調査ファイル12 最終章
僕は尼寺務。H税務署勤務の調査官だ。
先日、上司である統括官から異動の辞令が下りた事を告げられた。そして、それに後押ししてもらう形で、高校時代の、いや、高校時代からの片思いの人である藤村蘭子さんに告白する事にした。
どうにか居酒屋に舞台を設定して、いざ藤村さんに告白しようと意気込んだのだが、あまりの緊張に飲めないビールをあおってしまい、途中から記憶を失ってしまった。
後で送られて来た藤村さんのメールを見る限り、僕は何も言えなかったようだ。本当に情けなくて、涙が出そうだった。
翌日から、僕は引継ぎやら何やらで忙しく、藤村さんにお詫びの電話もできずにいた。メールで済ませるのは気が引けたので、電話で言おうと思っていたのだが、想像以上に残務整理と異動準備に時間を取られ、思うようにできず、もどかしかった。
「どうした、尼寺? 元気がないな」
統括官が廊下で後ろから声をかけて来た。
「そ、そうですか?」
僕は目の下にできた隈を自覚しないまま、統括官を見た。統括官は呆れ顔で、
「異動する前からそんな調子では、先が思いやられるぞ、尼寺。何か悩み事でもあるのか?」
「いえ、その、個人的な事ですから……」
僕は統括官に恋の悩みを相談しても仕方ないと思い、そう言った。すると統括官は、
「あのなあ。身も蓋もない言い方をするなよ。これでも、職場では親代わりのつもりなんだぞ」
「ああ、申し訳ありません」
僕は統括官のその言葉で反省し、相談してみた。
「そうか。なるほどな」
やはり、いくら統括官でもこんな個人的な悩みは解決しようがないだろう。そう思って悩みを聞いてもらったお礼を言おうとした時、
「少なくとも彼女は、お前を嫌ってはいないぞ、尼寺」
「は?」
どうしてそんな事がわかるの?
「私の経験では、もし、本当にお前の事が嫌いなら、メールもよこさないだろうし、飲みに行ったりしないはずだ。そうだろう?」
「はあ」
僕はそんな楽天的に考えられないので、あいまいな返事をした。
「お前のいけないところは、何でも後ろ向きに考えるところだ。もう少し、自分に自信を持て。いや、恋愛に関しては、少し自信過剰で構わんと思う」
「え? そうなんですか?」
統括官はニヤリとして、
「そうだよ。それくらいでないと、女性の心は掴めんぞ、尼寺」
「はあ」
それでも僕は後ろ向きだった。
「何より、そんな状態のままでI税務署に行かれたら、あちらにも迷惑がかかる。万全の態勢にして、異動する事だ。いいな?」
統括官の業務命令張りの言い回しに、僕は直立不動になり、
「はい!」
と答えた。
そうは言ったものの、相変わらず自信がない。藤村さんに鼻で笑われて終わりのような気がしてしまい、決断ができない。それに、先日、記憶を失くしていた間、僕は本当に彼女に何も言わなかったのか、心配だ。
僕はモヤモヤしたまま、署を出た。そのまま寮に帰る気にもなれず、街に足を向ける。ばったり藤村さんと会ったらどうしようなどと考える余裕すらなかったのだ。
藤村さんとは会わなかったが、ある意味それ以上に会いたくない人達と顔を合わせてしまった。
「あれえ、今日は一人なんですか、尼寺さん?」
アニメ声が辺りに響く。尼寺という奴はどいつだ、という感じで、周囲にいる人達が見回す。
「はあ」
僕は思わず溜息を吐いた。
「ああ、ひっどい、尼寺さんてば。今、溜息吐いたでしょ?」
僕は仕方なく声の主の方を見た。そこには、アニメ声の錦織さんと、深窓の令嬢風でいて、その実酒乱の東山さんがいた。二人共、妙に嬉しそうなのが気になる。
「あ、こ、こんにちは」
僕は顔を引きつらせながら言った。すると東山さんが、
「そうだ、お祝い言わなくちゃ。おめでとうございます」
「は?」
唐突にそんな事を言われると、何に対してなのか全然わからない。まさか、僕が異動なのを知っていて、嫌味を言ったのか? でも、そんな事知ってる訳ないしなあ。変だ。東山さんはそれでもニコニコしたままで、
「先輩にプロポーズしたんですよね?」
「は?」
プロポーズ? 先輩? 藤村さんの事? どこでどう間違えると、そんな話になるんだ?
