懐かしいお菓子
デリシアは朝食を終え、動きやすい服へと着替えると、デリシア付きの侍女となったエラを連れ厨房へとやってきた。
朝の忙しい時間が終わり、厨房の料理人達は休憩時間のようだ。
各々好きなように過ごしていて、中には外に出て日向ぼっこしているものもいた。
「ごめんなさい、料理長のアンドレはこちらにいて?」
気を抜いていたところに主人の新しい妻がやってきた。
それもその妻は元王女。
一瞬にして調理場の空気が固まる。
(何故こんなところにお姫様が!!)
慌てる料理人の中、一人の勇気ある若者が前に出た。
「は、はい、りょ、料理長は奥の部屋にいます」
若い料理人が奥の戸を指さしそう答える。その指は少し震えているがそこを指摘するものはいない。
デリシアは勇気ある若者に「ありがとう」とお礼を言うと、戸惑うことなく料理長室へと向かい自らノックをした。
「アンドレ、私よ、顔を見せて頂戴」
扉の向こう、ガタガタと大きな音がしたかと思うと、慌てた様子で恰幅の良い男性が現れた。
「お、お、王女様、いえ、奥様……本当にいらしたのですか?!」
執事から奥様が食事のお礼を言いたいと言っていたとアンドレは聞いていた。
だがそれはその場だけの社交辞令、そう思っていたのだ。
リガーテ国で王女であるデリシアがアンドレの作る料理に満足するはずがない。新しく夫となったグレンの気を引くための言葉、信じてはいけない。そう考えていた。
なのに自ら厨房へ足を運び、料理人でしかないアンドレの名を呼んだ王女。
一体これは何なのか、悪夢なのか現実か?
取りあえず顔を見せて頭を下げなければ。
庶民が王族を待たせるなど打首になっても文句は言えない。
アンドレはデリシアの前、膝を折り頭を下げた。
「お、奥様におかれましてはお日柄も良く」
「まあ、ウフフ……アンドレったらそんな堅苦しい挨拶はやめてもっと普通にして頂戴」
デリシアはアンドレの準備不足を不快に思うことも無く、ニコニコしながら「さあ、立って頂戴」とアンドレを促す。
普通にしてと言われたが、緊張から普通が分からない。
取りあえず立ち上がったアンドレに、デリシアは良い笑顔を見せてくれた。
「朝食、とても美味しかったわ。てっきりチャーリーの料理かと思っていたけれど、アンドレの料理だったのね」
「は、はい。父はもう六十を過ぎて色々ガタが出始めたので、最近はあまり調理場にも来なくなりました」
「まあ、そうなの? それは心配ね、お体のどこかお悪いの?」
「いえ、そうじゃないんですが、その、前の奥様がお亡くなりになってから覇気が無くなってしまって……」
とそこまで言ってアンドレはハッとする。
今現在の辺境伯の妻に対し、前の妻の話をするなどもってのほかだ。
自分の愚かさに気がつき変な汗が流れる。
「そう……落ち込んでしまったのね……それは心配ね……」
だが目の前のお姫様は、心配そうに目を伏せるだけ。
アンドレの無礼など気にする様子もない。
会った事もないただの料理人をここまで心配してくれる、そんなお姫様は世界中さがしてもどこにもいないだろう。
アンドレだけではなく、今ここにいる料理人達がデリシアの何気ない言葉に感動していた。
新しい奥様は結婚してすぐでありながら、一料理人の名前まで把握している。
その上自分たちの料理を褒めてくれ、元料理長の体まで心配してくれている。
見た目は文句なしに可愛く、花の精のよう。
料理人達は皆、幼いデリシアの心遣いに一瞬で心を奪われた。
「ねえ、アンドレ、申し訳ないけれど、厨房の片隅を少しだけ貸して頂けるかしら?」
「ええ、それは勿論構いませんが……えーっと、奥様が何かされるのですか?」
「ええ、ちょっとね、チャーリーに元気になって貰おうと思って」
「はあ……? 父に?」
「ええ、そう、チャーリーに。じゃあ、アンドレ、あちらの右端の方を使わせてもらうわね。大丈夫よ、皆の休憩の邪魔にならないようにするわ。貴方も休憩中だったのにごめんなさいね、ゆっくり休んで頂戴」
「ええ、はい、その、ありがとう、ございます?」
アンドレの戸惑いを気にすることなくデリシアは料理場へ向かう。
周りにいる料理人たちにも断りを入れたデリシアは、先ずは手を洗いだす。
それだけでデリシアが料理を普段からする人間だと料理人達は感心する。
新しい奥様は異国の王女様。
そう聞いていただけに、料理の基本中の基本を知っている事に感心したのだ。
だからか休憩中と言いながらも料理人たちの視線は自然とデリシアへ向く。
勿論休んでいてと言われたアンドレもデリシアを見つめたままだ。
次にデリシアは材料を集め出した。
まるで何がどこにあるのか分かっているかのように、自分が作る料理の材料を準備していく。
「お、奥様、お手伝いいたします」
「まあ、有難う」
数人の若手が、デリシアに声を掛ける。
最初はおっかなびっくりだった料理人たちも、無害で有り寛容な若奥様に安心したのか手伝いを申し出た。
「材料を見れば分かると思うけれど、私、お菓子を作りたいの」
そう言って年相応な少女らしく笑ったかと思うと、料理になれた主婦のように、危な気ない手つきで生地をこね始める。
高価なスパイスを使いだした時には若手たちは驚いていたが、アンドレには王女様が何を作ろうとしているのかすぐに分かった。
それとともに(何故それを知っている?)という疑問も湧いた。
「少し生地を休ませたいから、その間あなたたちの仕事をお手伝いさせて頂戴」
デリシアは戸惑う料理人の事は気にすることなく、若手の中に入ると、これまたなれた様子で芋を向いて行く。
その器用さに若手だけでなく、姫様について来たメイドのエラも驚いている。
一体この奥様はどうなっているのか?
