プロローグ
世界が、ほどけていく。
星が落ちるように視界が滲んで、身体の輪郭が少しずつ消えていくのがわかった。
空気に溶ける、でも誰にも気づかれない。まるで最初から、存在していなかったみたいに。
そんな終わりを、もう何度目だろう。
この世界に来てから、私は何度も死んだ。
そのたびに、目を覚まして、またやり直した。
でも、今度は違う。
本当に、終わる。
私は、誰の記憶にも残らないまま、ただのモブとして消えていくんだ。
でも——
「……ハルカ」
名前を、呼ばれた。
私の名前を。
たしかに、誰かの声が——
ゆっくりと振り返ると、彼が立っていた。
朝、目が覚めて最初に思ったのは、「今日も誰とも話したくない」だった。
私は、星ヶ谷 遥。38歳、独身。彼氏いない歴=年齢。
でも“友達ゼロ”ってわけじゃない。リアルには数人、ネットには十数人の推し仲間がいる。
推し語りしてるときだけは、けっこう元気。
会社では……まあ、空気みたいな存在。
「星ヶ谷さん、R社の修正データの資料なんだけど——」
振り返って、目を泳がせる私。
「……あっ、はい。ええと……その……どこに…………」
そんなこと言ってる間に、相手はもうイライラしてる。
「……やっぱり、自分で探します」
はい、またこれ。……いつものパターンだ。
ブラック企業の朝は早い。私は今日も魂をすり減らしてコードと格闘している。
前職は看護師だった。でも、小児科の現場で、目の前の命に何もできなかった。
その一件で、心がぽっきり折れた。
責任を押し付けられ、対人関係に絶望し、命と向き合うことすら怖くなって、逃げるように辞めた。
部屋に引きこもっていた頃、私を救ってくれたのが乙女ゲーム『薔薇と鏡の王国』——通称ロズミラだった。
彼らは、優しかった。
誰も私を責めなかった。
画面の中で“必要とされる”ことが、こんなにも救いになるなんて思わなかった。
その世界に触れているうちに、少しずつ呼吸を取り戻した私は、再び社会に踏み出した。
比較的人と関わらなくていい、初心者歓迎(という名の即戦力)なブラックIT企業。
内容はともかく、生きていくには働くしかない。
ロズミラがあったから、私はまた歩き出せた。
かれこれ15年以上も推し続けている、私の心の支え。
最推しはディアル様。誰よりも優しく、誰よりも遠い人。
……もちろん全員推しのフルコンプ勢ですけどね。
5年前にスマホ移植版が出たときは歓喜した。課金もした。イベントスチルは全部保存してる。推しにはお布施主義。
“この人のことを、分かってあげられるのは私だけ”
……そんなふうに思ってた。今でもちょっと、思ってる。
推しがいなかったら、私はとっくに人生詰んでた。
でも——
実際、詰んだのは。
通勤電車のホームだった。
誰かのちょっとした悪意か、あるいは偶然か——
あの日、背中にほんのわずかな力を感じた。
驚いて振り返る間もなく、足を踏み外して——
私の人生は、駅のホームで、あっけなく幕を閉じた。
……はずだった。
落ちる直前、見えた。
画面の中の彼とまったく同じ、静かに燃えるような眼差しが。
薄れゆく意識の中で、世界が再構築される。
バチン、と何かが弾ける音。
耳をつんざく轟音。
視界が、白と黒に反転した。
そして——始まった。
ここじゃないどこか。
美形ばかりの、きらびやかな異世界。
見覚えのある城、騎士団の制服、そして、見たことあるようで全然違う推し。
これは、ゲームの世界……?
でも、私は——
「ヒロインじゃないんですけど!?」
こうして、人付き合いが苦手なアラフォーOLの人生は、乙女ゲームの“脇役”として再スタートしたのだった。