「し、してないですよ、まだ……」
まだとか言ってしまった。僕は項垂れた。してやったり顔の東山さんと錦織さんは、ハイタッチをして喜んでいる。
「ここでは何ですから、どこかに入りましょうよ、尼寺さん」
「はあ」
確かに、錦織さんの特徴のある声のせいで、人だかりができていたので、僕達は近くのファミレスに入った。
「わーい、ご馳走、ご馳走」
錦織さんがはしゃぎながら席に着く。
「あ、その、僕、持ち合わせがないので……」
慌てて「自主申告」すると、東山さんが、
「そんな失礼な事しませんよ、尼寺さん。今日はお祝いなんですから、私達が出しますよ」
「いや、だから、プロポーズなんてしてないですから、お祝いもいいですよ」
僕は慌てていた。もしこのまま彼女達の「接待」を受けた事が藤村さんの耳に入れば、相当気分を害する事になる。それだけは困るのだ。
「でも、いずれするんでしょ、尼寺さん?」
東山さんが真剣な表情で言う。僕はビクッとした。
「だったら、何も問題ないじゃないですか。お祝いしちゃってOKですよ」
錦織さんがメニューを広げた。
「いや、その、藤村さんの事を無視して、僕だけ勝手にお祝いって訳にはいかないですよ」
僕は何とか冷静になろうと努力しながら、二人を説き伏せようと頑張った。ところが、
「だって、先輩、毎日嬉しそうなんですよ」
錦織さんも真顔で言う。
「は?」
僕はキョトンとした。錦織さんはまたニコッとして、
「実はですねえ、私、尼寺さんが先輩に告白しているのをこっそり見ていたんですよ、あの居酒屋で」
「えええっ!?」
僕は仰天した。錦織さんに見られていたという事実より、僕が藤村さんに告白したという事実が衝撃だった。酔った状態で、藤村さんに告白していたのか……。だから、彼女は、
「今度はアルコール抜きでお話しましょう」
とメールを送って来たのか。あれ? という事は?
「あの日以来、先輩がニヤついているのを何度も見てるんです。聞いても誤魔化されちゃうんですけど、丸分かりですよ」
東山さんが言った。そうなのか。そうなんだ。
「アハハ、わっかりやすいなあ、尼寺さん。急に嬉しそうな顔になった!」
錦織さんに指摘され、僕は顔が火照るのを感じた。
「先輩は、待ってるんですよ、尼寺さん」
東山さんも微笑んでいる。
「今度は、ノンアルコールで告白ターイムですよ、尼寺さん」
錦織さんがVサインを出して言ってくれた。僕は泣きそうなくらい嬉しくなったので、
「今日はやっぱり僕がご馳走しますよ」
「わーい! 一食助かるゥ」
錦織さんは現金だ。東山さんは、
「そういう訳には行きません。ご馳走すると言ったのですから、私達が支払をします」
「美奈ったら、変なとこで強情なんだから」
錦織さんは口を尖らせた。どうやら彼女はご馳走はするよりされる方がお好みらしい。
「まあまあ。今回は僕が出しますから」
東山さんも折れてくれた。そして僕は、財布が空になった。
錦織さんと東山さんは、その後カラオケに行くらしかったが、僕は丁重にお断りして、寮に帰った。
藤村さんが、僕の告白を待っている。その可能性は百パーセントではないが、光は見えた気がした。たまには楽天的になってみようかな? そう思った。
そして翌日。
今日も引継ぎ書を作成したり、報告書を上げたりで、大忙しだ。異動がこれほど骨が折れるものだとは思っていなかった。しばらくしたくないな、と思ったほどだ。
今日のメインイベントはこれからだ。僕は署を出ると、携帯を取り出した。そして、藤村さんの携帯にかける。
「はい」
藤村さんの声は弾んでいるように思えた。気のせいだろうけど。
