第21話:最初の喪失
その日の夜。
「……ちょっと、確認していい?」
測定後の記録を見ていたノアが、ふいにそう言った。
私がきょとんとしていると、彼は何の前触れもなく私の髪に手を伸ばす。
「……えっ?」
「観察対象として、ね。光の反射率と魔力残留を確認してるだけ」
さらりとした声でそう言いながら、指先で髪の一房をすくい上げ、静かに絡める。
まるで淡々とした作業のように、髪を撫で、解く。
その目は真剣で、けれどどこか楽しんでいるようにも見えた。
(ちょ、ちょっと……絶対わかってやってるでしょこの人……!!)
顔が熱を帯びるのを感じながらも、何も言えなかった。
ノアの様子が、少しだけ変わった気がする。
それは、ほんのささいな違いだった。
言葉の間。視線の温度。口に出す必要のないことまで、時折ぽつりと話すところ。
「君の部屋、少し乾燥しやすいみたいだ。加湿機を増やしておくよ」
「朝は食欲がない? 無理に食べなくてもいいけど、何か飲むものは……」
それは優しさであり、気遣いにも思える。
けれど、どこか“調整されている”ようで、背中がひやりとすることもある。
(前はもっと、距離があったはずなのに……)
そんな曖昧な不安を抱えたまま、私はいつもの測定室にいた。
今日も、ノアによる魔力測定が行われる。
慣れてきたはずの装置の冷たさに、今日はなぜか少しだけ緊張している自分がいた。
「準備、いい?」
「……はい」
ノアが淡々と確認し、測定が始まる。
端末の光が淡く明滅し、波形が静かに流れ始めた——そのときだった。
「……ちょっと、ここ……」
ノアの手が、私の手首へそっと伸びた。
装置の接続部を確かめるような動き。
けれど、皮膚に触れた瞬間——胸の奥で、何かが跳ねた。
ビリ、と。
魔力安定装置が警告音を鳴らす。波形が一瞬、大きく跳ね上がった。
「っ……なに、これ……?」
「……共鳴、かもしれない」
ノアはそう呟き、端末に見入る。
銀灰色の瞳が、いつもより深く、強く私を見つめていた。
「君と接触したときだけ、波形に干渉が入った。
これは偶然じゃない。君の魔力は、外的要因に“応える”構造を持っているのかもしれない」
彼の言葉は冷静なのに、その声は、どこか熱を孕んでいた。
「ノアさん……。それって、私のせい、ですか……?」
問いかけは震えていた。
自分の中で何かが変わっていくことが、もう止められない気がした。
けれどノアは、そっと目を細めて首を振った。
「違うよ。君のせいじゃない。……むしろ、君がいるから、この現象が“見えた”」
言葉の意味は、きっと学術的なものだった。
でも、彼の声がどこか寂しそうで、優しくて、それがずっと胸に残った。
測定が終わり、ノアは記録をまとめながらふと呟く。
「君と話すと、余計なことまで考えてしまう。……研究者失格だね」
「……そんなこと……ないです」
返しながら、自分の胸がわずかに高鳴っていることに気づいてしまう。
怖い。けれど、嫌じゃない。
そのことが、いちばん、怖かった。
* * * * * *
「ハルカ、今日の測定は、少しだけ詳細な項目を追加したい。……大丈夫?」
ノアの声は変わらない。
いつものように落ち着いていて、優しげで、どこか淡々としていた。
けれど——なぜだろう。
今日の彼からは、ほんの僅かに“何かを急いでいる”ような焦燥が滲んでいる気がした。
(ノアって……こんなふうだったっけ)
『薔薇と鏡の王国』で見た彼は、もっと距離を保っていた。
誰にでも冷静で、皮肉屋で、どこか突き放したようで——でもそこが魅力だった。
いま、目の前にいるノアは違う。
私の目を見て、そっと名前を呼び、手を伸ばしてくれる。
そんな“感情を見せる彼”は、ゲームでは一度も見たことがない。
(これって……本当にノアルートに入ってる? でも、こんなノア、私は知らない……)
そんな不安を胸に抱えたまま、私は測定室に座っていた。
測定装置が起動する。
青白い魔力の光が空気を伝い、身体を包む。
ノアは端末を操作しながら、眉をひそめた。
「……波形が安定しない。何か、干渉が入ってる……?」
瞬間、端末の警告音が鳴り響いた。
「っ……!」
シン、と空気が一変する。
光が跳ね、波動が荒れ狂い、まるで空間そのものがきしんだ。
「危ない——!」
ノアの手が、私の肩を掴んで引き寄せた。
同時に、測定装置のコア部分が閃光を放ち、爆ぜるように炸裂した。
衝撃が走った。
ノアの身体がぐらりと揺れ、私を庇うように倒れ込む。
「ノア、さん……?」
視界の端に、彼の白衣が赤く染まっていくのが見えた。
床に広がる血と、震える手と、息をしようとするのに喉がつかえて、声が出ない。
「うそ……なんで……」
彼の顔は静かだった。
けれど、唇がわずかに動いた。
「……だから言っただろ。観測対象には近づきすぎるな、って。……皮肉だよ。僕が……一番、やってはいけないことを……」
血を吐くようにして、苦しげに笑う。
「でもさ……君のことを観察しているうちに、理性じゃ割り切れない感情が増えすぎた。
……研究なんて、建前だ。……本当は、君に触れていたかっただけかもしれない」
その瞳は、どこまでも澄んでいて、熱がこもっていた。
「ハルカ……君が、“僕の理論”を壊した。……なのに、それが……すごく、嬉しかったんだ」
彼の目が閉じる。
手から力が抜けて、彼の身体が崩れるように傾いた。
私は両手で彼の肩を掴み、必死に揺さぶった。
「ノア……ノアッ…!、起きて……っ! ねえ、お願い、返事してよ……!」
けれど、それでも彼は目を開けない。口元は静かで、声はもう届かない。
「やだ……やだやだ……そんなの、絶対に、嫌……!」
息が詰まる。喉の奥がひゅっと狭まって、叫びがうまく出せない。
(また……また私、推しを死なせたの……?)
視界が滲んで、涙が止まらない。嗚咽とともに、胸の奥が張り裂けそうに痛む。
脳がついていかない。心が追いつかない。
でも、身体が覚えている。この感覚。この痛みはもう、知っている。
(来る。……また、“戻る”)
お願い、お願い、お願い……今度こそ、間に合って……!
胸の奥が軋み、裂けるように熱くなる。
視界が歪んで、光がすべてを飲み込んでいった——。
叫ぶ間もなく、世界が反転した。
瞬き1つぶんの闇のあと、気づけば私は——
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「ハルカ、今日の測定は、少しだけ詳細な項目を——」
さっきと同じセリフ。
同じ空気。同じ光。同じノアの表情。
(……戻った)
今度こそ、助ける。
そう誓うより先に、涙が一滴だけ、静かに頬を滑り落ちた。




