前編
ワシ──飯塚茂雄は杖をつきながら喜々と銀行のATMに向かった。念願の年金支給日だからだ。いつもは歩いて数分も掛からないミニスーパーで食糧品や生活用品を購入しているワシにとって駅前のATMは県をまたぐほどの遠き旅路だった。
いつもは数メートル歩いたぐらいで休憩するが、今日は休憩なしで行けそうだ。やはり、いつの時代でも金の力は大きい。
ATMに着くと、ワシより年下かちょい上の老人達が列を成していた。ここのATMの機械は全部で五台あるがそのうちの一つしか紙の通帳を取り扱っていない。だから、こんなに行列が出来てしまう。
惨めな事に並んでいるほとんどがワシら老人でそれ以外は最新機種の方に向かっていた。スマートフォンを忙しそうに弄ったり電話したりしている年下達が立ち食いそばみたいにササッと済まして出て行った。
テレビのニュースではキャッシュレス化が浸食されていき、ワシらみたいな現金派は少数になっていった。でも、別に構わない。残り少ない人生だ。今更変えた所でストレスで寿命が縮むだけだ。
ようやくワシの番になり、支払うべきものを支払った後、今日いくら引き出すか考えた。
ふとワシの古ぼけた脳内スクリーンにカレンダーが浮かんだ。赤い文字で『│和子、結婚記念日』と書かれていた。
和子はワシの妻だ。そうか。今日で六十年になるのか。
まだ二人とも生きているうちに祝っておこう。ワシは奮発していつもよりも多めに引き出すとATMを出た。
*
「ありがとうございましたー」
いかにもやる気がなさそうな若造の店員にレジ袋を受け取ってミニスーパーを出た。
全く最近の若者はだらしない奴ばかり──と言いたい所だが、ワシも若い頃は『お前みたいなだらしない奴はお先真っ暗だぞ!』と父親に言われたっけな。今では父が死んだ時よりも長く生きてしまった。
生まれてきて86年か。そして、和子と出逢って結婚して六十周年。よくぞここまで長く続いたと自分を褒め称えたい。
和子は蕎麦屋のマドンナだった。今は干し柿みたいに皺皺だが、若い頃の和子は桃のように赤くふっくらしていて愛嬌が良かった。
あの店に通う男性の多くは和子が目当てで来ていた。ワシもそのうちの一人だった。
どういうキッカケで付き合うことになったのか──恐らくボーナスが貰えた時だろう。その日は奮発してかき揚げ蕎麦ではなく鰻の特上を頼んだ。
今は輸入や養殖が多いが、あの頃は鰻といったら天然物だった。その時の味はあまり思い出せないが、和子が嬉しそうに私の食べっぷりを眺めていたのは克明に覚えている。今も昔も鰻は高級品だから頼んでくれる人がいたのが嬉しかったのだろう。そういえばあの蕎麦屋は家族経営だったっけ。
何はともあれ、そこから交際が始まり、半年ぐらい経って結婚。猛烈に仕事をしながら何人かの子供を育てて巣立って、定年退職して年金生活を送っている。
今日は結婚記念日。だから、出逢うキッカケをくれた鰻の蒲焼きを買ってきた。昔みたいに丸々一匹は食べれないが、二人で一緒に食べれば一週間は贅沢な気分が味わえるだろう。
そうこうしていると、団地に着いた。まるで廃墟みたいな無愛想なコンクリートだ。今は剥がれやヒビ、ネズミや害虫の憩いの場だが、昔は宝くじよりも抽選倍率が難しい言われたほど憧れの場所だった。
ワシは古いエレベーターに乗って五階に上がった。早く和子の喜ぶ顔が見たかった。鰻なんて贅沢品は十年以上食べていなかった。
ドアが開き、ワシは自分達が暮らしている部屋の番号を確認しながら進んでいった。
「501、502、503……あった」
キチンと声に出して自分の部屋の前に着くと、ポケットから鍵を取り出した。無くさないようにチェーンやキーホルダーを付けているので、取り出す際にジャラジャラとうるさかった。
鍵を開けて中に入る。
「ただいまー」
しゃがれた声で玄関から挨拶するが、返事はない。いつもだったら、「お帰りなさい」とヨボヨボと出てくるはずなのに。
トイレかなと思って入り口すぐにあるドアを見た。が、真っ暗だった。
「和子ー? いるのかー?」
少し大きめに呼びかけるが、先程と同様静まり返っていた。
ワシは胸騒ぎがした。不整脈でなければ、和子の身に何があったのかもしれない。ワシの錆び付いた想像力がフラッシュバックみたいに広がった。
部屋のどこかで倒れている和子、遺影を持つワシ、墓の前に手を合わせて鰻をお供えする──ここ数年先の未来が見えた。
それはあんまりだ。結婚記念日が和子の命日になるなど。どうせ連れて行くならワシにしてくれ。
「きゃあうぅぅぅ~ん!!」
すると、今まで聞いた事ないような甲高い叫び声が聞こえた。ワシは安堵と不安の二つ占拠されていった。
今のは和子なのだろうか。ただの鳥か。もし和子だったら、まだ生きて──いや、事故を起こした直後かもしれない。
ワシはレジ袋を棄てるように置いて、固定電話の受話器を取った。万が一何があってもいいように即座に電話できる態勢を取った。
壁に伝いながら廊下を進んでいくと、リビングに出た。和子の姿はいなかった。小さい台所を覗き込んでもいなかった。
いつも開いている寝室のふすまが閉まっていた。まさか寝ている最中に落下したのかと心臓が高ぶっていった。このまま行くと、ワシが先に倒れそうだった。
気が遠くなりそうになりながら進んでいくと、ふすまから声が聞こえてきた。まだ生きている──とホッとしたが、何かゴニャゴニャ言っている事に気づいた。
補聴器の電源をオンにして耳を澄ましてみた。
「はぁはぁ……和子さん」
「はぁはぁ……三郎さん」
ワシの頭の中に『さぶろう』という言葉が留まっていたが、チンプンカンプンだった。
でも、なんか胸がざわつく。これは心臓に問題がある訳ではなく、ワシの長年培った勘がそう言っていた。
恐る恐る襖を少しだけ開けて覗いてみる。そしたら開けてビックリ玉手箱。
和子と老人が裸になって交わっていたのだ。その様はクシャクシャになった雑巾と雑巾を一緒に絞ったかのような奇妙な様だった。
ワシは最初何が起きているのか分からなかった。だが、次第に昔みたメロドラマのワンシーンを思い出した。
旦那が家に帰って開けてみると、妻が他の男に寝取られているシーンだ。
ワシは信じたくなかった。信じられなかった。まさか──まさか、この歳で妻に浮気されるとは思ってもみなかった。
今の所、二人はお楽しみの最中といった様子だった。ワシは修羅場を覚悟して襖を開けた。