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【恋愛 異世界】

暮れ六つの風

作者: 小雨川蛙




暮れ六つの風が遠く響くのを私は聞いていた。

夏の終わりは未だ見えず、夜の訪れに気づかないかのようなセミの鳴き声が煩わしい。

陽が出たならば起き出し、山の向こうへ落ちるまでは働き続けろ。

幼い日々から私が父に言われていた言葉だった。

十二を迎えたばかりの私の体は徐々に男性のものへと変化しており、両親や村の者達の話によれば、来年の今頃には背がもっと伸びるだろうとのことだった。

『立派な村の一員だ』

どこか誇らしげな父の顔を思い出す。

しかし、当の私にしてみれば容赦なく増やされる畑仕事に半ば辟易しており、大人となる事実をどこか他人事のように感じている。

『誰だってそんなもんよ。私だって気づけば大人扱いだったもの』

二つ年上の少女、節の言葉を思い出す。

村の少女の中でも特に仲の良い彼女は私のことを弟のように扱いながらも、日毎に男の体へと成長する私のことを頼りにしていると暇さえあれば言っていた。

村内でも私達の仲の良さは知れ渡っており、おそらくは二、三年後には夫婦の関係となるだろうと周りも扱っていた。

その事に対し、私も節も特に言うことはなかった。

私自身、節を好いていたし、節もまた私を好いているのだから。

いわば、普通のことが普通に起きる。

ただ、それだけなのだ。

普通。

心の中で呟き、私は大きくため息をつく。

吐き出した息は私のやり切れない想いを纏っているせいか、静謐な泉に石を投げ込んだかのように密やかでありながら、確かな音と波紋を私の心に残した。

私はどうしても耳に届く音ばかりが気になってしまう。

いや、違う。

きっと、目を塞いでいるのだ。

まるで、生まれてこの方、ずっと全盲であったように。

しかし、世に産み落とされた時から目が見えぬ者は闇の色を知らない。

自分を包むものが闇であると知らず。

顔に空いた二つの穴の中にあるものの役割も知らず。

そして、何より自分が他者と比べて不幸であるというのも知らない。

『目が見えなくて可哀想』

そんな言葉と哀れみを向けられようとも無知故に傷つかない。

いや、何を悲しまれているのかさえも分からないのだ。

あぁ、それはきっと。

神が与えたもう慈悲であると私はずっと思っていた。

「姉さん」

小声で姉を呼び、私は目に映るものへ意識を取り戻す。

丁寧に敷かれた布団の上。

私と三つ歳が違う姉が白装束に身を包まれて横たわっていた。

返事はない。

あろうはずもない。

姉はもう死んでいるのだから。

「姉さん」

再び呼びかけた声が緩やかに姉の体へと吸い込まれていくのが見えた気がした。

姉の人生は端的に見て悲傷に満ちたものであったと私は思う。

両親の初子であった姉は言葉をまともに発せない頃……即ち、極めて短い間だけ普通であったと言えるだろうと思う。

無論、私は当時を知らない。

両親や節の話を聞いて、そうであったと判断しているのだ。

姉の人生が苦難へと変わったのは節が生まれた頃だろうか。

即ち、生まれて一つか、二つの年を越えた時。

元々おかしな子供であったらしい。

人が何を言っても反応が鈍く、無表情のまま相手を見つめる。

かと言って、言葉を理解出来ていない様子ではなく、不思議そうな表情で相手を見つめるだけなのだ。

他人は口差がなく『その子はおかしい』と言い、両親もまた『妙な子だ』と疎んだ。

そんな中、まるで比較するかのように節が生まれた。

『節は普通だった』

両親の言葉が蘇る。

『あの子とは違って』

残酷に。

節も幼い頃は姉に見守れて過ごしていたらしいが、三つになる頃には姉の奇妙な言動を気味悪がり近づかなくなってしまったという。

姉の歳は既に四つを数えていた。

母親を始めとする村の女の手伝いが出来てもおかしくない頃だ。

しかし、姉は何をやらせても失敗ばかりで、怒鳴られ続けていたと聞く。

つまり、姉に出来ることは何もなかったのだ。

精々、幼子の守り役といった程度で。

事実、私も姉に見守られて育ったらしい。

らしい、と言うのは、霞がかった記憶の中に姉の姿は確かにあるものの、その傍には常に節の姿もあり、正直なところ、私からすれば姉が守り役と言うよりは二人が守り役だったという印象なのだ。

