拝啓、普通が嫌いな僕達へ
憂鬱な月曜の朝。ほとんどの人間はこの時間と格闘して、見事に勝利を収めなければならない。
「さっき見た時は四時だったのに、もう七時か……」
二度寝は気持ちいい。人生の最大の幸福だと言っても間違いではない。唯一の欠点があるとするならば、あっという間に時間が過ぎてしまうのが問題だ。あと三時間寝れると思って眠りについたのに、体感的には三十分も寝た気になれなかった。
寒さに耐えながら布団を出て、洗面所に行くと、そこにはいつもと変わらない、つまらなさそうな顔をしている自分がいた。いや、寒さも相まってかいつもより酷い顔をしている気がする。
どうにかして普通の人らしく、生き生きした表情にならないかとニッコリ笑顔を作ってみるが、これが意外と難しい。普段使っていない表情筋を使っているから頬がピクピクする。
少しして頬がピクピクしないベストポジションを見つけ、頑張ってキープしてみたものの、その出来栄えはゾンビが笑ったみたいで最悪だった。誰かが見たらトラウマになるんじゃないかってレベル。
これは手がつけられない、どうしたものか。と少し悩んで思いつく。
鏡を母だと思えばいいのだ。
一度頬をほぐして深呼吸してから、僕は“母”に笑いかけた。
するとそこには優しく笑う普通の男子高校生の姿があった。
さて。寝坊もせず、七時に起きたとは言え、人間の朝というものは忙しいもので。
いい笑顔が出来て満足した僕は、習慣となった動きをいつも通りの時間を使って進める。
人は変わらないものに安心感を持つ生き物だ。人間は習慣、思考、マナー、常識……ありとあらゆる事柄で共通の認識を確認し合って“普通”に生き、それを他人に強要して生きている。
学校の規則とか分かりやすいかな。きちんとした理由もない規則に縛られ、“普通”なら守る。“普通”は学校ならこの規則は守らなければならない。とか。
もっと言えば、葬式で大笑いしないとか、結婚式で腹踊りしちゃいけないとかかな。
少しデリケートな部分に触れておくと性別とか。最近理解されてきてるようだけど、それでもまだ多くの人が普通、性別は男か女の二択だと思っている。
ある一定のマナーは除いて、それ以外の暗黙の了解だったり規則だったりは僕らを“普通”に縛り付けるためのものに過ぎない。
小学生の頃から教わる“みんな違ってみんないい”なんて言葉、綺麗事でしかないんだ。
そんな事を考えているうちに支度が出来る。
これ以上考えるのはやめよう、一日が更に憂鬱になるだけだ。何も考えず、普通に生きればいい。
僕は行ってきますと母に言ってから、いつも通りの時間に家を出た。
今日は体育と日本史の小テストが山場だな。
電車に揺られながら、ぼんやりとそんなことを考える。“体育”と“テスト”という単語だけでお腹いっぱいだ、学校休もうかな。
運動は苦手だ。平均より下でボールすらまともに受け取れない。
え、普通に生きてないって? でも僕は学校じゃ地味で通ってるから、地味な人なら普通なんじゃないかな。
因みに、勉強に関しては平均くらいだ。人並みに自宅勉強して平均の成績を残していっている。
話を戻すが、今日は体育と日本史の小テストが山場なのだ。
さて、どうやって乗り切るか。
と言っても特に策などない。体育は無心で参加するしかないし、小テストはそれまでに勉強するまでだ。
ため息を一つ落とす。
人がどうしようも無いことにどう乗り切るかを無駄に考えるのは、解決策が無いからやるしかないと諦めるためにあるのだと個人的に思ってる。だから僕もこうして諦めたのだ。
いや……待てよ?
