ダンジョン3ー③
「どうした、ものかのう……?」
ボールは有り体に言って弱り切っていた。
彼がここにいるのは女神アルムートの僧侶であるという、ただそれだけの理由だ。
ウルのようにダンジョンの探索経験や知識があるわけでも、クーのように特別な才能があるわけでもない。普段から重要な判断はリーダーのウルに任せており、いざ自分が決断しなければならない状況に陥ると、途端にどうしていいか分からなくなってしまう。
「ワフゥ……ボール、ドウスル?」
「う、うむ。そうじゃの……」
クーが困惑した様子でこちらを見上げ、服の袖を引っ張る。ボールはそれを見て何とか停止していた思考を動かし始めた。
こんな時、ウルはどうしていた?
そうだ、まずは現状分析だ。
ウルが夢魔の攻撃が予想される下層に一人取り残された。彼を回収するために結んでいたロープは何者かによって切断されており、下層には夢魔以外の魔物がいることが予想される。ウルが既に夢魔の攻撃を受けたかは不明。だが、仮に今無事だったとしても、一秒後に無事である保証はどこにもない。
さて、その上で自分たちはどう動くべきか。どんな選択肢があるか。
一つは今すぐ下層に突入し、ウルを連れ戻すこと。しかしこの選択肢は当然、夢魔の攻撃を受けて全滅する可能性が最も高い。
一つは一旦撤退し、助けを求めること。二人でウルを救出することが困難な以上、最も堅実な判断ではあろうが、この街の冒険者がわざわざ手を貸してくれる可能性は低いし、それまでウルが無事でいる可能性はもっと低い。
後は何があるだろう? ウルを信じて待つ? それとも……
卑劣な誘惑が、ヌルリとボールの意識に入り込む。彼はそれを頭から振り払おうとするが、しかし──
「ボール!」
「お、おお……」
クーの声に、内に沈みかけていた意識が引き戻される。しかし反応も思考も鈍く、ボールは意味のない呻き声を漏らすことしかできなかった。
そんな彼に何を思ったのか、クーはキッと表情を引き締め、一吠え。
「ワン!」
そして覚悟を決めたように下層への階段を勢いよく駆け下りて行った。
「お、おい! 待たんかクー!」
ボールは慌てて呼び止めるが、クーの姿は下層の暗闇の中へと消えていく。それでもボールは自分がどうしていいか判断がつかず、その場で一瞬まごついていたが。
『追いなさい! クーに万一のことがあれば取り返しがつかなくなるわ!』
「──は、はい!」
女神の叱責に背中を押され、クーが置いて行った簡易神殿を背負い、慌てて階段を下った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ひぃ、ふぅ、ひぃ……!」
ドワーフの短い脚をよたよた回転させ、必死にクーを追いかける。
脚が短いのはコボルトも大差ないが、重量と体力の差でボールが第五層に降りた時にはクーの姿は影も形も見当たらなかった。
「……お~い。クーや~い」
魔物を警戒してつい小声になりながら、暗闇の中、暗視を頼りにあてもなくクーを探す。今ではすっかり慣れたダンジョンの中だというのに、仲間がいないという事実がボールを想像以上に心細くさせていた。
何度目かの角を曲がったタイミングで、ふと自分がどの道を進んできたのか分からなくなり、戻れるだろうかという不安がボールの心臓をぎゅっと掴む。
──いかんいかん! そんなことは考えんでええ! 今は二人を助けることだけ考えるんじゃ!
