第11話 二度目の回帰
朝の光の中、ライエルは無言で装備を整えていたが——その左腕を、やはり時折押さえていた。
(昨日よりも……痛そう)
皮膚が赤黒く変色し、傷の周囲がわずかに脈動しているように見える。
ハルカは近づき、そっと声をかけた。
「ライエルさん、その傷……もう一度、見せていただけませんか?」
ライエルは一瞬目を伏せたが、素直に腕を差し出した。
ハルカは包帯をそっとほどき、昨日施した湿布の状態を確認する。
「……少し、広がってる。効いてないわけじゃないけど、油断はできない」
薬草を新たに練り直して塗り替え、今度は湿布の上からやや広めに保護布をあてた。
「冷やすより、これ以上炎症が広がらないように……。圧もかけすぎず、緩めに」
丁寧に、慎重に。昨日よりも手が自然に動く。
「判断も処置も早い……すごいですね。医療に携わったご経験があるのですか?」
ゼフィルがそっと腕を支えながら、静かに言った。
ノアも魔導器で再測定を始める。
「毒素反応はない。……だが、魔力の通りが鈍い」
「それって……」
「普通の傷ではないということだ」
ハルカは黙って包帯を巻き終えた。
(この世界では、私の知識も、私の手も、無力かもしれない。でも……それでも)
* * * * * *
その日の調査は慎重に進められた。
魔力の波は比較的穏やかで、前回ほどの混乱はなかった。
それでも、ハルカはずっとライエルの様子を気にしていた。
(嫌な予感がする。何かが、違う)
そして、それは夜になって現実となった。
* * * * * *
村に戻り、夕食を終えた頃。
ライエルはふらりと立ち上がり、ふらつく足取りで外へ出た。
「……ライエルさん?」
ハルカが慌てて追いかけると、彼は建物の陰で壁にもたれかかっていた。
「ッ……う……」
その腕からは、まるで焦げたような黒い痕が広がり始めていた。
「ノアッ!! 誰か……ゼフィル!!」
叫ぶ声が、冷たい夜風に吸い込まれていく。
けれど——もう間に合わなかった。
ライエルの身体が、ゆっくりと膝から崩れ落ちた。
「……そんな……嘘でしょ……今度こそ守ったのに……っ」
地面に崩れ落ちた彼の顔は、穏やかで——だからこそ、余計に痛かった。
——世界が、奪った。
ハルカの選択も、努力も、何もかも無意味だったかのように。
(私じゃ、守れないってこと……?)
その瞬間だった。
視界がぐにゃりと歪み、空気がねじれる。
風も音も、色さえも崩れていくような感覚。
(また、来る……)
光がハルカを包み、すべてが反転する。
意識が沈んでいく。
けれどその最後の瞬間、ハルカは確かに願っていた。
(今度こそ、助ける。絶対に——)
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視界が、白い光で満たされていた。
音も匂いもない虚無の中、ハルカの意識がゆっくりと浮かび上がっていく。
そして——その光が静かに引いていったとき。
「ハルカ様ですね?」
凛とした声。
見覚えのある廊下、聞き覚えのあるセリフ。
目の前には、プラチナブロンドの髪を揺らす少年の姿があった。
(……戻ってきた。やっぱり……あの時と同じ)
ゼフィル。
王直属の監察官。
彼がそう名乗る前に、ハルカは確信していた。
「王命により、あなたの行動を監察するよう命じられました。
ゼフィル・アルネストです。以後、よろしくお願いします」
完璧に同じ。声も、口調も、微笑の角度さえも。
「……よろしく、お願いします」
前回よりも冷静に答えたつもりだった。
でも、指先はかすかに震えていた。
* * * * * *
それからの流れも、前と変わらなかった。
禁書庫の調査許可、ルルカの遺跡への出発、そして村への到着。
ただ一つ、ハルカの中では明確に違っていた。
(ライエルさんの腕……)
宿に荷を下ろした直後、彼女は意を決して声をかけた。
「すみません。先ほどの……あの傷、見せていただけませんか?」
唐突な申し出に、ライエルはわずかに目を見開いた。