ある事に気づく。どうやら僕は大事なことを忘れていたらしい。身体がすーっと冷えていくのを感じる。
「今日、演説するんだった……」
最悪だ。と顔を覆う。
内容は英語で最近のニュースについての演説をするというもので、今日がその演説の日なのだ。
一応、準備期間はあったので準備自体は出来ているが、そういう問題ではない。みんなの前で発表するという行為が苦手なのだ。
学校休もうかな、と再度考えるが、普通の高校生代表のような僕には途中で電車を降りることも、学校をサボってどこかで遊ぶ勇気もなく、学校への道を真っ直ぐとぼとぼと歩くこととなった。
この時、家に帰っていればこんな異常な光景を目の当たりにすることは無かったんだろうな、と少し、いやかなり後悔してる。
「藤咲……お前、何をしてるんだ……?」
さっきまで淡々と数学の授業をしていた先生が、この異様な光景に耐えられなくなったのか、遂に指摘の言葉を発する。
僕含めクラスメイト全員も随分前から気にしていたので、一斉にある一点を見つめた。
「何って……授業聞いてるだけですよ? ついでに机に座ってリコーダー吹いてますけど」
きょとんとして目を丸くした後、藤咲と呼ばれた女子生徒は言った。
言い終わってソの音でリコーダーを一度吹く。
「あのなぁ……」
先生が呆れたように左手を額に当て、首を振った。おそらく、ここまでくるとどこからツッコめばいいのか分からないのだろう。
それでも先生は自分の役割を果たすべく口を開く。
「そんな授業の聞き方、普通に考えてダメだろ? 今までどうやって学校生活送ってたんだ……」
確かに。と思う。
でも、こんなに目立つ人なら今までにもこんな騒ぎはあったはずなのに、藤咲を見たのは今日が初めてだ。“藤咲”という苗字も聞いたことがない。
何故だろう? と一瞬疑問に思うがその答えは簡単で、藤咲が今まで学校に来ていなかっただけなのだろう。
暫く学校に来ていなかったせいで、自由な感覚が残っていたのだろうか。きっとこれから何度か指導されて治っていくに違いない。だってそれが普通なのだから。
初めて注意されたんなら苛立ちを表に出すかな? 暴れだしたりして。
そういう、普段は見ることの出来ない非日常をほんの少し夢見ながら藤咲を見ていた。
周りのクラスメイトもそうなのだろう。話し声がヒソヒソと聞こえてくる。
先生の発言を聞いた藤咲はピタッと動きを止め、その言葉が引っかかったのか、はたまた気に入らなかったのか、俯いて「普通……?」と呟いた。
藤咲の声でざわついていた教室が静まり返り、彼女への意見や予想などをあれやこれや言っていた女子生徒らも彼女を見る。
不思議なもので、藤咲の作り出す沈黙に誰も声を出せなかった。張り詰めた空気が漂っていて、なぜだかそれに逆らうことができない。
沈黙と教室中の視線を得た藤咲は、肩を揺らした。肩の揺れは漏れた藤咲の笑い声と共にどんどん大きくなっていき、藤咲はまるで身体の内側から湧き上がる興奮を抑えるように再び顔を上げ__
「__ウケる」
先程聞いた声より低く、そう言い放った。
彼女に吸い込まれるように息が止まる。
女子生徒の“ウケる”とはもっと高い声で会話を盛り上げるための相槌ではなかったのか。
藤咲は左手に持ったリコーダーを少しの間見つめてから、ニチャァ……と音が出そうなほど汚い笑顔を浮かべ、窓に向かって勢いよくそのリコーダーを投げ捨てた。
女子生徒らの短い悲鳴が聞こえる。
窓が砕け散る衝撃に備えようとクラスメイト全員が身構える。
……が、幸いにも窓は開いていた。
リコーダーはグラウンド目掛けて宙を舞い、物理法則に逆らうことなく淡々と地面に落ちていく。
冷静に考えれば、そもそもこの学校の窓ガラスは銃を持った不審者が来た時以来、防弾ガラスに変えてある。
だからリコーダーが窓に投げつけられただけで窓が割れるとも考えにくいし、砕け散るなんて以ての外だった。
それなのに“絶対に窓が割れる”とクラスメイト全員に確信させるほど藤咲の迫力と殺気は本物で、彼女の行動に唖然とし、立ち尽くしていた先生は無力でしかなかった。
藤咲は、慌てて窓の外を確認している先生や教室の困惑した様子など全く気にかけない様子で、ふぅ。と呑気に息を吐き、鋭く刺すように何かを睨みつけた。
何を睨みつけているのか僕にはさっぱり分からないが、目先にいる先生ではないことは確かで、もっと遠くにある大きな何かを睨みつけているような気がする。
「どういうつもりだ。藤咲」
数秒してから、ピンと張り詰めた空気が壊れてしまわないよう藤咲に向き合って慎重に問いかける先生。
先生の問いかけに藤咲は答えず、必然的に沈黙が続く。
誰かが固唾を呑む音が聞こえる。僕も含め、教室全体がこの静寂に緊張していた。