「……そうだ、女神よ。クーが持つ神器の反応を辿ることはできませんか?」
ふと思いつき、背中の簡易神殿に問いかける。しかしそこに宿っているはずの女神からは、何の反応も返ってこなかった。
「……もし? どうかされましたか? もし──」
「──落ち着け、レオポルド」
懐かしい名前で呼ばれて、ボールの身体は硬直する。
振り返れば、そこにあったのは記憶の彼方に薄れつつあった──
「何か悪い夢でも見ていたのか? 寝ぼけてないで、しゃんとしろ」
「兄、うえ……?」
穏やかで優しい微笑みを浮かべてボールを見つめる、彼によく似た面立ちの若きドワーフ。
その決してあり得ない光景に、ボールは自分が夢の中にいることを理解した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「こんなところでサボってないで、早く屋敷に戻って私の仕事を手伝ってくれ。やることが多くてもうてんてこ舞いなんだ」
気がつくと周囲は暗いダンジョンから懐かしい故郷の屋敷の庭へと変化していた。ご丁寧に服も貴族時代の豪奢なものへと変わっている。
土の臭い、肌を焼く柔らかな日差し、少し冷えた風の感触。
全てが彼の記憶通りで、夢と分かっていながらもボールは懐かしさでその場にしばし立ち尽くす。
「……なんだ。まだ寝ぼけてるのか?」
そんな彼の様子に、兄は腰に手を当てて嘆息した。
「私は先に戻っているから、お前は顔を洗って目を覚ましてこい。──サボるなよ?」
茶目っ気たっぷりにそう付け加えて、兄は彼に背を向け屋敷の中に戻っていった。カイエン伯爵家の当主である兄は、とても忙しく本来であれば怠惰な弟に構っている暇など──
──いや、待て。ワシは今、何を考えた?
自分がここにいて、兄が伯爵家を継ぐことなどありえない。
彼は兄の背を見送りながら、自分の認識が改竄されつつあることにゾッとした。
改めて説明するまでもないだろうが、ボールというふざけた名前は偽名である。
偽名の由来は、浮浪者生活を始めた当時、チンピラどもに“ボール”としてオモチャにされていたこと。自分ごときには丁度いい呼び名だと、彼は自らそう名乗ることにした。
彼の本名──あるいはかつての名──はレオポルド・カイエン。帝国では珍しいドワーフの貴族、カイエン伯爵家に次男坊として生を受けた。
厳しくはあったが公平誠実な父と温和な母、十歳上の優秀な兄。
幼少期のレオポルドは自分の置かれた環境に何一つ不満を抱くことなく、ぬるま湯のような幸福な日々を過ごしていた。
それが砂上の楼閣に過ぎなかったと知ったのは、老いた父親が死んだ時。レオポルドは当時、優秀な兄が伯爵家を継ぎ、自分はその補佐をするものだと疑うことなく信じていた。
しかし父の葬儀後まもなく、兄は継承権のない庶子であり、伯爵家を継ぐのは自分であると伝えられる。
元々、レオポルドが生まれるまでは兄は後継ぎとして教育されていたのだが、貴族の母を持つレオポルドが生まれたことで兄の立場は庶子へと挿げ替えられた。そしてそのことを、自分も──兄も知らされていなかった。
その後、起きたのは兄弟間の醜い争いだ。
いや、当主の座を巡って争ったのであれば、醜くはあれ、まだ価値のある争いだっただろう。
だがレオポルドには当主になろうという覇気がなく、兄と周囲はそんなレオポルドを疎み蔑んだ。結果、プレッシャーに耐え切れなくなったレオポルドは全てを兄に押し付けて家を飛び出した。
その後、カイエン伯爵家がどうなったのか、彼は何も知らない。知ろうとしなかった。
──ワシは……戻りたいと願っておったのか……?
悪辣な夢魔は、悪夢ではなく当人が望む幸福な夢を見せることで抵抗する気力を挫くという。であればこの夢は自分の願望の具現で、きっとこれは自分の望む世界なのだ。
記憶にある水場に行き、冷たい水を掌に受け、バシャッと顔にかけて眠気を覚まそうとする。しかし水の感触はただただ心地よいばかりで、脳の奥底にはつゆほども響きはしなかった。
──ああ、そうだ。ワシはずっと、兄上の補佐役として、あの方を支えたいと願っておった。そうであれば、どれだけ幸せであったかと……
それは否定しようのない事実だ。
長きに渡り、ずっとその想いは彼の中にあった。
──ならば何故。
そうであるのならば。
──何故ワシは、この夢に溺れることができぬのだろう。
その答えを求めるように、彼は兄の待つ執務室の戸を叩いた。