【短編】諜報員の女は男の指をガリっと噛む。「まだまだだな」
【シリーズ】【一話完結型】
設定ゆるゆる、ご容赦ください。
※過激な描写はありませんが、夜の街を題材にしているので、R15としています。
私は男の手を、自分の口元まで持っていき、ニヤリと笑ったあと、男の指をガリっと噛んでやった。
ビックリした表情の男に私は言う。
「まだまだだな」
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割りの良い仕事を探してこの街にやってきた。
煌びやかで重厚感のある、けれども太陽の下で見ると粗が目立つ扉を開くと、一人の女が何やら書き物をしていた。
「ああ、あんたが店で働きたいっていう子?
まだ子供に見えるけれど。
どうぞお入り、お嬢さん」
眼鏡を鼻までずらして、こちらを見た女は、私の顔を見て笑った。
「ねぇ、口紅の一つくらい、引いておいでよ」
扉を閉じると、もうそこは夜の街だった。
私の年齢を聞いた女は、
「あら、立派なレディね。
そうね、明日から来てちょうだい。
衣装や靴は貸すこともできるけれど、化粧は自分でなんとかしなさいね」
初出勤の日、早めに店へ入ると、他の女たちがわらわらと集まってきた。
「この子ね?
ほんと!ママが言ってたとおり、まだ子供みたいね!」
「ねぇ、こっちへ来て。お化粧を直してあげる。顔の縁の粉が浮いているわ」
「出た!あんたの顔面武装道具!ほんと、その技術、尊敬するわ」
「ちょっと、それ褒めてんの?」
「褒めてるわけないじゃない。
あ、でもその口紅、新色よね?
ねぇ、後で試させてよ」
「あんたなんかに貸すわけないでしょう」
「ねぇ、あのお客さんに買ってもらったの?いいなぁ」
わいわいがやがや、賑やかな夜の街の一日が始まろうとしていた。
化粧を直してもらった後、黒服の男に付いて、衣装や靴がある狭いクローゼットを覗いた。
普段は見ることのない、色とりどりのキラキラとした衣装と、凶器のように尖ったヒールの靴が所狭しと並べてある。
どうしたら良いのか分からず、ふと横を見ると、いつの間にか黒服の男はいなくなっていた。
代わりに別の女が通りかかり、
「一緒に選んであげようか?」
と声をかけてくれた。
ありがたく申し出を受けると、
「そうねぇ、お胸がささやかだから、詰め物をしても浮くわね。
前の露出は少なく、背中が大きく開いたドレスが良さそう…」
わりと失礼な独り言を呟きながらも、私に合うドレスと靴を選んでくれた。
その日は、黒服の男から渡された名刺に、この店で使う偽名を書いた後、ドレスを選んでくれた女の横に付いて勉強させてもらった。
彼女は人気なのか、指名が途絶えることがなかったが、まだ夜はこれからだという時間に帰ってしまった。
「あの子はナンバーワンになれるんだけどね。子供がいるから仕方がないね」
ママはそういうと、今日は私も帰るように言った。
それから半年経った頃、黒服の男に呼び出された。
この男は、ふと気がつくと横にいたり、ふとした瞬間に視線を感じたり、とにかく、なんとなく気持ちの悪い奴だった。
店の奥にある狭い事務室に入り、男の顔を見た。この半年間、ほぼ毎日顔を合わせているのに、そういえばこんな顔をしていたな、と思うほどに、印象の薄い顔だった。
「お前、俺の視線に気が付いていただろう」
「まぁ。あれだけ見られたら、そりゃあ気が付きますよ」
何を今更、と思いながら答えると、黒服の男はニヤリと笑った。
「普通のやつは気が付かないんだよ。やっぱりお前、その人気の無さといい、見込みがあるな」
さらっと失礼なことを言われた。
確かに、この半年間仕事をしてみて、不思議なくらい個人の売り上げが伸びないことは自覚していた。
自分で言うのもなんだが、聞き上手ではある。自分からべらべら話す方ではないが、顔に似合わず落ち着いた振る舞いで、客からは、つい話してしまうよ、と高評価だった。
だが、印象に残らない顔なのか、私個人への指名は驚くほど入らない。
しかし、客の満足度は高いので、売れっ子たちの隙間時間の接客や、売れっ子たちの補助として重宝がられていた。
男は、そんな私に、ピッタリの仕事があるという。