「ふ、藤村さん、話があります。これから会えませんか?」
僕はつっかえながらも何とか言い切った。
「ええ。どこですか?」
藤村さんの声が不審そうだ。それはそうだよな、唐突過ぎる切り出し方だもんな。
「税務署の近くにコーヒーショップがあります。そこで待ってます」
それでも僕は、押しの一手で続けた。
「わかりました」
何だか事務的な口調だ。藤村さん、本当に僕の告白を待ってくれていたのだろうか? たちまち不安になってしまった。しかし、もう言ってしまったのだ。今更後戻りはできない。
「よし!」
僕は意を決してコーヒーショップに向かった。
コーヒーショップの窓際の席で向かい合って座る僕と藤村さん。何かとても緊張して来た。
「すみません、急に呼び出して」
乾き切った口を何とか開いた。喉が焼けるようだ。
「いえ。何でしょうか?」
藤村さんの態度は、まるで調査立会いの時のようで、だんだん自信が失われて行く。不安だ。
「この前は、酔い潰れてしまって、申し訳ありませんでした」
とにかく、詫びておかなければならない。本題はその後だ。
「その事なら気にしないで、尼寺君。私が散々迷惑をかけているんだから」
藤村さんは苦笑いした。あ! 今の僕の言葉、嫌味だったかな?
「はあ」
頭を掻いて引きつりながら笑う。藤村さんの表情がちょっとだけ変化した気がした。
「あの」
僕は居ずまいを正して藤村さんを見た。
「はい」
藤村さんも僕をじっと見つめている。うわあ、心臓が破裂しそうだ。
「僕、実は今月で異動になるんだ」
よし、うまく言えた。
「え?」
藤村さんは意外そうな顔をした。それはそうだよね。
「長野県のI税務署に行く事になったんだ。それで、どうしても、その前に藤村さんに話しておきたい事があって……」
藤村さんはスッと背筋を伸ばした。僕も緊張する。
「藤村さん」
僕は真っ直ぐ藤村さんを見た。ああ、奇麗な人だ。こんな美人に告白しようだなんて、今更ながら身の程知らずな気がして来る。藤村さんも目を逸らさないで、僕を見つめてくれている。
「貴女の事が大好きです。僕と付き合っていただけませんか?」
言えた! 言えたぞ! 心の中でガッツポーズをした。
「え?」
ギクッとした。藤村さんが泣いている。わわ! しくじったか?
「藤村さん、泣かないで。ごめん、僕が急に変な事を言ったから……」
僕はすっかり気が動転してしまった。すると藤村さんはニコッとして、
「違う。違うの、尼寺君。嬉しいの。嬉しいから、泣いてるのよ」
「……」
僕は固まった。動けなくなった。藤村さんが、涙を拭いながら、
「尼寺君?」
でも僕は硬直したままだ。反応しようにも、身体が言う事を聞かない。
「尼寺君!」
藤村さんのその凛とした声で、僕はようやく硬直が解けた。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
藤村さんが言った。
「藤村さん……」
今度は僕が泣いてしまった。恥ずかしいなんて思う余裕がなかった。号泣した。
「ああ、尼寺君!」
藤村さんも泣いている。ああ、夢じゃない。夢じゃないんだ。僕はようやく喜びを噛み締める事ができた。
「どうぞ、遠慮しないで」
告白したその日に藤村さんのアパートに行くなんて、彼女のご両親に知られたら怒られそうだ。
「は、はい」
僕はドキドキして靴を脱いだ。ここは二度目だけど、前回とは緊張感が違う。
「これから、忙しくなるわね、尼寺君」
「あ、うん、そうだね」
さっきからずっと上の空で返事をしている気がした。それでも何とか、
「藤村さんに、一緒に来て欲しいなんて、とても言えないし、こんなタイミングで告白したのを申し訳ないと思ってます」
