第14話 守る者、変わる者
風が止んでいた。
遺跡の崩落はようやく収まり、土埃の向こうに、陽がぼんやりと滲んでいる。
音もなく、ただ空気だけが張り詰めていた。
「少年は大丈夫そうだね。擦り傷だけで済んだみたい」
ノアが魔導器を操作しながら、淡々と報告する。
ハルカはぽつりと呟いた。
「よかった……今回は助けられた」
ノアが魔導器から顔を上げ、ハルカに視線を向ける。
その眼差しは、いつもの分析的な光とは少し違っていた。
「君の“勘”……偶然にしては、できすぎてるねえ。
僕は“予知”って言葉、あまり好きじゃないけど」
「でも、君の言った通りだった」
ゼフィルが静かに続ける。
「特定の位置、特定の時間……精度が高すぎますね」
「……別に、確証があったわけじゃないの」
ハルカは視線を落とした。
(それでも、変えられた。たった数秒の差で)
「さて」
ノアが手を止め、少し声の調子を変える。
「まずは村に戻って状況を報告。それから、ライエルの腕も確認しようか」
「えっ……」
ハルカが顔を上げると、ノアがわずかに眉をひそめながら言った。
「伏せたとき、ライエルの右腕——
明らかに動きが遅れていた。おそらく、以前の傷がまだ癒えていない」
「……やっぱり……」
あのとき。強く抱きしめられたときに感じた微かな震え。
ハルカの胸に、嫌な予感がじわりと広がる。
「僕が診てもいいけど、本人がどう出るかだね」
ノアが軽く肩をすくめる。
(無理してる……ちゃんと伝えなきゃ)
そのときだった。
森の方から、風とは違う“気配”が一瞬だけ流れた。
ハルカは反射的に振り返る。
けれど、そこには誰の姿もない。
ただ、空気の揺らぎの中に、あの祠で感じた“少女の気配”によく似た何かがあった。
「……どうかされましたか?」
ゼフィルの声がすぐ隣で響く。
いつもと同じ柔らかさ。けれど、どこか温度の読めない微笑み。
「……ううん、なんでもない」
ハルカは笑顔を返した。
けれどその胸には、確かなざわめきが残っていた。
(あの子のこと……まだ、終わってない)
* * * * * *
村へ戻る道すがら、空はどこまでも静かだった。
崩落の痕跡が遠ざかるにつれ、現実がじわじわと押し寄せてくる。
ハルカは、列の後ろにいるライエルにそっと歩調を合わせる。
崩落のとき、彼に抱き寄せられた右腕——あのとき、ほんのわずかに震えていたのを忘れていない。
「……ライエルさん」
呼びかけると、彼は短く「ん」と応じた。
「腕、無理してませんか?」
「してない」
即答。それ以上、何も語られない。
けれど、ハルカは引かなかった。
「……隠さないでください。私、気づいてます。
前も……あのときも、傷がまだ治ってなくて——」
「……お前が無事なら、それでいい」
ぽつりと落ちたその一言に、胸が締めつけられる。
「私は……もう、守られるだけじゃいたくないです」
小さな声だった。けれど、それは確かにハルカの意志だった。
ライエルは少しだけ視線を落とし、足を止める。
そして、静かに思い出していた。
(……変わったな)
最初に会ったのは、あの村だった。
王都から派遣された騎士として、保護されていた村人のひとりとして彼女と接した。
当時のハルカは、言葉もどもり、目も合わせられなかった。
王城に来てからもしばらくは、人の輪の端で小さく縮こまっていた少女。
今、こうして自分の言葉で思いを伝えている。
「……強くなったな」
誰にも聞こえないほどの声で、ライエルは呟いた。
だからこそ、自分は——
(この命で、守り通す)
ハルカが気づかないところで、彼の決意はさらに深く、固くなっていた。
* * * * * *
村に戻ったハルカは、まっすぐ階段を駆け上がった。宿の二階、ちょうど部屋に入ろうとしていたライエルの背中が目に入る。
「ライエルさん!」
思わず呼びかけると、彼は振り返る。無言のまま立ち止まったその背に、ハルカは詰め寄る。
「腕、見せてください。……お願いです」
彼は目を細め、短く返す。
「もう腫れも引いてる。大丈夫だ」
「……本当に?」
廊下に、静かな気配が漂う。