訝しむ私をよそに、次の休みの日に会わせたい人がいるからと、集合場所を言って、男は店内に戻っていった。
次の休みの日、相変わらず認識しずらい顔をした男に連れられやってきたのは、商社だった。
男に付いて、長い廊下を何度も曲がり、やっと辿り着いた部屋には、顔が見えない人たちがいた。
『あ、ここは危険な場所だ』
今更感じた危機感に冷や汗が出たが、いくつか質問に受け答えをした私は、いつの間にか、この国の諜報員として採用されていた。
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あれから半年間、夜の仕事をしながら、日中少しずつ諜報員の訓練を受け、いくつかの課題をクリアすると、本格的な教育が始まった。
さすがに夜の仕事との掛け持ちは難しいと判断し、ママに長期間休みたいと申し出た。
ママは何も聞かずに「あ、そう」とだけ言って、了承した。
突然来なくなる従業員も多い世界だから、言うだけましなのだろうか。
もしくは、その日、ママの機嫌が悪かったから、それどころではなかったのだろうか。
その日、初日に私のドレスを選んでくれた彼女が、遅れてやってきた。
彼女は子供の風邪等で度々休むことはあったが、今日は客の予約が入っていたので急いで来たのだろう。
なんと、子供を連れてやってきた。
まだ10歳くらいの素朴な顔をした男の子だった。彼女曰く、母親似とのことなので、彼女の素顔も、きっとこんな愛らしい素朴な顔なのだろう。
これに怒ったのがママだ。
「子供が来るところじゃない!」
そう言って、彼女に説教した。
「今日はこの子を見てくれる人がいなくて、でも今日はお客さんと約束があったし、だから…」
と言い訳する彼女に、ママはピシャリと言った。
「母親が知らない男に媚び売ってるのを見たい子供がいるわけないでしょう!」
そうして、黒服の男に何か命じて、ママはさっさと行ってしまった。
黒服の男は子供を事務室へ連れて行き、飲み物と、紙とペンを渡した。
子供はソワソワしている様子だったが、素直にお絵描きをし始めた。
その日はいつもより忙しかった。
売れっ子の女たちは、ひっきりなしに呼ばれていたが、肝心のママは席を外していた。
売れっ子ではない私が、一息ついていると、事務室から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
耳をすますと、子供とママが遊ぶ声だった。
「じゃあ、次。
え〜、○○商社の○○。
馬の絵が描いてある」
「あ、これだ!」
「あら〜!早いじゃない!」
どうやら大量の名刺を使って、即席の早当て遊びをしているらしい。
「なんとも悪趣味な遊びだな」
いつの間にか隣に立っていた黒服の男が言う。
男によると、ママは、
「子供のひとり遊びなんて、すぐに飽きるわよ。フロアに来られたら困るから、私が監視するわ」
と言って、事務室にいるのだという。
結局、その日、ママはほとんど店内に姿を現さず、帰り際に、子連れの彼女に、もう連れてくるな、そういう時は休め、と怒っていた。
そう言いつつも、店にあった菓子を、あるだけ子供に渡していた。
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夜の街から離れ、実に二年に及ぶ訓練が終了し、私は諜報員の幹部となっていた。
しかしこれは私の能力がずば抜けているとか、そういう理由ではない。
諜報員は、それぞれ得意分野がある。外国語が堪能で、国外に潜む者、貴族として潜む者、国軍に潜む者、芸事を活かして旅芸人として各地に潜む者。
もちろん、黒服の男のように、夜の街に潜む者も多い。夜の街は驚くほど情報に溢れている。自慢が好きな男たちは特に、夜の街にお金と情報を落としていく。
どうやら、私の諜報員としての長所は、いくら化粧をしようとも、パッとしない容姿、そして、侮られやすい体型、それに似合わない冷静沈着さらしい。
諜報員の長や幹部は、定期的に変わる。諜報員として在籍している期間も、一般的な仕事と比べて短く、その後は協力員となる。
