金の森
この森に金色の毛並みを持つという、獣がいる。噂だけの不確かな存在だ。
その獣が鹿なのか、狸なのか、はたまた野ウサギか…不確かな、という通り正体は定まらない。
また旅人が見たとか、山菜採りが偶然目撃したとか…獣を見かける者も点でバラバラである。彼らが言うにはそれはそれは美しく、神仏の様に神秘的な有様だと。一生に一度、目にしたのならば安泰だと。
「それ」はかなり昔から現れ、集落では神仏の使いだとされ決して殺めてはいけないとされている。
神仏の使いがいるという森も変わっていて、鳥獣が寄りつかないのだそうだ。だからといって木々が枯れ果てているとか、毒草があるとかではない。そこいらにある雑木林となんら変わらない。
夕暮れ時に黄金に輝く摩訶不思議な雑木林。
そこは金の森と呼ばれていた。
そんな金の森の近くの集落にナヤという娘がいた。ナヤは貧しい家の子で、よく働き、文句も言わぬ純朴な子だ。家族も日々の行いからかたまに周囲の助けをもらいなんとか食いつないでいた。
それでも貧しいのには変わらなかった。ナヤは陰ながら母が家計が火の車だと嘆いているのを聞き心を痛めていた。
いつものように森を前に悩ましげにため息をつく。
その金色の世にも珍しい毛皮を売れば大金が手に入り、家計も潤うのではないか。それは森の主を殺めることであり村のタブーでもある。
それにナヤは狩りの仕方を知らない。殺生はいけないと母から教えこまれている。野ウサギや野ねずみなら-生け捕りにして見世物として稼げるかも。
もし叶うのなら。
神様仏さまがいるのなら。
やましい事はなにもしていない──自分を救ってくれてもいいだろう。
そんな気持ちがやましいというのなら、この世で善人など存在しないことにならないか?
ドロドロした心の淀みを吹き飛ばすように風が吹いた。夜風の混じる夕暮れはどこか恐ろしい。どこかの家の母親が子の名を呼んでいる。
早く帰らないと人攫いに遭ってしまう。子供たちは親にそう脅されていた。
どこにでもある家庭。兄とナヤ、そして弟。祖母はもっぱら家事をこなし、子供たちは大人たちの労働を助ける役割をこなしている。ナヤはしゃかりきに働き、弟の子守りをする。
当たり前のことだ。どこの家庭の子供も親を助け、兄弟の世話をする。
朝に味を薄めた汁を飲み、夜は疲れに任せて眠る。兄と父はたまに何か話しているけれどそれ以外は毎日何ら変わりない。
お金持ちの家の子はどんな生活を送っているんだろう?煌びやかな着物に身を包み、ご馳走を食べているんだろうか?
いつだか聞いた昔話に出てくるようなお姫サマのような、豪華で絢爛な間にいるんだろうか?
ナヤは想像の世界の中でお姫様になる。金色の-。獣がふいに隙間から姿を現す。それはそれは美しく金色に輝く不思議な獣。見つめられ動けなくなる。これは夢か、空想か。
うつらうつらと夢の中へ沈みこんでいく。
あの雑木林の内側に何かがあるのだと、それこそおとぎ話みたいな竜宮城や極楽浄土があるとしたら。
金の獣もいるのも不思議ではない。
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青空の下苗が水田に浸されていた。これから稲作が本調子になればあっという間に秋が来る。
ナヤの家は小さな畑を耕してなんとか暮らしている程度である。父は別の仕事があるというから兄とナヤで畑仕事を担う。野鳥が長閑に囀り、たまに野花の匂いが鼻をついた。
農作業をやめ、つかの間の休息をとる。広敷を広げ家から持ってきた水を兄と共に飲んだ。
遮る物がないこの場所は春の終わりに相応しく日差しがじりじりと照りつけ、じわりと汗がかく。二人は無言で食べていたがやがてナヤはこの所ずっと考えていることを口に出した。
「金色の獣っていると思う?」
「さあ…」
「お兄ちゃんは見たことある?」
「…ただの迷信だろ。なんだってそんなこと?」
「わたし、家族のためにその金の獣を狩ろうと思う。そしたら大金が入って──」
「ダメだ。それはダメだ。」
兄の口調が硬いものに変わった。迷信だと吐き捨てたのに?