その緊張は言うまでもなく藤咲が原因で、今先生と対峙している彼女が一番緊張感を纏っているからだ。誰もが彼女の緊張感に逆らえずにいるわけで、それは先生も例外ではな__
「あははははははは!!」
僕の思考を塗りつぶすかのように笑い声が響き渡る。
この時、藤咲が纏っていたと思われていた緊張感は、彼女自身の大笑いによって裏切られてしまった。
堰を切ったように笑い続ける彼女に戸惑いながら制止する先生の声は教室に認められず、彼女の狂気に満ちた笑い声のみだけが讃えられた。
その時、僕は悟った。
僕達を蝕んでいるこの強くて抗うことの出来ないような緊張感は、決して彼女の纏っていた緊張感に影響されてのものではない。
平然と普通では受け入れられないような奇行をしたかと思えば、普通なら抱くこともないであろう殺気を放ってみたり、その殺気で生まれた緊張感を裏切って再び笑うそれは、狂人以外の何者でもなかった。
そう、僕達は教室に突然姿を現した狂人に対し、本能的に恐怖を覚えて警戒し、緊張しているんだ。
「あはははは____」
恐怖と緊張で染まりきった教室を嘲るかのように、藤咲は笑い続けた。
結局、あの異様な空気はチャイムの音によって救われ、藤咲は生徒指導室に連れて行かれた。
彼女が居なくなった途端に、さっきの出来事についての話をみんなが口々にし始める。内容はどれも同じようなもので、彼女の異常を誰もが指摘し、批判していた。
それが普通の反応だよな、とクラスメイトの会話から勝手に共感を覚え、まだ心臓はいつもより大きく拍動してはいるものの、それでもさっきよりかなり恐怖心や緊張感落ち着かせることが出来た。
それはみんなも同じだったのだろう。徐々に教室はいつもの穏やかな雰囲気を取り戻しつつあった。
十分休みが残り三分で終わろうとしていた時、藤咲は戻ってきた。
その事実は僕にとっても他のクラスメイト達にとっても予想外なもので、全員が口を閉ざして一斉に彼女に注目する。心境的には悪口を言っていたらその本人が現れたような感じだろうか。誰も喋ろうとはしない。
というより、あれだけの行動をしておいて七分で指導が終わるってどういうことだ? 普通はどんなに上手く言い訳してもそんなに早くは解放してもらえないだろう。
一方、藤咲はというと、先程と同様に周りの視線を一切気にする様子もなく、自分の席に座る。
……いや、座ろうとしていた。
運が悪いことに藤咲が座る直前、僕は彼女と目を合わせてしまった。本能が一刻も早く目を逸らせと警鐘を鳴らすが、僕は彼女の瞳に囚われてしまい、硬直のみを続け、数秒間見つめ合う形になる。
__あぁ、終わった。
僕を見つめたまま絵に描いたようにニッコリと笑う彼女を見て、僕はひそかにそう思った。
「あ、やっぱりここにいた」
昼休み、屋上で弁当を食べているところに藤咲が現れた。最悪だ。
やっぱり目をつけられてしまったのか。と、ため息を吐く。
「ぼっちのお弁当タイムは、やっぱりトイレか屋上が普通だよね」
と、笑って言う藤咲。
今日初めて話す相手に普通“ぼっち”とか言うか? 彼女は他人に配慮して喋ることが出来ないのだろうか。
僕は少し苛立ちを覚えながら「何か用?」と尋ねる。
すると藤咲は笑顔を崩さないまま、言葉に重みを添えて言った。
「君、普通が嫌いでしょ」
そう言われてようやく、彼女が僕の本性に鋭い言葉のナイフを向けていることに気づく。
そのナイフに刺されまいと「どうして? 僕は誰よりも普通だよ」と、バレバレに白を切る発言をするが、
「誰よりも普通でいることに努めてる、の間違いでしょ? だから誰よりも普通が嫌いなんだよね」
知ってる知ってる。と、隣に座りながら流すように言われ、僕の小さな抵抗は無意味に終わる。
このままでは突きつけられたナイフに刺されてしまうと身構えたが、藤咲は僕の予想を裏切ってナイフを収め、藤咲は続きを喋る。
「私も普通が嫌いなの。仲間だね」
と、自らに敵意がないことを示すように、さっきまでとは違う優しい笑顔を浮かべ、手に持っていた焼きそばパンを頬張り始める。
こうして見ていると、あの教室の一件の時と同じ人物とはとても思えないほど藤咲は普通の女子高生だ。
「君の言葉通り、君は誰よりも普通だね。普通が嫌いなのに、どうして?」
世間話をするように質問される。僕にとってはかなり踏み込んだ質問なのだが、藤咲の表情を見るに本当に世間話感覚なのかもしれない。
「一口に言えば、親が普通や常識に固執するタイプの人だから。それに、そんなのは世界が許さないじゃないか」
僕の意見はいたって普通ではあるものの、変えようのない事実だった。