それは長や幹部を特定されないようにするためでもあり、私たち個人が妙な権力を持たないようにするためでもある。私たち諜報員は、あくまでも、主である前国王の駒のひとつでしかなかった。
特に現国王が即位してからは、諜報員たちへの予算は減らされていた。前国王から予算は補填されてはいたものの、国内であってもコソコソと活動していた。
我が国と隣国の戦争は二代前で終戦しており、その時に、諜報を含む対外的な軍事に力を入れないよう、国同士の約束があったという。
『持ちすぎる脅威はいらぬ憶測を呼び、疑心暗鬼が生まれ、災となる』
現国王の考えはごもっともである。
そもそも、二代前にあった戦争も、お互いに軍事力を見せつけあい、隣国の脅威から自国の民を守るという正義の元、始まったものだった。
お互いにお互いの”国の正義”を掲げ、始まった戦争は、お互いの国の民をとことん傷付けて終わった。
両国の民は、本当に、”国の正義”によって守られたのだろうか。
それとも、ただ、傷付けられただけなのか。
現国王が即位してからは、我が国の民はその平和を享受し、慣れきっていった。本当に平和な世だった。
表では。
裏では隣国の諜報員は未だに我が国に潜んでいたし、隣国は他の小国に手を伸ばし、争いを起こしていた。そのための軍事力だといって、対外的な力も持ち続けていた。
我が国も、小国が助けを求めた際に、隣国に対して制裁を加える等して、争いを止めるよう進言した。
しかし隣国は、我が国には敵意はないと、良い顔をしながらも、小国への侵略の手は緩めなかった。
そういう時勢の中での諜報幹部、そして長である。
余計に顔がバレないよう、細心の注意が払われた。
どう考えても諜報員には見えない、子供みたいな女の私は、諜報員の幹部、長として、ちょうど良かったのだ。
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夜の街に戻ると、たった二年の間に多くの店が入れ替わっていたが、私が働いていた店は変わらず営業していた。
重い扉を開くと、変わらずバッチリ武装したママがいた。
「あら、帰ってくるとは思わなかったわ」
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あれよあれよと言う間に諜報員の長となった私には、一人の若い男が付くようになった。
すでにこの店で新しい黒服として働いている。
私が週に数回しか出勤できないので、その間、この若い男が情報を収集しつつ、私の護衛をするのだという。
初めて顔合わせをした時、
『この小さい女が長…?』
とでも言いたげな、間抜けな表情をした。
「おい、感情がだだ漏れだぞ。まだまだだな」
私がそう言うと、若い黒服の男は
「すみません」と短く答えた。
以前、私を諜報員として引き上げた黒服の男は、既に組織も店も辞めていた。
きっと、この街のどこかで協力員として潜んでいるのだろう。
夜の街では、相変わらず指名は少なかったが、若い子のサポートを含め、一度来た客は決して忘れず、器用に仕事をこなす私を、ママも頼りにしていた。
ある時、仕事を早めに切り上げ、ママに付いて、他店へ飲みに行った。
夜の街は意外と横の繋がりがある。知り合いのママがやっている店へ、こんな風にお金を落とすのも、ママの大事な仕事のひとつだった。
ちょうど私たちが、この店のママと話をしていると、隣の卓の会話が聞こえてきた。
「若い女の子がこんなところで肌を出して。親が可哀想だとは思わないのかい?全く、世も末だよ。
若い君たちが、この国の未来を作っていくなんて、恐ろしいことだ。私の若かった頃はね」
そうして男は過去の栄光を語り出す。よくある会話だったが、横に付いている女はまだ新人なのか、引きつった表情で相手をしている。
この店のママは、ちょっとごめんね、と言うと、隣の卓へ入って行った。
「あらぁ、いつもご贔屓にしていただきありがとうございます。私にも武勇伝、聞かせてくださいな」
「お〜!ママ、やっと来てくれたね。最近の若者は何も分っちゃいない」
「あら?そんな若い子ばかりのお店に足繁く通ってくださってるのは、どこのどなた?
ふふ、私にもお酒入れてくださる?
