞳がこちらをまっすぐに見据える。
(気づかれたかも。でも……構わない)
ノアは数秒ののち、ふっと微笑んだ。
「……わかった。無理をしても意味はないからね。君の方から、そんな提案をするなんて。珍しいな」
その表情は、いつもより柔らかくて、ほんの少しだけ“研究者”ではなく、“ひとりの人”に見えた。
「……妙だな。初めて聞いたはずなのに、どこか引っかかる。君の言葉に、何か“既に知っていた”ような感覚がある。……変だね」
私は何も答えなかった。ただ、小さく息をついた。
そのあと、ふたりで研究所内の休憩スペースへ移動した。
測定が中止になったことで、少しだけ穏やかな時間が流れる。
「少しだけ休もうか。せっかく中止にしたんだし、こんなときくらい、研究じゃない話でも」
ノアがそう言って書類を差し出してきたとき、彼の指が私の手にふと触れた。
たったそれだけなのに、心臓が跳ねた。
(……なに、今の。意識しすぎ……?)
視線を合わせるのが怖くて、けど逃げるのも違う気がして、私はぎこちなく頷いた。
その隣で、ノアは何事もなかったように端末に指を走らせていた。
>【観測記録:No.285-B】
>対象個体:ハルカ=K
>反応時間:0.3秒の沈黙、視線回避、心拍数上昇傾向。
>原因:偶発的接触(手指)。補足:刺激の再現性あり。今後観察予定。
>【補足記録:No.285-A】
>午前観察時、対象個体の左頬に涙痕を確認。
>本人は触れず、会話には影響なし。感情の高揚によるものと推定。
>反応は一過性であり、深追いは不要。
(これは記録。データだ。……感情ではない)
ノアは自分にそう言い聞かせるように、記録を保存した。
——けれど、記録を終えた手が一瞬止まっていたことに、本人は気づかなかった。
(まるで、“何かを失いかけた人”のような顔だった)
* * * * * *
その夜。支給された部屋のベッドに横になっても、なかなか眠れなかった。
(……疲れてるはずなのに)
閉じたまぶたの裏に、今日一日の出来事が次々と浮かんでくる。
ノアの声。目元のわずかな緩み。あたたかな体温。
そして、何より——彼が、生きているということ。
(……ノアが、生きてる)
胸の奥がじんわりと熱くなった。
私は、また“推し”を失わずにすんだ。
怖くて、苦しくて、それでも必死に動いた。
あの選択が、ちゃんと未来を変えたんだ。
気づけば、ぽろりと涙がこぼれていた。
(……ありがとう。生きていてくれて、ありがとう)
誰にも聞かれないように、シーツに顔を埋めた。
この手で、ひとつの未来を救えた。
その実感が、やっと、胸に降りてきた気がした。
* * * * * *
翌朝。研究棟の廊下を歩いていたノアは、書類を抱えて歩く途中で、別の研究員とすれ違った。
「ノア、最近さ。例の子——ハルカさんだっけ? なんかいい雰囲気じゃない?」
「……なんの話だ」
「いやいや、君があんなに興味示すなんて珍しいしさ。
タイプだったりして。真面目で、ちょっと天然で——君の好みって感じ?」
ノアは足を止めずに、書類の位置を持ち替えながら答えた。
「……まさか。僕は研究者だよ。個人的な感情を持ち込むべきじゃない」
その声は冷静だった。けれど、いつもよりほんの少しだけ、硬かった。
その廊下の先、曲がり角の影。
偶然通りかかったハルカは、ふたりの会話を聞いてしまっていた。
——まさか。個人的な感情を持ち込むべきじゃない。
その言葉が、胸に刺さった。
(……そっか。やっぱり、全部“観察”だったんだ)
優しかったことも、微笑んでくれたことも。
手が触れたことも、全部ただの“実験”。“反応”のひとつ。
(私……勘違いしてたのかな)
小さく俯く。視界が少し滲んだ。
* * * * * *
昨日の会話が、頭から離れなかった。
——まさか。僕は研究者だよ。個人的な感情を持ち込むべきじゃない。
ただの雑談。軽口への反応。
それだけのはずなのに、心の奥に、ずしりと沈殿していた。
(……そうだよね。観察してただけ。
あの優しさも、微笑みも、全部——)
勘違いしてたのは、きっと私の方だ。
期待なんか、しなければよかった。
* * * * * *
朝の研究棟。
ノアと顔を合わせた瞬間、私は少しだけ目を逸らしてしまった。
「おはよう、ハルカ」
「……おはようございます」
返事はした。でも、視線は端末に落としたまま。
目を合わせると、また揺らいでしまいそうだったから。
ノアは変わらなかった。
冷静で穏やかで、いつも通りの優しさをくれる。
でも、それがいけなかった。
(この人は、どこまでいっても“研究者”なんだ。
私がどんな顔をしても、それは“反応”でしかない)
自分で心に蓋をした。
それが、一番痛くないと思ったから。
午前中の測定が終わったあと、ノアがふと私の横に腰を下ろした。
「……何か、あった?」
「えっ?」
「今日の君、少しだけ反応が鈍い。表情も、動きも」
私は、とっさに笑ってみせた。
でも、喉の奥がぎこちなく詰まる。
「いえ、大丈夫です。寝不足かな、って。すみません」
「……そう」
ノアはそれ以上何も言わなかった。
けれど、その視線が端末へと落ちたのが見えた。
>【観測記録:No.286】
>対象個体:ハルカ=K
>前日と比較し、視線回避傾向、感情表出低下あり。
>原因不明。心理的ストレスの可能性あり。観察継続。
ノアは記録を残しながら、ほんの一瞬だけペンを止めた。
(昨日のあの反応。手が触れた時、あれほど敏感だったのに……今日は何もない)
理由がわからない。
でも、深入りする必要はない。あくまでこれは、観察だ。
(……気にするな)
心のどこかがざわめいていたけれど、ノアはそれを意識から追い出した。
夕方、データ整理の合間にふたりきりになった一瞬。
ほんの数秒、会話が途切れる沈黙が訪れた。
——昨日までなら、ノアが何か話しかけてくれていた気がする。
でも、今日は何もなかった。
沈黙がそのまま、静かに流れていった。
(近づいたと思ったのに。
やっと何かが変わったと思ったのに)
(……私の思い込みだったのかな)
そんなふうに自分を納得させるたびに、
胸の奥が、きゅうっと痛んだ。
(——それなのに、どうして。
こんなに、苦しいんだろう)




