第10話 新たなる代償
ライエルは、生きていた。
その事実を、この目で見て、声を聞いて、それでもなお、ハルカの心は混乱の渦中にあった。
(巻き戻った……私は、一度……)
確かに、死んだ。
ライエルが目の前で命を落とし、その直後、自分もまた光に呑まれて意識を失った——あの記憶が、夢ではないことはわかっている。
けれど今、彼は何事もなかったようにそこに立ち、ゼフィルは再び自己紹介をしている。
まるで時間が“やり直された”かのように。
「ハルカ様?」
不意に呼ばれて我に返ると、ゼフィルが首をかしげていた。
「え、あ……すみません、ちょっと、ぼうっとしてて……」
なんとか取り繕うと、ゼフィルは「では、禁書庫へ」と静かに歩き出した。
その背に続きながら、ハルカは心の奥底で震えるような決意を固めていた。
(今度こそ、守る。貴方も、あの子も、誰一人失わせない)
* * * * * *
禁書庫への道のりは、記憶の通りだった。
だけど、ほんの些細なズレがある。
ノアの歩く位置。ゼフィルの沈黙の長さ。衛士の巡回時間。すべてが「ほとんど同じ」なのに、完全には一致しない。
(やっぱり……同じ時間じゃない。厳密には“再現”ではなく“巻き戻し”)
ハルカは直感で理解する。
この世界は“元通り”には戻っていない。
これは、新しい流れ。過去のやり直しでありながら、運命はすでに“別の何か”に触れ始めている。
* * * * * *
王都を発ち、再び遺跡調査へ向かう日の朝。
馬車の前で、ライエルが短く指示を飛ばす姿を見て、ハルカは言葉を失った。
(……あの時、この人は……)
胸がぎゅっと締めつけられる。
何も知らずに任務に臨むその背中が、あまりに無防備に見えて——
「ハルカ。乗れ」
低く短い声に、思わず身体が反応する。
ハルカは小さく頷いて、馬車に足をかけた。
そして心の中で、もう一度だけ呟く。
(今度こそ、私が変えてみせる。貴方を……死なせたりしない)
* * * * * *
遺跡に到着してからの進行も、前回と同じように見えた。
ノアが結界の瘴気を測定し、ゼフィルが警戒を強めながら周囲を見張る。
ライエルは前衛に立ち、無言で進路を確保している。
(前回、何がきっかけだった? 結界の歪み……魔力の乱れ……)
あの死の瞬間の記憶を必死に探りながら、ハルカは周囲を観察していた。
(たしか、ノアが「逸れた」と言って——)
そのときだった。
足元の魔力が、ごく微かに揺れた。
(来る——!)
瞬間、ハルカは一歩、ライエルの背後から斜めに位置を移動した。
そしてその数秒後。
「魔力の流れが——逸れた!? 離れろッ!」
ノアの叫びとほぼ同時に、空間が脈打つように膨れあがった。
だが今度は——ライエルの立ち位置は、奔流の直撃を外れていた。
爆風が過ぎ、埃が舞い上がるなか、ハルカは咳き込みながら顔を上げた。
「ライエルさん!」
彼は、無事だった。
わずかに衣服が焦げ、腕にかすり傷があるが——命に関わるような傷ではない。
ライエルはハルカを見て、一言だけ呟いた。
「……なぜ、今そこにいた?」
その瞳には、わずかな戸惑いが滲んでいた。
ハルカは、答えられなかった。ただ、ほっとしたように微笑んで、首を横に振る。
「なんとなく、です」
それが、回避された“運命の死”だった。
けれどハルカは知っている。
これで終わりじゃない。 この先に、まだ“試練”は続いているのだということを——。
* * * * * *
魔力の奔流が収まり、遺跡の空間が静けさを取り戻した。
ライエルは無事だった。 それだけで、ハルカの胸には熱いものがこみ上げていた。
けれど、ノアの眉間には皺が寄ったままだった。
「記録と異なる。……反応の波形が、前回よりも長く、深い」
魔導器を操作しながら、ノアは淡々と呟いた。
「不安定さは増しているように見える」
「再調査が必要ですね」
ゼフィルが続ける。視線は遺跡の奥、先ほど奔流が発生した方角を鋭く見据えていた。
「今日はこれ以上深入りしない方がいい」
ライエルが短く告げ、調査隊は一時撤退を決めた。
* * * * * *
遺跡から戻る途中、小さな村に立ち寄ることになった。
補給と休息のために寄ったその村は、古くから遺跡と関わりのある場所だという。
「供儀場だった頃の話、聞いたことがあるかもしれません」
宿の老婆が、ぽつりと語った。
「昔、この土地は異界と繋がっていた。供物が足りなければ、災厄が降ると……」
「供物……って、人、ですか?」
ハルカが恐る恐る尋ねると、老婆は小さく頷いた。
「ひとりじゃ……足りんかったんだろうねぇ」
その言葉が、脳裏に焼きついた。
* * * * * *
夜。ハルカは宿の布団の中で目を閉じながら、少女のことを思い出していた。
——あの祠の中で、ひとりぼっちで残されていた、小さな存在。
そのとき。
夢の中で、声が響いた。
『ひとりじゃ……足りない……』
『……まだ……たりない……』
少女の囁き。それとも、もっと別の何か。
声は冷たくも、哀しみに満ちていた。
(……代償。まだ、足りてない?)
ハルカが目を開けた瞬間、背中に冷たい汗が流れていた。
* * * * * *
翌朝。
ライエルは左腕を押さえていた。
「どうかしましたか?」
「いや、昨日の傷が少し……治りが遅い」
ほんのかすり傷だったはずの傷跡が、うっすら赤く腫れている。
「……魔力汚染の可能性もある。診てみようか」
ノアがすぐに魔導器を取り出して測定を始めた。
「異常はなし。……ただ、自然治癒が妙に遅い。原因は不明、だね」
ハルカの胸に、不穏なざわめきが広がる。
(また……違う形で、ライエルが……)
世界が、運命が、“死”を修正してきている。
回避された死は、一時的な猶予にすぎないのかもしれない。
(次は、違う場所で……?)
ハルカは拳を強く握りしめた。
まだ何も終わっていない。
ライエルの腕にふと目が留まった。
腫れが広がっているのが、布越しにもわかる。色は赤黒く、どこか禍々しさすら感じさせた。
(この色……医学的に説明はつかない。でも……)
ハルカの中に、かすかな緊張が走った。
それでも、足が前に出る。
「ライエルさん……その傷、もし……見せてもらえるなら」
ライエルは無言のまま腕を差し出した。
その信頼が、ありがたくて、少しだけ怖かった。
(あの時は……何もできなかった)
(でも今は、目を背けたくない)
ハルカは布をそっとめくり、傷の腫れと熱を確かめる。
応急処置ではどうにもならないかもしれない——それでも、何かしたかった。
「これ、薬草をすり潰して湿布みたいにすると少しは……」
携帯袋から取り出したのは、村で分けてもらった保存用の薬草と、包帯。
急遽簡易的な湿布を作り、患部を覆うように軽く押さえる。
「冷却は逆効果になるかもしれません。これで少しでも熱が引いてくれれば……」
根拠は薄い。でも、心から“助けたい”と思っていた。
「……ありがとう」
ライエルの一言が、静かに落ちた。
それが、たまらなく重く、優しかった。
看護師として過ごした日々。短かったけれど、必死に学んだことは身体に染みついていた。
ハルカはゆっくり息をつきながら、包帯を丁寧に巻いた。
その手が少し震えていたことに、彼は気づいただろうか。