「……かすり傷だが?」
「はい。……でも、気になるんです。前にも、似たようなことがあって」
嘘ではない。
過去(2周目)を知っていることは言えない。
でも、今なら——助けられるかもしれない。
ライエルは無言で腕を差し出した。
薬草と布を取り出し、前日と同じように湿布を調合して患部にそっと当てた。
腫れが広がらないよう保護布を巻き、包帯で軽く固定していく。
ゼフィルがさりげなく隣に立ち、腕を支える角度を調整してくれた。
「処置、的確ですね」
その一言に、少しだけ肩の力が抜ける。
ノアも無言で魔導器を構え、測定値を確認している。
「自然治癒力がやや低下してるね。放置すれば悪化の可能性もありそうだ」
——違う。
前は、こういう言葉はなかった。
今は、未来が変わり始めている。
ハルカは、強くそう信じていた。
(今度こそ、守れる)
* * * * * *
夜。村の宿の空気はしんと静まり返っていた。
ハルカは布団の中で眠れずにいた。瞼を閉じても、昼間の出来事が繰り返し浮かんでくる。
(処置、ちゃんとできてたかな……)
(……ライエルさん、痛そうじゃなかったかな)
胸の奥で、焦りと不安が混じり合う。
外の空気を吸いたくなって、そっと布団から抜け出した。
宿の小さな縁側に出ると、そこには先客がいた。
「……起きてたのか」
ライエルだった。
けれど——その姿に、ハルカは思わず目を見張った。
(……ライエル、さん……?)
いつもの軍服姿ではない。
ゆったりとした夜着をまとい、額には少し濡れた前髪がかかっていた。
洗いたてなのだろう。髪は下ろされ、毛先がところどころしっとりとしている。
(ちょ、ちょっと待って……髪下ろしてる!? しかも、少し濡れてる……!?)
柔らかな髪が月光を受けてきらめき、
表情もいつもより穏やかで——
けれど、その佇まいは変わらず凛としていて。
“隙”と“威厳”が同居する、そのギャップにハルカの脳内は爆発寸前だった。
(……髪を下ろしたライエルのスチルでさえ息止まるくらいだったのに、
現実は濡れ髪+実写化……いやもう、尊死不可避)
なんとか呼吸を整え、口を開く。
「……ね、眠れなくて……」
思っていたよりも、声が掠れていた。
「俺もだ」
それきり、しばらく言葉はなかった。
けれど、不思議と気まずさは感じなかった。
しばらくして、ライエルがぽつりと呟いた。
「……昨日の処置、助かった。腫れもひいてきた」
その言葉に、ハルカは思わず顔を上げる。
「よかった……でも、本当に大したことは……」
「他の誰にも、気づかれなかったと思う」
低く、けれど確かに感謝の滲んだ声だった。
「俺は……人に頼るのが、苦手でな」
不器用な口調。けれど、それがライエルの本音だった。
「でも、お前が手を伸ばしてくれたのは……素直に、嬉しかった」
ハルカの胸が、きゅっと締めつけられる。
(あ、これ——イベントCG来るやつじゃない?)
……いや、ちがう。これは現実だ。
だけどその重みと尊さは、ゲームよりずっと強い。
「……わたしも、守ってもらってばかりじゃいられませんから」
ハルカは、そう言って微笑んだ。
ライエルが少しだけ目を丸くして、ふっと息を吐いた。
「……心強いな」
その一言が、月明かりの下で静かに胸に響いた。
風が、ふわりと吹き抜ける。
その風に乗って、ライエルが一歩だけこちらへ近づいた。
(え、近い……近い近い近い!!)
逃げ場などない縁側で、気づけばその距離は腕一本分もなかった。
息を飲む間もなく、ライエルの手が、ゆっくりと伸びてくる。
そして——
その大きな手が、ためらいがちにハルカの頭に触れ、そっとぽん、と撫でた。
(いやもう……やっぱりこの人、破壊神では……!?)
毛先から零れかけた一滴が、わずかに月光を揺らす。
濡れ髪越しの視線が、妙に優しくて——
それだけで、鼓動が跳ね上がる。
不器用な優しさ。
それは、ただの好意でも慰めでもない——確かにひとつの“信頼”の形だった。