王族でありお姫様だと聞いていたが、それは嘘だったのだろうか?
そこら辺にいる貴族のお嬢様だってこんな事はしないだろう。
そんな疑問が湧く料理員たちの前、デリシアは楽しそうに芋を剥いて行く。
鼻歌を歌ったり、若手に話しかけたり。
楽し気なデリシアの様子に場の雰囲気は和やかだ。
「フフフ、初めてにしては中々上手に剥けたわね。芋を剝くのがこんなに楽しいだなんて知らなかったわ。それに皆と料理をするのも楽しいわね。お邪魔かも知れないけれど、またお手伝いさせて頂戴ね」
「「「は、はい! 是非」」」
「ウフフ、ありがとう」
どうやら交流のあった若手たちだけでなく、見守っていた他の料理人たちも奥様の再訪を歓迎する様だ。
それもそうだろう、雲の上の存在である一国のお姫様が自分たちと同じ場所で笑っている。
朝食を褒めてくれただけでなく、自分たちの仕事にも興味を持ってくれた。
そんな夢みたいなことが現実に起きたのだ。
料理人皆が感動するのは当然のことだった。
「アンドレ、これをチャーリーに渡して貰えるかしら?」
料理を終えたデリシアが、そう言って焼きたての菓子をアンドレに差し出す。
まさか会ったことも無い一介の料理人に対しお姫様が本当に菓子を作るとはと、アンドレは驚きが隠せない。
ただの暇つぶしに、それか料理を作ってみたいという我儘の言い訳に、病んでいるチャーリーを使ったのかと思っていたが、どうやら本気でお見舞いの品らしい。
アンドレは恭しく菓子を受け取りながら、ある事に気がついた。
「あ、あの、奥様、その、旦那様の分は……」
「えっ? ああ、グレンも食べたがるかしら?」
「もちろんです!」
当然だ。奥様の手作りの品を旦那様を差し置いて自分たちが食べるわけには行かない。
そんな思いを込めてアンドレがと頷くと、デリシアは仕方なさそうにため息をつき、ほんの数枚菓子を手に取ると小皿に乗せた。
「グレンの分はこれだけでいいわ。残りはチャーリーに渡して頂戴。これはチャーリーの為に作ったお菓子なんだから。アンドレ、宜しくね」
最初のご機嫌な笑顔とは違い、作ったような笑みを見せるデリシア。
もしかして旦那様には菓子を食べさせたくなかったのか? とそんな疑問が湧く。
「じゃあ、アンドレ、皆様、お邪魔しました。また来ますから、その時はよろしくお願いしますね」
花の精かと思うようにふわりと笑い、料理人たちに小さく手を振るとデリシアは厨房を後にした。
残された料理人達は若奥様との交流に興奮冷めやらぬ様子だ。
ただし、そんな中アンドレだけは渡された菓子をジッと見つめる。
なんの戸惑いも無く、当然顔でこの菓子を作ったデリシア。
その菓子の見た目は前奥様が好んで作る菓子に余りにも酷似していた。
「……奥様……貴女は一体、何者なんですか……」
そう呟いたアンドレの声を拾ったものはいなかった。
「グレン様、おやつの時間ですよー」
今日もいつも通りの執務中。
そんなグレンに対しフランが普段言わない言葉を投げかける。
おやつの時間。
デリシアが料理を褒めていたと料理長であるアンドレに伝えたからか、どうや今日はおやつがあるらしい。
王女から称賛されたのだ、菓子で感謝の気持ちを表したのだろう。
きっとまだ少女であるデリシアの為にと用意したお菓子のお裾分けだ。
おやつなど一体いつから摂っていないのか、記憶にないぐらい以前のような気がする。
第一彼女が亡くなってから、おやつを食べたいなどとは思えなくなっていた。
そんなグレンの想いなど当然気にすることなく、フランはいい香りが漂う菓子をグレンの前に置いた。
「クッキーか? 焼きたてだな、アンドレが焼いたのか?」
朝のデリアシアの様子を思い出し、もしかして厨房に我儘でも言いに言ったのか? と思ったら 「奥様自ら焼かれたそうですよ」 とのフラン言葉にグレンは驚いた。
「シアが……? だがシアは王女だぞ?」
王女と手作り菓子が繫がらず、思わずそんな言葉が出てしまう。
「まあ、お姫様がお菓子を作ってはいけないって規則や法則は有りませんからねー」
確かにフランの言う通りだが、王城内で高貴な女性が厨房に立つ。
それは余りにも常識外れな気がするが、他国の事だ何か理由があったのかもしれない。
そのせいか尚更デリシアは冷遇されていたのでは? とそんな疑問が湧いた。
「これは……」
そんな中、一口食べて驚く。
デリシアが差し入れてくれたクッキーはスパイスクッキー。
それはグレンがもう忘れかけていた菓子の味、その物だった。
(アレクシアの味……)
愛する彼女の名が浮かびグレンは首を横に振る。
「……いや、クッキーなど誰が焼いてもさほど変わらないはずだ……」
懐かしい記憶に蓋をし、グレンはまた一つクッキーを口に入れる。
思い出したくはないけれど、グレンの舌はこの味をしっかりと覚えている。
愛する妻が良く作ってくれたスパイスクッキー。
それはグレンの大好物の菓子だった。
「……美味いな……」
フランがお茶の準備を終えた時、皿の上には一枚のクッキーも残っていなかった。
「グレン様、私の分は無いのですね……」
「……」
誰にも渡したくない。
デリシアの差し入れてくれたクッキーは、それほどグレンを魅了したのだった。