第13話 揺れる温度
——冷たい床の感触が、ふっと消える。
(……戻ってきた?)
目を開けると、見慣れた天井と、ぬくもりの残る布団の中。
遠くで鳥の鳴く声が聞こえる。窓の外には朝靄が漂っていた。
ハルカは、ごろりと転がって天井を仰ぐ。
次の瞬間、胸の奥を強く締めつけられるような感覚が襲った。
(……確かに、“あの時”の前)
昨夜、ライエルの手がそっと頭に触れた。
でも、今日の調査で、彼は瓦礫に潰されて——
(もう繰り返さない。絶対に)
ハルカは布団を跳ね上げて立ち上がった。
* * * * * *
宿のロビーには、すでにノアとゼフィルが揃っていた。
ハルカの足音に気づいたノアが目線を向ける。
「今日は早いね。……何かあった?」
ハルカは迷わず切り出した。
「今日、村で異変が起きるかもしれません。遺跡の魔力流が、不安定になります」
ノアが目を細める。
「理由は?」
「確証はありません。でも……見たんです。遺跡が崩れて、誰かが巻き込まれる未来を。はっきりと」
ノアはしばし黙考し、静かに息をついた。
「——幻視か予知かはともかく。
君がそこまで言うなら、無視はできないね。
……魔力の流れが“荒れてる”ってのも気になるし」
ゼフィルも穏やかに頷いた。
「……あなたがそう感じたなら、慎重に確認すべきでしょう。判断を誤れば、取り返しがつきませんから」
その言葉に、ハルカはわずかに肩の力を抜いた。
* * * * * *
遺跡へ向かう途中。
風のない空気。鳥の羽ばたき。すべてが、前の時間軸と重なっていく。
崩落地点が近づいてきたところで、ハルカはわざと足を止める。
「……ちょっと、お花を摘みに。先に行っててください」
ゼフィルが振り返るが、何も言わず頷くだけだった。
ノアも「戻ってこないなら……置いてくよ?」と短く告げて歩き出す。
(……このあたりだったはず)
崩れた柱の根元。少年がいた場所を頼りに、瓦礫をかき分けていく。
(たしか、この辺りで何かを……)
石の隙間に、うっすらと何かが光った。
陽光をかすかに反射する、銀色の細い鎖。
(もしかして……)
手を伸ばしかけたその瞬間、背後から声がした。
「ねえ、お姉ちゃん、なにしてるの?」
振り返ると、小柄な少年が草をかき分けて出てきた。
煤けた服。小さな手。間違いない——彼だった。
「ペンダント……なくしちゃって。母ちゃんにもらったやつで……」
目元に不安を滲ませた少年。
ハルカは、そっと手元の銀のペンダントを拾い上げ、差し出す。
「これ……じゃないかな?」
「——あっ、それ! ありがとう!」
無邪気な笑顔と共に、少年が手を伸ばす。
(助けられた……)
そう思った次の瞬間だった。
ゴォッ——!
空気が唸りを上げ、突風が遺跡を駆け抜ける。
砂が舞い、木々がうねり、石壁がきしむ音がした。
(来る!)
「伏せろ!」
誰かの叫びが響いた。
ハルカは少年の手を引き、とっさにその場から駆け出す。
地面が揺れた。振り返る間もなく、柱が崩れ落ちる轟音が響いた。
視界の端で、さっきまでいた場所が、瓦礫と土煙に飲まれていく。
「——っ!」
咄嗟に少年を抱き寄せ、地面に身を伏せた。
しばらくして、静寂が戻る。
(ほんの少し遅れていたら、間に合わなかった)
汗ばむ手のひらと、鼓動の速さに、ハルカは強く実感する。
——運命は変えられる。でもそれは、いつだって紙一重。
抱きしめた少年の肩が、小刻みに震えていた。
「……大丈夫。もう大丈夫だよ」
ハルカはそう囁いて、瓦礫の向こうから誰かが駆けてくる足音に気づいた。
(——ライエル)
* * * * * *
崩落の衝撃が過ぎた遺跡には、土埃がうっすらと漂っていた。
空気は静まり返り、瓦礫の隙間から差し込む光だけが、さっきまでの喧騒を嘘のように照らしている。
「ハルカッ!」
呼ばれた名に反応するより先に、身体が引き寄せられていた。
土の香りと、汗を含んだ軍服のにおい。
そして、熱い腕が、ハルカを包み込む。
「……無事、か……よかった……っ」
それは、誰よりも力強く、誰よりも優しい抱擁だった。
声が、震えていた。
(……ライエル)
ハルカは胸の奥に、こみ上げてくるものを押しとどめながら、そっと目を伏せた。
ふと、傍らにいた少年が首を傾げて、ぽつりと尋ねた。
「お姉ちゃんの……彼氏なの?」
その一言が落ちた瞬間、二人の間に火が点いたような沈黙が走る。
「えっ——」
「ち、ちがっ……!」
ライエルは顔を逸らし、耳まで真っ赤に染まっていた。
ハルカも目を逸らしながら、わたわたと手を振る。
「その、違うの。あの、えっと……!」
少年はきょとんとした顔で二人を見ていたが、次の瞬間、遺跡の奥から足音が響いた。
「……まさか瓦礫からじゃなくて、熱っぽい雰囲気から救助する羽目になるとはねえ。……無事で何よりだけど」
ゆるい語調とともに現れたのは、ノアだった。
服に付いた砂を払いながら、呆れたような、けれどどこか楽しげな顔をしている。
続いてゼフィルも姿を見せた。
「……なかなか、よい光景でしたよ」
ハルカが振り返ると、ゼフィルはいつもの柔らかな微笑みを浮かべていた。
そして、冗談めかすように続けた。
「こういう時、人は無意識に本音を見せるものですから。……次は、心臓に悪くない展開になることを祈っておきますね」
ライエルは俯きながら、耳まで赤く染めたまま何も言えずにいた。
——そして、ハルカの鼓動はまだ、落ち着きそうになかった。