いいものを飲みたいわ」
「こりゃ参ったな!」
わはははは、と笑い合う男と女。
ここは夜の街。
化かし化かされ、酒と金が飛んでいく。
帰り道、ママはこの夜の街を見ながら話しだした。
「この街はさ、戦後に一度、治安を良くするとか言って、一掃されたこともあるんだ。
そうすると、治安が良くなるどころか、もっと悪くなった。
空いた店舗で勝手に違法な営業をする輩が増えてねぇ」
遠い目をしたママは続ける。
「私は思うんだよ。
夜の街があるから、昼の街が平和なんだってね。
ここは色んなものを抱えた男も女も受け入れてくれる。
昼の街で取り繕ってる奴らも、夜の街にくれば自分を解放する。
そうやって、平和とか、秩序ってやつは守られてるんじゃないか、って」
そう言うママの横顔は、いつも完璧な武装が、少し剥がれかけていた。
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「昨日はごめんねぇ〜!」
そう言いながら、昨日行った他店のママが、一人の女を連れて飲みに来た。
「まったく、この街で正しさなんて、ただの迷惑なのにねぇ。正論で飯が食えるかっての。
ま、ああいう説教好きな客が、意外と長く通ってくださるのよね〜!アハハ!」
他店のママは、そう言って、勝手にさっさと席に付いてしまった。なんだか慌ただしい人だ。
私がお相手に隣に座ると、すぐに若い黒服の男が、うちのママからです、と言ってお酒を持ってきた。
「あらまぁ!嬉しい!
あ、そうそう、ちょっとこの子の話、聞いてちょうだいよ。私が止めてもダメでさぁ〜」
隣の女に目を向けると、女は困ったように笑って話し出した。
彼女曰く、国内で人気の劇団所属の俳優から、手紙が来たそうだ。
初めは宛先を間違えた手紙が届き、訂正の手紙を送り返した縁で、やり取りが続いているらしい。
その有名な俳優は、有名になりすぎて、こうやって素を出してやり取りできるのが嬉しい、君を想って愛を題材にした演目を考えたんだと。
さらには、近い将来結婚して欲しいと書かれていたという。
「どう考えても怪しいでしょう?」
他店のママは憤って言う。
「でも、その手紙が来た後、本当に彼の劇団で、愛の物語をし始めたの。それに、今は忙しくて会えないけれど、二人で住む家も買おうと言ってくれているの」
他店の女は、あなたたちには分かってもらえないだろうけど、と言いたげな、困ったような笑顔でそう言った。
愛が題材の演目なんて珍しくもないのに、騙されているのよ、ねぇ、そう思うでしょう?とやかましく言う他店のママに、私は愛想笑いをした。
その頃、奥の部屋では、貴族たちがお酒を嗜んでいた。この店では、正規の入り口とは別に、他の客に会わずに奥の部屋へ行ける入り口があり、紹介制で貴族の客を取っていた。
今頃、黒服の男が、気配を消して貴族の話を聞いているだろう。
ママは貴族の客に付きっきりだったので、他店のママは「忙しいのね。いいことだわ」と言って帰って行った。
その後、閉店時間ギリギリに来た客が、酔っ払って若い女にしつこく絡んでいたので、私も席に着いた。
客は若い女に、店を通さずに会おうよ、としつこく言い寄っていたようだが、私が来るなり話題を変えた。
「どんな人と結婚したい?」
急に話題が変わったことに、若い女は安堵した表情になり、「お金持ちで優しい人」と答えた後、私にも回答を促した。
私が少し考えて、
「私より長生きする人かな」
と答えると、客と女は大笑いした。
客は、その後も隙を見ては若い女に言い寄り、若い女はだんだん鬱陶しそうな表情になってきた。
私が、客の見送りを「代わるよ」と言うと、若い女は申し訳なさそうな、それでいてホッとした顔をした。
扉の外に出ると、酔っ払った客が、ガバリと抱きついてきた。
「子供みたいな年増で我慢するかぁ〜」
などと失礼なことを言っている。
もちろんこんな奴、すぐに締め上げることもできるが、人目のある場所で、そんなことはしない。
静かにため息をついた時、若い黒服の男の気配がして、急に客の体が離れて行った。
無言で客を睨みつける黒服の男に、客は「あぁ怖い、怖い。酔って何も覚えてません!」と言いながら帰って行った。
客が見えなくなると、若い黒服の男はボソリと呟いた。