「ナヤ。絶対に他の人に今言ったことを話すなよ。」
「なんで?」答えは返ってこなかった。
父と同じで兄は大事なところを話さないきらいがあった。まだ子供のナヤにとっては「大人」の暗黙の了解が理解出来ておらず、理不尽だと思っている。ムッとした妹を見兼ねてか兄は笑みをつくった。
「迷信にうつつを抜かすならもっと家族のために働いてもらわないとな。」
「なにそれ!私だって精一杯やってるつもりだよ!」
「ははっ冗談だよ。父さんも母さんも俺たちのために精一杯働いて、楽させようとしてくれてるんだ。あんたに何かあったら悲しむだろ。」
「うん…。」
昨日の会話を思い出しながら弟のお守りをする。弟はいつもより一層元気がよく、どこか浮かれているようだった。
兄は若衆と共に金の森や周辺の林へタケノコ狩りにいったという。
この季節はタケノコが美味い。集落では山菜採りやらを共同で行うならわしがある。お互い場所を伝えあい、皆で収穫する-狭い会社でやっていくための掟である。
女衆や子供は今夜はごちそうになると大変喜ぶ、例に習い祖母と母がタケノコを前に勇んでいる。ささやかな幸せに自然と気分も温かくなった。
(今も十分に幸せだけど、やっぱり)
心のどこかで今の状況を打開したいと願っている。ドロドロした欲を拭いけれない自分がいた。
あれから森を眺めるのはなんとなく気が引けて、やましい計画だけが思考を支配していた。日に日に危険な賭けは存在感を増し、無視できないほどに膨らんでいた。
実行するのなら夕暮れ時がいいだろう。カハタレドキは素性をあやふやにする──どこのうちの娘か、血なまぐさい所行をしても分かりゃしないだろう。
ナヤの思考はその事で固定されてしまって、他の-物事の結末へ向かなくなっていた。幼い心は一つのモノにくくりつけられる。黄金色の世界をただ睨めつける。
初夏の風はすっかり暖かくなり、肌寒さをあまり感じない。過ごしやすくったと祖母は零すだろう。一日の時間が伸びたのを実感しながら家から少し離れた物置へ忍び込む。廃屋と言われれば否定できないほど朽ちかけた粗末な小屋。
木漏れ日がわずかに視界の手助けをする。埃を被った家具を避けながら目を凝らし、物置小屋を散策する。畑仕事が終わると兄や父が物置へ道具を片付けに行くのを知っていたけれど、こんなにだらしない事になっているとは。
だいたいは質屋に預けたというから、大した物はない。家宝になるような品よりも農具が一際大切にされている。-やはり狩りに使えるのはこれしかない。
大ぶりな農具を持っていくのには気が引ける。あまり目立つような物は持っていけないのである。
「これなら…」草刈り鎌を手に取り、鈍い刃の輝きを見つめる。
祖母が呆けて亡くしたといえば(酷い行いだが)家族はしょうがないと許してくれるかもしれない。集落の人々も草刈りを熱中して帰りの遅くなったと勘違いする。
小鳥や小動物であれば殺めなくてもすむ。そうあって欲しいと草刈り鎌を手に、あの雑木林へ急いだ。
森と言うには小規模な林。けれど他の森や林とは異なる不思議なで恐れ多い「森」。いつからあるのだろう?何故人々は始まりを知らないのだろう?
シンとした木々の合間に薄暗闇が蟠っている。自然と固唾が降りる。ここにはナヤと特異な獣しかいないのだ。
──見つからなかったらそれでいい。
怖気付く心が囁く。この迷いだと苦笑して帰る姿が脳裏をよぎる。どこかでそれを望んでいるのだ。
冬の間地面を守っていた枯葉がガサガサと嫌に音を立てる。本当に鳥のさえずりもカエルの鳴き声もしなかった。葉のざわめきと自らの吐息が耳障りだ。
見渡す限り生き物の姿も気配もない、孤独感がドッと押し寄せて歩む足が止まってしまった。いきなり何もかもが末恐ろしく思えて、圧倒されてしまう。「!」
暗がりから視線がした。強烈な気配だ。──自分の他に生物がいる。
「…わあ。」
金色の美しい光沢の野犬がいた。姿形はどこにでもいる野犬であった。
夕暮れ時が近づき傾いた日差しを受け、輝いているように思えた。
双方の視線がぶつかる。草刈り鎌をもった人間から殺意を感じ、犬はドッと走り出した。
「待って!」
不安定な足元に追いかける速度がおそくなる。このままでは取り逃してしまう!
「ギャン!」視界の先で犬の悲鳴が聞こえた。まさか他に人が?
走るのをやめ恐る恐る鳴き声の方へ近づく。簡易な罠へ野犬がひっかかり、じたばたと暴れていた。「兄さん…」
脳裏に浮かんだ兄の顔。この前集落の若い人らでタケノコとりへ行ったと。
金色の獣を──集落では神仏の使いだとされ決して、殺めてはいけないとされている。あの兄が掟を破るなんて。
(私たちのために…。)
もし兄がこの犬を殺め、毛皮として売ったら?
大人達は容赦なく兄を責めるだろうし、最悪の場合命すら危ない。なんせ神の化身をその手で…。家族の大事な跡取りを失い、母も悲しむだろう。
(なら、自分がやるしかない。)
犬はこちらを見て悲しげな警戒を込めた声を出す。殺生をしたことのないナヤはそれに戸惑う。
──神様仏さまがいるのなら自分を救ってくれてもいいだろう。
そうとしか考えられまい、こんな好都合今までの人生で巡っては来なかった。横暴な考えに導かれ馬乗りになり喉に刃物を添えた。
ナヤは手足に力が入らないことを悟る。やはりこんな残酷なことをできっこなかった。
犬が暴れせっかく巡ってきたチャンスが逃げていく音がする。嫌だ。
神様仏様がくれた機会を逃す訳には──!
「はあ…はあ……」
金色の輝きを放つ体毛に赤がしみていく。動かなくなった野犬を見下ろして、頬を伝う汗を拭った。──ついにやった。
ついに命を奪ってしまった。どうやって喉を掻っ切たのかまで覚えていない、暴れる獲物の力のままに。
ハラハラと涙が零れる。訳もなく泣きながら犬へ手を合わせる。まだか細く息をしてこちらを睨んでいるきがした。
眩い金色の斜陽が木々を燃え上がらせる。太陽のエネルギーを写し取るように森が黄金に輝き──ナヤはあまりの眩さに瞼を閉じた。
小学生のカナタは金の森と呼ばれる小さな雑木林を前に、暫し佇んでいた。近所にある手付かず数少ない自然で、何故金の森などという珍味な名前がついているのか、両親も知らないのだそうだ。
ずっと昔からあるのだと町の歴史に詳しい先生が言っていた。そして不思議なおとぎ話を授業中に語ってくれたのだった。
──この森に金色の瞳と髪を持つという子供がいるという。森に迷い込んだ人や獣を追い返すのだそうだ。