第1話 違和感と現実感
石造りの天井。木枠の窓から差し込む朝の光。どこか甘い花の香りが、微かに鼻をくすぐる。
——あれ? 朝? ……私、ベッドで寝てたっけ。
反射的に手を伸ばす。スマホ……どこ?
……今日、たしか、パッチのアップ日で……サーバーに……
(いや、それより……ここ、どこ?)
身を起こそうとして、ふと手が触れたのは見慣れない木の棚。隣にはアイアン製のランタンが置かれている。
どこをどう見ても、自宅でも職場でもない。
窓の外に、知らない空が広がっていた。
そうだ……私は、駅のホームにいて——そして、落ちた?
「……うそでしょ……」
声にならない声でつぶやいて、身を起こそうとしたけれど、頭がぼうっとしてるし体が思うように動かない。
指先がじんじんとして、喉がからからに乾いている。
戸口のほうで、誰かが椅子を引く音がした。
「起きたの? ……よかった」
振り返ると、見知らぬ女性が立っていた。
年の頃はたぶん40前後。胸元まである栗色の髪を後ろでざっくりまとめ、麻布のワンピースに深緑のエプロン。
どこか懐かしい、田舎のお母さんのような雰囲気。
ふっくらした頬と優しい目元が印象的で、どこかで会ったことがあるような安心感を覚える。
(なんだろう……この人、見たことあるわけじゃないのに、妙に安心する……)
そのせいか、ほんの少しだけ気が緩んだ。
「しばらく気を失ってたのよ。森の外れで倒れてるのを見つけたの。うちの人が、運んでくれたのよ」
“うちの人”ってたぶん旦那さんのことだろう。私はその言葉を聞きながらも、まだ混乱していて、うまく頭が回らない。
「大丈夫? まだ、痛む?」
私は首をほんの少しだけ振った。声が出ない。出したいのに、喉がぎゅっと縮こまってしまう。
女性はしばらく黙ってから、やさしく微笑んだ。
「無理に話さなくていいわ。焦らなくて大丈夫。ああ、私はリーナ。村で農家をしてるの」
私はわずかにうなずいた。
「……あなたの名前は?」
喉の奥に溜まった空気をゆっくり押し出し、唇を動かす。
「……は……るか……」
かすれた声。でも、確かに出た。
リーナはほっとしたように微笑んだ。
「ハルカちゃんね。じゃあ、今日はしっかり休んで。話は、元気になってからでいいから」
私は、うなずいた。
けれど頭の中は、真っ白だった。
……私は誰? 本当にハルカって、私のこと?
わかるようで、わからない。
私はまだ、自分が何に巻き込まれたのかも、自分が誰なのかも、わかっていなかった。
* * * * * *
熱が引いてきた夕方頃、私はある異変に気づいた。
トイレ、行きたい。
でも、声を出すのがまだ怖い。気まずい。でも行きたい。体内タイマーが刻一刻と迫ってくる。
「……と……いれ……」
蚊の鳴くような声が喉から漏れる。
リーナが「ん?」とこちらを向いた。恥ずかしい。できれば心を読んで察してほしかった……!
「……お……おてあらい……」
ぎりぎりの勇気をふりしぼって言うと、リーナは一瞬ぽかんとした後、にっこり笑った。
「こっちよ。ついてきて。ごめんなさいね。気づかなくて」
案内されたのは、建物の裏手にある木製の扉の先。まさかの、簡易な穴式トイレだった。
思わず足が止まる。石造りの床、木と藁の壁、吊り下げられたランタン。
清掃は行き届いているけど、どう見ても“日本のトイレ”ではない。
困惑を胸に抱きつつ、用を済ませる。桶に入った水で手を洗おうとして、ふと視線がそれた。
壁に掛けられた、磨かれた金属板。ぼんやりと顔が映っている。
「……え?」
私は思わず身を乗り出した。
ゆがんだ金属板に映っていたのは、見覚えのない少女の顔だった。
肩につく黒髪ストレートに、少し垂れ下がった眉。あっさりした目元。
地味だけど整った輪郭。
肌は若く、澄んでいるように見える。
「……誰?」
声が出た。
見知らぬ少女が、こちらを見返している。
でもその目の奥には、確かに私の“意識”があった。
いや、待って。これ、私?
鏡はぼやけているけど、それでもわかる。今の私は、あの“星ヶ谷 遥”じゃない。
私は、別人になっている。
何もかも、普通じゃない。そう確信するには、もう十分だった。
* * * * * *
次の日。
朝食を食べたあと、私はようやく体を起こせるようになり、リーナさんのすすめで庭に出ることになった。
リーナさんは今日も変わらず、朝から元気に台所を行き来している。
夫のロエルさんは畑仕事に出ていて不在。
この家にいる間、私は“何も知らない子”として、ごく軽い手伝いをしながら生活していた。
名前以外、なにも名乗っていない。
正確には、名乗れない。
自分がどこから来たのか、なぜここにいるのか、何をすればいいのか——
私自身が何も知らないから。
外は、ほんのり肌寒い風が吹いていた。空は澄んだ水色で、遠くには山が見える。
視界を遮るビルも電線もなく聞こえてくるのは鳥の声と風の音だけ。
(……これ、やっぱり夢じゃないの?)
リーナさんの家は、森のすぐ近くに建っていて、畑や井戸、薪小屋まである。
家の裏手には小さな鶏小屋のようなものもあって、コッコーと鳴いている。
(日本じゃない……のは確定。じゃあ、どこ?)
私は家の前の切り株に腰を下ろし、頭を抱えた。
朝からずっと考えてるけど、答えは出ない。スマホもないし、連絡手段もない。誰にも助けを求められない。
(海外の田舎……?)
いや、それにしては電線も車も見当たらない。どこをどう見ても、文明の痕跡がなさすぎる。
(映画のロケ地? セット?)
そんな現場ならスタッフのひとりくらいいるはずだし、こんなにリアルな空気、匂い、肌寒さ……再現できる?
(じゃあ……タイムスリップ?)
でも、建物も文化も、時代劇で見るような時代や中世ともどこか違う。
(現代じゃないのは間違いない。でも、どの時代かも、どの国かも説明できない)
(まさか、……異世界なんてこと、ある?)
そのとき。
上空で、ヒュゥゥゥ……と風を切る音が聞こえた。
反射的に空を見上げたけど、何も落ちてこない。だけど、リーナが気づいたように顔を上げた。
「……またね、変な風が吹いてるわね。ここのところ、空の上がざわざわしてるって、村でも噂になってるの」
(空がざわざわ……?)
言っている意味はよくわからないけれど、昨日感じた“あの音”と無関係には思えなかった。
リーナは気づいていないかもしれない。でも、私は知っている。
(私がここに来たあの瞬間、空が裂けるような音がしてた)
——もしかして、この世界で何か起きてる?
私は切り株の上で、身を小さく丸めた。
不安と疑問ばかりが膨らんで、誰かに聞きたくて仕方なかった。でも、誰に? 私は誰の知り合いでもない。
(どうしよう……わたし、帰れるの?)
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
そのときだった。
「リーナ、おるかー!」
元気な男の声が、庭先に響いた。
私はびくっとして顔を上げる。
「お届けもんだー!」
庭先に野菜か何かを届けにきたらしい男の声がした。けれど次の言葉に、私は思わず顔を上げた。
「そうそう、あともうひとつ——王城の人が来とるってよ!」
その言葉が、胸の奥にずしんと落ちた。
——その日、私は知らされることになる。
あの森に、異変が起きていたこと。
そして、それが私の“転移”と同時に起こったということを——。