「俺は、キレイだと思いますよ」
思わず男をジッと見上げると、男の無表情な顔にサッと赤みが差した。
私はフッと笑って言った。
「まだまだだな」
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それから数ヶ月の間に、各地の諜報員から様々な報告を受けた。
どうやら隣国の侵略を受けていた小国が、我が国にも諜報員を送り込み始めたらしい。
また、我が国内で、詐欺の被害が横行しており、その手口は様々だが、どうやら国外の者によって行われているものだという。
黒服の男からも、店に出入りしている貴族の話に、知らない人間からの手紙が、まるで他の貴族が差出人かのような形で届いたという話があったという。
金銭目的であれば、我々が関与することもないが、金銭以外の物が目的だとすれば、なにやらきな臭い。
それからしばらくは諜報員たちへの指示や情報の統制に忙しく、夜の街には顔を出せなかった。
代わりに、若い黒服の男から報告を受ける。
「他店の女が、店の金と客の名簿を盗んで姿を消したそうです」
男の話によると、金を盗んだのは以前、有名な俳優と手紙のやり取りをしていると言っていた女のようだ。
金は、その日の売り上げ分だけだったが、気になるのは客の名簿である。
その店にも貴族が出入りしていたので、もしかしたらと思い、諜報員を数人集め、指示を出した。
数ヶ月のうちに、やはりと言うべきか、他店の顧客であった貴族の元に、差出人不明の手紙が届き始めていた。
諜報員の中でも貴族の者に協力を仰ぎ、届いた手紙を入手した。
他の貴族から送られてきたような見た目をしているが、手紙の中身をよく見ると、ところどころ妙な誤字があり、自国の者によって書かれたとは思えなかった。
わざと、知らないふりをしてやり取りを行うよう、貴族の諜報員に指示した。
さらに数ヶ月後、貴族の諜報員と一緒に、この国の側妃へ事を報告するため、登城した。
側妃は、私が諜報員の長だと知る数少ない人間のひとりであり、最近では、先代国王の代わりに、諜報組織に予算を流している人間だった。
このまま行くと、彼女が私たちの上司、主となるだろう。
貴族の諜報員が側妃に説明する。
「手紙のやり取りを続けると、とあるパーティーに誘われました。
そこには小国の人間がおり、個人の意思で小国に味方をすれば多大なる栄誉を授ける、と。
具体的には我々に、金銭、人員、武器等の密輸、そういったものを望んでいるようです」
側妃は我々の報告を受けて、こう言った。
「小国といえば、隣国の侵略を受けて国を追われた人たちを、我が国も受け入れたことがあるわ。
彼らにも奪われた時を取り戻す正義があるのは分かる。
けれど、他国の正義に巻き込まれるのはごめんだわ。
国の正義なんて、向けられたら相手にとっては悪になるのよ。まぁ、私が言うのもなんだけど」
そう言って、側妃は皮肉めいた笑みを浮かべた。
その後、貴族の統制は側妃に任せ、諜報員たちはこれまでのとおり、隣国、小国、自国内の動きを把握するため、各地に身を潜めた。
久しぶりに夜の街へ出勤すると、その日はママが珍しく酔い潰れてしまった。
ママを介抱していると、ママは「ごめんね」と、うわ言を言い出した。
黒服の男と共にママを送り届け、夜の街を二人で歩いていると、寂れた店から、他店の金を盗んで姿を消した女が出てきた。
だいぶ人相が変わっていたが、私たちは相手の顔を一度見たら忘れない。彼女は私を見つけると、逃げるでもなく、ジッとこちらを見返した。
見なかったふりをするべきだと思ったが、女が何か言いたげだったので挨拶すると、店の中へ入るよう促された。
店内に入ると、目の前の女が以前働いていた店よりも、うんと狭く、そして寂れていた。
ちゃんと磨かれているとは思えないグラスに酒が注がれたが、私も黒服の男も口を付けなかった。
寂れた店で、よれたドレスを着た女は、か細い声で話し出した。
「聞いた?私が金を盗んだこと。
お金と書類を彼に渡す約束だったのに、取りに来たのは全然違う男だったの。
やっぱり、騙されていたのね、私」
女は私がいつまでも口を付けないグラスを取り上げて、ゴクゴクと飲み干した。
「馬鹿だと思う?
