第19話 揺らぎの輪郭
研究所の個室は、無機質なほどに整っていた。
白い壁。整然と並んだ机と書棚。ベッドは硬く、眠れる気がしない。 生活に必要なものはすべて揃っているのに、そこには温度も、感情もなかった。
「ここが、ハルカの部屋だ。 観測対象としての生活になるけれど、外部との接触や行動の制限は、今のところ予定していない」
ノアは淡々とそう告げた。 その言葉の「今のところ」が、どこか引っかかる。
「……つまり、観察されてるってことですよね?」
私は苦笑を浮かべながらそう言った。
ノアは軽く肩をすくめた。
「正確には、“生活傾向および感情波の記録”だね。 君がどう反応するかを見ておくことは、研究において重要なんだ」
(……どう反応するか、って。私、そんな実験動物みたいに……)
ノアの態度は終始、理性的で優しかった。 けれど、どこか“私そのもの”を見ていない気がした。
午後の魔力測定を終えると、ノアは淡々と記録をまとめていた。
「体調は問題ない? 測定中、少し波が乱れたけど、君の意思とは関係なさそうだった」
「……自分の魔力のこと、まだよく分かってなくて。波が乱れるって、何か問題なんですか?」
「たとえば……大笑いしたときとか、寝ぼけてくしゃみしたときとか、感情の振れが大きい瞬間に揺れるケースもある」
「そんなので……?」
思わず、クスッと笑ってしまった。
なんだか、魔力というものが急に身近に感じられた気がして。
ノアの真顔は変わらない。でも、その眉がほんの少しだけ和らいだ気がした。
「まだ判断できない。……だが、兆候としては興味深いよ」
ノアの目が、一瞬だけわずかに細められた。 その瞳に感情が宿っていたかどうか、私には分からなかった。
けれどそのあと、ノアはなぜか少し黙り込んだ。指先でペンを回しながら、ぽつりと呟くように言った。
「……今の君、少しだけ、笑ってた」
「え?」
「いや、観察としての記録だよ。感情波の変動と一致していたから。……以前の君には、なかった反応だった」
「それ……いい意味なんでしょうか」
ノアは答えなかった。
けれど、視線だけがしばらくこちらを見ていた。
その夜。廊下でばったり出会ったのはゼフィルだった。
「こんばんは、ハルカ様。……こちらの生活には、もう慣れましたか?」
「なんとか、です。まだ全然落ち着かないですけど」
ゼフィルは、相変わらず飄々とした笑みを浮かべていた。 その視線が、ふわりと私をなぞるように動く。
「この施設は基本的に静かですから。……刺激的なのは、貴方くらいですよ」
「……観察も、続いてるんですか?」
「ええ。観察とは、日々の些細な変化を記録することです。 ……干渉はしません。私はただ、見ているだけですから」
「……そうですか」
見られているのに、何もされない。 そのことが、どうしようもなく不安だった。
部屋に戻り、寝具に身体を沈める。
(寝られそうにない……)
そう思った矢先だった。 枕元に置かれた魔力安定装置が、かすかに異音を立てた。
「……え?」
機器の表示が、ほんの一瞬、波形の乱れを記録する。 それはまるで、何かが部屋の中に“通った”ような、そんな感覚だった。
(今の……私の、魔力?)