後ろからノアが現れ、魔導器を手に歩み寄ってくる。
「君の“だいじょうぶ”は、だいたい信用できないって最近わかってきたよ。ちょっと見せて」
ライエルはため息をつきながらも、袖をまくって右腕を差し出す。
ハルカがそっと包帯をほどくと、腫れが引いたはずの腕には、まだうっすらと痣が残り、内側は熱を持って腫れていた。
「……これは、完治してない。むしろ悪化しかけてる」
ノアが魔導器を翳しながら、冷静に言う。
「一時的に炎症は抑えられてたけど、深部の魔力干渉が抜けてない。時間の問題だった」
ハルカの手が小さく震える。
(この傷……あのとき……)
最初の回帰のとき、遺跡でできたかすり傷。自分が治療して、腫れもひいてきたとライエルが言っていた。
信じていた。もう、大丈夫だと思っていた。
「……どうして黙ってたんですか。こんなになる前に、言ってくれたら……っ」
「言っても結果は変わらない。俺は動く。それだけだ」
「それだけ、って……!」
怒りとも悲しみともつかない感情がこみ上げ、ハルカは拳を握る。
「あなた、また自分を犠牲にしようとしてるんじゃないですか……!」
ライエルは何も答えない。その沈黙が、肯定よりも重く響く。
ノアがため息をつきながら術式で処置を始めた。
「応急処置はするけど、根本的に治すには時間が要る。無理はさせたくないけど……言っても聞かないんだろうなあ」
その声に、ライエルは視線を逸らしたまま黙っていた。
* * * * * *
午後、ゼフィルが村人たちから聞き取りを終えて戻ってきた。
「ルルカの村でまた人が消えているようです。深夜、誰にも気づかれずに忽然と」
「……まだ続いてたんだ」
ハルカが息を呑む。
ライエルは何も言わなかったが、目の奥に一瞬、光が揺れた。
「私たちが調査したときは静かだったのに……」
「今も、誰も“何が起きているか”を語りたがらないそうです。皆、森に近づかない」
ゼフィルは静かに報告を続ける。
「でも、今なら何か痕跡が残ってるかもしれません」
ノアが頷いた。
「調査するなら早いほうがいいね。……ライエル、動ける?」
「行く」
短く答えたライエルの声には、迷いはなかった。
ハルカは彼の背中を見つめる。
(また何かを、独りで背負おうとしてる)
* * * * * *
その夜、眠れないまま、ハルカはぼんやりと天井を見つめていた。
窓の外では、月が雲の切れ間からのぞいている。風がカーテンを揺らしたその時——
空気が変わった。
ひんやりとした気配。振り返ると、そこに“あの少女”がいた。
顔立ちはあの少女とまったく同じ。
けれど、何かが違う。
身にまとっているのは赤い衣で、どこか強い意志を感じさせる雰囲気を纏っていた。
(同じ顔……なのに、誰?)
「——こんばんは」
その声は、風の音に溶けるようにやさしく、透き通っていた。
「見えるようになったんだね」
「……あなたは、誰?」
問いかけると、少女はふわりと微笑んだ。
「姿は、同じように見えるかもしれない。けれど、私は“あの子”じゃない」
「“あの子”って……」
「——今も、囚われてる。ずっと、眠ったままのあの子」
ハルカは息を呑んだ。
「助けを求めてた……あの子?」
少女は静かに頷いた。
「彼女を縛るものは、まだ深くて暗い。
でも、あなたには見つける力がある。……選べるうちに、選んで。
“誰を守るか”を」
「誰を、って……」
少女は答えなかった。
けれどその視線は、まっすぐにハルカの心を射抜いてくる。
まるで、自分でも気づかない想いを見透かされているようだった。
「あなたが見ようとしているものと、彼が見ようとしていないものは、きっと同じ」
「“彼”って……」
そう尋ねようとした時——
風が吹き抜けた。
次の瞬間、少女の姿はもうどこにもなかった。
ただ、月の光が静かに差し込む部屋の中に、冷たい余韻だけが残っていた。
ハルカは胸元に手を当てる。
(ルルカの村。あの子。そして——ライエルさん)
繋がりはまだ曖昧だ。
けれど、自分が選ばなければならない瞬間が、確かに近づいている気がした。