私、幸せだったの。彼とやりとりをしていた時。
それが嘘でも、私があんなに幸せだったことは、これまでになかった。
どんなに正論言われたって、私が幸せだった事実は変わらないのよ。
そうでしょう?それでも、間違ってた?」
言い切って、ドッと疲れた顔をした女は、
「お金はちゃんと返すから、ここにいたことはママには言わないで」
とだけ言い、店の奥へ消えて行った。
次の日は定休日だったが、ママの様子を見るために、ママの家へ行った。
いつも隙のない髪型と化粧をしているママとは違い、年相応に見えるママが出迎えてくれた。
こっちのママの方が好きだが、夜の街で戦うには武装しなければ持たないのだろう。
「昨日は悪かったわね」
そう言いながら、ママは薬を飲み出した。
「私らの商売は、男も女も体を悪くするからね。毎日飲んでるの」
私に言い訳するように話すママは、自分の素顔を見せることに、少し照れているようだった。
「一人息子が結婚することになってね」
紅茶を二人分淹れながらママは話し出す。
「小さい頃からずっと、私の母に預けっぱなしで。
私が口酸っぱく真面目な職に就きなさいって言ったものだから、努力して勉強して。
ちょうどその頃、国が作った職業訓練所へ通って、割と大きなところへ就職したのよ。
職業訓練所、授業料も少ないし、就職率はいいし、本当に助かったわ。
施設名に、側妃様の名前が付いてるのが悪趣味だけれど」
『側妃様、悪趣味だって言われてますよ』
と私は心の中で笑う。
私が側妃と顔見知りなどとは思いもしないママは、話を続ける。
「側妃様、金遣いが荒くて傲慢だっていうじゃない。派手な顔してさ。
でも、嫌いじゃないね。
悪趣味でも傲慢でも、私たち親子が助かったことには変わりない。
正論ばかり吐いて何もしない奴らよりよっぽどマシだね」
一口紅茶を飲んだママは、ハッとした表情になって照れ笑いした。
「いけない。話が逸れたね。
まぁ、そんな息子が職場で出会った人と結婚するって報告を受けてね。
嬉しかったんだけど、相手のご両親も堅気の人でさ。
こんな仕事をしている母親なんぞ、紹介しても、息子が恥をかくだけだと思って、ちょっと飲みすぎたってだけ」
心配かけたね、と話すママに、
「息子さんは何と?」と聞くと、
「息子はね、こんな母親でも紹介したいって言ってくれているよ。
自分で言うのもなんだけど、良い子なの。きっと私が育てなかったからね。
働いて金を稼ぐことが、親としてできることだと思っていたけれど、果たしてそれが本当に子供のためだったのか、分からない。
子供が寝る時に一緒にいて、愛の一つでも囁いてあげるのが、良い母親だったんじゃないかって、今更思うのよ」
「息子さんのこと、愛してるんですね」
と私が言うと、ママは、
「当たり前じゃない。
本人に伝わっているかどうかは怪しいけどね」
と言って笑った。
「今も、子供を育てながら、夜の街で働く若い子が多いでしょう。
私みたいに実母に頼れる人はいいけれど、そういう人ばかりじゃない。
預かってくれるところがあればいいのだけれど」
真剣な顔をして、そう言うママに、
「じゃあ、そう言う場所をつくったらどうですか?」
と、私が言うと、ママは意外そうな顔をして私を見た。
「私が、ねぇ。
…そうね、何もしないよりはマシよね」
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ママの家を出て、そのまま病院へ向かう。
諜報員の本部は定期的に場所を変えており、今は総合病院の中の一画に本部を構えている。
「何もしないよりはマシ、か」
ポツリと独り言を呟くと、いつの間にか隣にいた若い男が、今日は黒服ではなく、私服を着て立っていた。
「何ですか?」
と聞く男に、
「独り言だよ。諜報員を辞めた後、何がしたいかなって考えていただけ」
と答えると、男は急に私の手を取って、焦ったように言った。
「辞めるんですか?」
「今すぐにではないけれど、そろそろだろう」
私がそう答えると、男は両手で私の手を取り直し、真面目な顔をして言った。
「俺は貴女よりずっと若いから、長生きしますよ。俺と一緒になるとか、どうですか?」
サラッと失礼なことを言いながら、男は私の手をギュッと握った。
私は男の目をジッと見ながら、手を自分の口元まで持っていき、ニヤリと笑ったあと、男の指をガリっと噛んでやった。
ビックリした表情の男に、屈むよう指示し、顔を近づけると、男の頬に赤みが差した。
私は男の耳元で「まだまだだな」と囁いた。
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「ひゃ〜!間に合った!