より正確に言うならば、姉を遠ざけるようにして私と共に居た節の方が印象深い。

そして、私に守り役が要らなくなった頃、姉の役目は失われた。

安らかな表情のまま命を止めた姉を見つめる。

私から見ても、村に姉の居場所はなかった。

いつも遠巻きに人々を見て、自分が少しでも出来そうなことがあれば近づき「私もやる」と声を掛ける。

ほとんどは軽くあしらわれたり無視されたりするが、まれに幼児でも出来そうな仕事だけをどうにか振られる。

水瓶の水は十分であるのに井戸水を汲みにいかされる。

私は母を始めとする村の女達が不必要なほど水を使っているのに気づいていた。

姉を虐めるためではない。

姉に仕事を作るために。

姉の居場所は村になかった。

これはどうにもならない事実だった。

そして、不幸にも仕事は出来ずとも姉はそれを理解出来るだけの知恵はあった。

姉は哀れだ。

誰も悪くなかった。

村も。

姉も。

だから、哀れなのだ。

布団から出ている姉の手に触れる。

姉の人生を現したかのように凍える死の冷たさが、私の心の底にまで染み渡る。

私と姉の仲は良かったのだろうか。

最早知りようもない。

『上手くいかない』

脳裏に姉のすすり泣きが聞こえる。

『上手くいかないの。どうしても』

最古といっても差し支えないほどに古い記憶の中で、幼児とも言えない私の前で姉は泣いていた。

『何をしても。何度しても。どれだけ考えても』

その記憶があるからこそ、私はなるべく姉から離れなかった。

せめて、私の隣では安心できるようにと。

そう願って。

『節ちゃん、あんたのお嫁さんになるんだってね』

記憶の中で反響する声は風音で消えたりしない。

『私もなりたかった。誰かのお嫁さん』

去年の今頃に姉はそう言うとそのまま村から走り去った。

私は叫んだが姉は止まらず。追いかけたが追いつけなかった。

私は姉に追いつけなかったから村へ帰るのが遅くなった。

村に戻った頃には斜陽となっていたために、村人達は姉を探すのは翌日にしようと言った。

翌朝、曇り空だというのを理由に村人達は仕事を優先し、昼になり雨が降る気配もないと悟ってようやく私を含む数人で探し始めた。

胸の奥が締め付けられる。

これは全て過去のこと。故にこそ変えられない事実。

そうだ。

私も村も内心では姉など見つからなければ良いと思っていたのだ。

しかし、私は森の中で笑う姉を発見した。

森に囲まれて手を振り、屈託なく笑う姿。

その姿を見て固まる私に姉はふと気づくと微笑んだ。

『迎えに来てくれたんだ』

そう言うと、誰も居ない方へと振り返り一礼をして言った。

『それでは、また来年に』

前日のことが嘘のように姉はにこやかに笑い、私と共に村へ戻った。

村人達は当然姉を叱り、そして気まずそうな顔をしながらも無事を喜ぶ声をかけたが、当の姉は今まで見た事もない笑顔をしたままに『ごめんなさい』と丁寧に謝罪をするだけだった。