僕は頭を下げた。藤村さんは笑って、
「大袈裟よ、全く。きっかけが欲しかったんでしょ?」
「うん……」
僕は恥ずかしくなった。藤村さんはクスッと笑って、
「私は一緒には行けないけど」
「やっぱり……」
わかっていたけど、そう言われると落ち込むなあ。まあ、無理に決まってるのだから、それは僕の身勝手というモノだ。
「一緒には行けないけど、いろいろ片付けたら、追いかける」
藤村さんが、本当に軽く言った。
「え?」
僕は多分、呆けたような顔をしていたと思う。藤村さんはクスッと笑って、
「何よ、後から行くと迷惑なの?」
「そ、そんな事ないよ!」
あれ、何か、懐かしい感じのやり取りだ。僕は調子に乗ってみた。
「あ、あの」
「何?」
藤村さんがギクッとした顔で僕を見上げた。僕が嫌らしい事を考えたと思ったんだろうな。
「抱きしめていいですか?」
言い出しにくい状況だったけど、何とか言えた。藤村さんは笑い出して、
「はい」
僕は心臓が壊れるんじゃないかと思うくらいドキドキしながら、彼女を抱きしめた。ああ、女の子っていい匂いがするし、こんなに柔らかいんだ。
「尼寺君」
「藤村さん」
藤村さんが僕を見る。
「ねえ、苗字で呼び合うの、やめにしない?」
「え?」
ドキッとした。
「ね、務」
僕は卒倒しそうだった。藤村さんが僕の名前を呼んでくれた。そう思うだけで、頭がパンクしそうだ。
「ら、蘭子さん」
僕も思い切って言った。
「だから、さんは付けない!」
いきなりのダメ出し。
「は、はい!」
ああ。やっぱりこんな感じなのかな、僕達って……。
その日はもちろん、寮に帰った。いくら何でも、いきなりのお泊りはまずい。
そして数日後、僕は長野へと出発する事になった。藤村さんは駅まで見送りに来てくれた。
「私も、片づけがすんだら、すぐ行くから」
「慌てなくていいよ、蘭子さん」
「だから、さんは付けない!」
「あ、はい!」
そんな感じで、僕は長野を目指した。
I税務署は、今までいたH税務署に比べると、法人軒数は十分の一にも満たない。毎日が長閑で、ゆったりとしていた。
「どうかね、尼寺君。こっちの暮らしは慣れたかね?」
統括官が言った。
「はい、おかげさまで、すっかり順応できました」
僕は笑顔で答えた。
「そうかそうか。それは良かった。H税務署に比べると、随分と寂しいだろうが、頑張ってくれたまえ」
「はい」
周囲の人達は皆良い人ばかりで、本当に安心した。
そしてその日の業務は終了し、僕は署を出た。本来なら、寮に入るべきなのだが、
「後から彼女が来るので……」
と恥ずかしいのを我慢して統括官に事情を説明し、アパートを借りた。
「あれ?」
アパートが見えるところまで来ると、僕の部屋に明かりが点いている。
「ああ!」
僕は駆け出した。こんなにも心地良いのは生まれて初めてだ。
「只今」
玄関のドアを開くなり、言った。
「お帰りなさい、務」
蘭子さん、あいや、蘭子が料理をしながら、僕を迎えてくれた。
「来るのなら、連絡してくれれば良かったのに」
「驚かそうと思ったのよ」
蘭子は屈託のない笑顔で言う。
「そう? ああ、いい匂い」
「母に教えてもらった藤村家のお袋の味よ。美味しいんだから」
蘭子は嬉しそうに言った。僕もニコッとして、
「おお、じゃあ、期待しちゃうぞ」
「任せときなさい!」
彼女はポンと胸を叩いた。
これから始まるんだ。僕と蘭子の、新しい人生が。夢のようだけど、夢じゃない。
本当にありがとう、蘭子。絶対に幸せになろうね。
ここまでお読み下さり、ありがとうございました。