先生、今日もお願いします!」
勢いよく入ってきた若い女は、子供と荷物を差し出した。
先生と呼ばれた年配の女は、
「なんだ、今日はスッピンか。
誰だか分からなかったよ」
と笑った。
若い女は早口で、
「急いできたんで!店で化粧するから大丈夫!じゃあ、ママ、行ってくるからね。良い子にしてるのよ。愛してる!」
と言ってバタバタと行ってしまった。
「ママ、今日は可愛いお化粧、間に合わなかったのね」
と先生が言うと、子供は、
「私はどっちのママの顔も可愛いと思う。さっきの顔のママは、ほっぺすりすりができるから好きだよ」
そう言った後、「今日の夕飯は何?」と聞いた。
ここは夜の街の託児所。
ある店のママが引退し、ここを開いた。夜の街で働く親を持つ子供が、ここで夕飯を食べ、一緒に遊び、布団を並べて寝る。
深夜になって仕事を終えた親たちが、寝ている子供を抱えて帰路に着く。
そんな夜の、子供たちの家。
私はこの託児所で働く人を紹介するため、店のママ、改め先生に会いに来た。
「前の店はよかったんですか?」
と私が聞くと、年配の女は答える。
「店って言っても、私は雇われママだったからね。身軽なものよ。
店では女が男を掌で転がしているけれど、その店のオーナーの男に私たちも転がされていたし、さらにそのオーナーの男を転がして、店を待たせてもらう女がいるわけだからね。
どっちもどっち、化かし合いよね」
そう言いながら、年配の女は子供が描いた絵を壁に貼る。
「そんな世界だからこそ、本物の愛を夢見る。夜の街で見ると、紛い物でもキラキラして見えるのよね。
でも紛い物でもいいの。
何もしないよりマシでしょう?」
そう言った女は、武装を取った、年相応の顔で優しく微笑んだ。
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あれから私は諜報員の長を交代し、協力員となり、側妃の協力を得て創った人材派遣会社を運営していた。
ここでは、諜報員の適正はなかったものの、特殊な能力がある者や、何らかの理由で諜報の仕事を退いた者を積極的に取り込み、本人の適正に合った仕事を斡旋している。
夜の託児所から会社へ戻ると、若い男が待っていた。この男も、黒服を脱ぎ、私と一緒に会社を運営している。
二人同時に諜報員を辞めると言った時、幹部たちは困った顔をしながらも笑っていた。
「とうとう捕まえたか。
分かりやすかったもんな、お前。
諜報員に向いてなかったんじゃないの」
と若い男を冷やかした。
若い男は、
「俺がいないと、この人、子供みたいだって侮られそうでしょう。
だってこの人、噛むんですよ、俺のこと。本当に子供みたいだ」
と真面目な顔をして言ってのけた。
幹部たちは意外そうな顔をして、ニヤニヤ笑いながら私を見た。
私は恥ずかしくなって誤魔化すように言った。
「おい、感情がだだ漏れだぞ。まだまだだな」
シリーズ内の作品は、全て同じ世界観です。
ぜひ、他の作品も楽しんでください。
側妃さんや、隣国の侵略を受けている小国出身の天才魔術師長が出てくる話もありますよ。