その日から姉は辛そうな顔をすることはなくなった。

相変わらず仕事は出来ず、居た堪れない村の中で、それでも姉は笑っていた。

その様子を見て、私を含む村人達は不気味に思ったが、何事か起きているわけでもないので精々噂をするばかりで、日々を過ごしていた。

そうして、日々が流れていき、一昨日のことだ。

夜に姉は両親と私を呼んで丁寧にお辞儀をして言った。

『お嫁に参ります』

困惑する私達に姉は言った。

『明日に準備をして、明後日の暮れ六つに』

淡々と告げられる言葉に両親は色々と口にしたが、姉はあくまでも微笑むばかりで質問に答えなかった。

やがて根負けした両親が黙りこくると、姉は私の方を向いて言った。

『あんたに見送って欲しいの』

何もかも分からなかった。

しかし、その場を終えるには頷くしかない。

私が頷くと姉は『ありがとう』と喜んだ。

翌日……つまり、昨日の朝。

姉は布団の中で冷たくなっていた。

まるで、自らの死を予見していたかのような言動から両親は不気味に想い、すぐにでも姉を墓に埋めようと言ったが、私は姉が言う明後日を待つべきだと言った。

『死人を嫁に取る奴が居るとでも言うのか』

父の言葉に私は首を振る。

そんな人間居るはずもない。

『どうせ、一日限りだ。待ってやってもいいだろう?』

私がそう言うと両親は納得こそしていない様子だったが、好きにしろと言って引き下がった。

そして、今。

私は姉の遺体を前にして、ただじっとしていた。

本来ならまだ働いている時間だが、父は『よく働いているんだ。たまにはいいだろう』と言って、早めに仕事を切り上げさせた。

どうせ、一日なのだから。

そう言外に含めながら。

「姉さん」

私は三度、姉を呼ぶ。

『あんたに見送って欲しいの』

そんな、姉の言葉を思い返す。

不器用な人だった。

だからこそ、嘘をつけない人間だった。

そんな姉が言っていたのだ。

『お嫁に参ります』

微笑んで。

姉の表情を脳裏に浮かべた最中。

不意に戸が開いて声がした。

「むつ」

男の声。

しかし、父ではない。

私は静かにそちらを向くと雪のように白い肌をした男がそこに立っていた。

「あなたは?」

当然の疑問を投げかける。

不思議と恐怖はなかった。

「むつの夫だ。いや、まだ夫ではないが」

勝手知ったる我が家の如く彼は家へ入って来る。

しかし、足音が僅かにも聞こえない。

いや、確信を持って言える。

彼に足はないのだ。

そのまま滑るように男は姉の前にやって来ると屈みこんで微笑み笑った。

「あぁ、実に美しい」

直感する。

これは人間ではない、と。

「実に窮屈であっただろう?」

片手を差し出し、愛おしいものへするように何度か頬を撫でた後、男は私の方を向いて言った。

「お前が見送りか。ご苦労だったな」

私が答えられず固まっていると、男は水のように透き通った視線を向けて言った。

「むつをよく気遣ってくれたのだろう? 本当に喜んでいたぞ」

「むつ?」

先ほどから繰り返される言葉が姉を指すと知りながらも私は問う。

それと同時に私は気づく。

私はいつの間にか姉の名を思い出せなくなっていた。

「あぁ、我らに名など要らない」

いや、そもそも姉に名などあったのだろうか?

馬鹿げたことを考える中にあっても男の口は回っていた。

「我らは記憶に残らない。いや、残る必要もないのだ」

言うと同時に男は丁寧に横たわっていた女性を横抱きにした。

「それでも、むつは言った。お前にだけは別れを告げたいと。だから、仮の名を与えたのだ」

男が抱える女性。

それが誰であったかを私は既に思い出せなくなっていた。

「名など人にだけあれば良い。我ら神には不要なものなのだ」

言葉と共に歩き出す。

呆然とした心とは対照的に体は反射的に動いていた。

「待ってください」

自分でも驚くほどの声が出る。

しかし、彼は止まらない。

「その人をどこにやるのですか」

最早、自分との繋がりさえも分からない女性。

ただ、その人が苦しんでいたことだけは朧気に分かる。

いや、知っていた。

知っていたはずなのだ。

男はくるりと振り返る。

「神は人と暮らすものではない」

大きな衝撃。

それが。

直後に消えた。

ただ、何かを失ったのだけを私はどこかで悟っていた。

開け放たれた戸が不思議だった。

敷かれている布団が奇妙だった。

ざわめく心が煩わしかった。

私は息を飲んで外に出る。

陽はもう暮れ始めている。

「何してるの?」

聞き慣れた声を聞いてそちらを向けば節が呆れた顔で笑っていた。

「裸足で飛び出して。まだ子供の気分?」

驚き足を見れば私は確かに沓を履いていない。

「久々に早く仕事を終えられたからって遊びに出かけるつもり? もう暮れ六つなのに」

何か。

何かを忘れた気がする。

「どうする? 今から遊びにでも行く? 昔みたいに二人で」

けれど、それで良いのだと私は思った。

きっと、私にとっても。

「馬鹿じゃないか? 神隠しに遭うぞ」

私は節へおどけて見せると彼女は軽く笑い返す。

「よく言われたね。その脅し文句」

季節は未だ夏でこの時間でも重みを感じるほどに暑い。

それでも夜を誘うようにして、吹く風がどこか不思議と心地良かった。

あるべきものがあるべきように回る。

ただ、全てはそれだけなのだろうと思った。

暮れ六つの夕日を見つめながら、私は自分でも分からないままに静かに呟いていた。

「さようなら」



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