答えは返ってこない。けれど、何かがゆっくりと、確かに動き出していた。
* * * * * *
翌朝。
昨夜、異音を立てた魔力安定装置の記録を確認してもらおうと、私は研究所の職員に話しかけた。
中年の技術担当らしき男性は、端末を操作しながら首をひねる。
「一応、波形の乱れは記録されてますね。……でも、ノイズでしょう。計測器の誤作動はたまにあるんですよ」
「不安定な場所に置いてたり、魔力源が近すぎたりしてもこういう揺れ方はしますし」
「……そうですか」
私は笑って頷きながらも、心の奥では違和感が消えなかった。
あのとき、何かが部屋の中にいた。魔力が、ほんの少し“触れられた”感覚を残していた。
(ノイズなんかじゃない……。確かに、何かが)
その日の午後、ノアが私に声をかけてきた。
「ハルカ。再測定をしようと思う」
彼の目は相変わらず静かで、整った言葉を口にしているのに、
どこかいつもより“よく見ている”ような気がした。
魔力測定装置に再び身体を繋がれ、私は深く息を吸った。
装置が起動し、淡い光が肌を撫でるように流れる。
——瞬間、モニターが脈打つように波形を乱した。
「っ……!」
画面には明らかに“何かが入り込んだ”痕跡が映し出されていた。
以前と同じ揺らぎではない。より深く、より鮮明な“構造の歪み”が見える。
ノアが目を見開く。言葉に熱がこもった。
「……やはり、これは“干渉”されている。
君の中に、異界の構造が侵入している」
私は首を横に振る。「干渉って……そんなの、どういう——」
「驚くべきだ。魔力の通路が、一部、内向きに反転してる。
これでは、常時“誰かに覗かれている”ような状態だ。……すごい……」
言葉がどこか、危うかった。
静かに、理性的に語っているはずなのに、ほんのわずかに抑えきれない興奮が滲んでいた。
「ノアさん……。それって、私……どうなっちゃうんですか……?」
ノアは私の問いにすぐには答えなかった。
少しの間を置いて、まっすぐにこちらを見て——
「君の反応は、非常に興味深い。……いや、これは予想以上だ」
その瞬間、胸の奥に何かが冷たく沈んだ。
(……興味深い? 私のこと、そんなふうに……)
「すみません、少し……外の空気、吸ってきます」
私は測定装置を外してもらい、廊下へ出る。
息苦しさと、言いようのない恐怖が胸の奥に渦を巻いていた。
研究所の廊下は静かだった。
遠くで誰かの足音が響き、それが近づいてきて——
「ハルカ様」
ふと、ゼフィルが現れた。
赤い瞳が、まるで空を映した水面のように静かだった。
「……少し、顔色が優れませんね。大丈夫ですか?」
「……はい。ちょっと疲れただけです」
ゼフィルは私の言葉に、ふっと微笑む。
「そうですか。……でも、あまり無理はなさらないでくださいね」
彼は一歩、私の横を通り過ぎるとき、ほんの小さな声で続けた。
「……壊れてしまわないといいのですが」
「貴方か、あるいは——」
振り返る頃には、彼の背中はもう角の向こうに消えていた。
* * * * * *
その日の夕刻。研究所の執務室では、ノアが数人の部下と記録の解析を行っていた。
「この波形の“反転”領域、過去のサンプルと照合して」
「了解です、主任。……でもこれ、時間軸が逆流してるように見える部分、あります」
「ありえる。魂の記憶領域は、直線じゃない。……そこ、前回の“刻印記録”と重ねて」
「やっぱり、早いな……。主任、マルチタスクで七件処理してますよ……」
「研究と観察は別物だよ。混ぜて混乱しないように」
「無理です。普通は混ざります」
ぼやく部下に、ノアはひとつだけ小さく笑った。
「混ざらないのが、僕だから」
その言葉に、誰もが反論せず、端末に視線を戻す。
整った横顔のまま、淡々と指示を出し続けるノア。周囲からの絶対的な信頼は、天才の証明そのものだった。
そんな中、ひとりの若い研究員がノアにメモ端末を差し出す。
「主任、こちらのデータ、先月分と照合しても“揺らぎ”が一致しませんでした。やはり予測通りです」
「見せて。……うん、ありがとう。次の検体も頼む」
「了解です」
若い研究員は、丁寧に頭を下げ、すぐに次の作業に戻っていった。
その背中に、ノアがひと言だけつぶやいた。
「……期待してるよ」
それは、滅多に口にしない、ごく短い、率直な言葉だった。