現に藤咲の教室での行動は、普通を嫌う彼女の“主張”としては受け入れられず、普通では理解できない“奇行”として認識され、生徒指導室に連れて行かれた。
それに、世の中に蔓延っている“普通”に背けばこの世界に僕の居場所なんて__
「居場所が無くなるのが怖い?」
僕の思考に被せて藤咲の声が聞こえる。少し驚いて藤咲を見ると、彼女はなんでもないように続きを口にした。
「私の親も一緒だよ。勿論、世界からの風当たりもそれ相応にきつい。……でも」
そこまで言うと藤咲は僕の肩に手を置き、耳元で囁いた。まるで悪魔が堕落へ引きずり落とそうとするような声で。
「全部裏切るのって、普通に縛られて息を殺すよりずっと気持ちいいよ」
耳が心地のいい痺れを持つ。
言い終えた藤咲は満足したように微笑して立ち上がった。
心が、思わずこのまま彼女に連れ去られそうになる。
でも、その心と比例するように、自分を別の風景へと連れて行こうとする彼女に苛立ちを感じた。だって、腹立たしいじゃないか。諦めていた“普通じゃないこと”に、こうも簡単に希望を持たせられたんだから。
僕は藤咲から掴まされた希望から目を背け、自嘲気味の笑みをこぼしながら「君は強いんだね」と突き放すように言う。
僕は弱い。君と僕は違うんだ。誰もが君みたいになれるわけじゃないんだ。
ありったけの悪意がある発言になったと思う。
しょうもないプライドだな、と心の底から自分に毒づく。
そんな僕の抑えることを知らない悪意を感じてか、藤咲は僕に背を向けて静かな声で言った。
「そんなことないよ。私は、ただ逃げてるだけだから」
風が冷たかったせいだろうか、彼女の背中は少しだけ寂しそうに見えた。
傷つけたのだろうかと一瞬だけ良心が痛むが、よくよく考えれば最初に馴れ馴れしく話しかけてきたのはあっちなわけで。
ついでに、これがきっかけになって話しかけて来なくなるんなら願ったり叶ったりだ。とモヤモヤした気持ちに無理やり蓋をした。
……まぁ、そんな少しの罪悪感も、これから藤咲と関わることが無くなるという淡い期待も、この後全て無駄だったと思い知らされるんだけど。
時は放課後。僕ら生徒はようやく学校から解放される。
あの後の授業は、藤咲の奇行に度々驚かされることはあれども、幸いなことに一限目の数学ほどの騒動はなかった。恐らく、昼の間に教師の間で話し合ってあまり刺激しない方針にしたのだろう。藤咲も自分のやりたい事が出来ればそれでいいから、リコーダーを外に投げたり狂ったように笑ったりすることもなかった。
大体、彼女は__。
そこまで考えて、そろそろ自分の頭が回らなくなってきていることに気づく。
月曜日は一日が憂鬱そのもので、放課後になる頃には疲労感でどっと身体が重くなる。こんな日は早く帰って夕飯を食べ、風呂に入ってからさっさと寝るに限るな。
今日は本当に疲れた。正直、夕飯も要らないくらい。母に夕飯はいらないと連絡しようか、と一瞬思うが、我が家の決まりで夕飯は食べなくちゃいけないから風呂を明日の朝に回すことにする。
学校を出て暫く歩いてから、長いため息を吐く。
一応言っておくと、帰るのが面倒で出た溜め息ではない。確かにそれも面倒だが、それ以上に面倒な存在が隣にいるのだ。
「何でお前がいるんだよ……」
僕が“お前”と呼んだ相手は昼間見た時と変わらない様子でニッコリと笑って言う。
「君と私は仲間……つまり、同志でしょ? っていうことは、一緒に帰るのは不思議なことでもなんでもないよね?」
いや十分不思議なことなんだが。というより、同志ってなんだよ。とツッコミそうになるが、そんな気力もないので声に出すのはやめた。
それでも、自分の意思は伝えるべきだと判断したため必要最低限の言葉を発する。
「僕は一人で帰りたいんだけど」
「そんな! 遠慮しなくてもいいんだよ。ほらほら、短い足を止めるな少年」
こいつは僕が何か喋る度にツッコミポイントを作る天才なのか? 遠慮なんて一切しないうえに、謎の少年呼ばわりが少し癇に障る。あと、短い足って普通に悪口だからな。
「ほら、あんまりゆっくりしてたら遅くなるし、さっさと帰ろうよ」
夕日に照らされた藤咲が溶けそうなほど柔らかく笑う。あまりにも綺麗だったから、僕は思わず数秒見蕩れて固まってしまった。
……こんな流れで、こんなの見せられて、断れる方がおかしいよな。
僕は仕方ない感じをたっぷり醸し出すために大袈裟な溜息を吐き、その後で「分かったよ」と返事をして歩き出した。
__失敗した。
断れない状況だろうとなんだろうと断ればよかった……と猛烈な後悔の念に襲われる。
それと同時に、僕と藤咲は“普通が嫌い”という共通点こそ持ってはいるものの、全くタイプの違うものだと改めて確信した。
というのも、僕には急にバレエのようにつま先で歩き出したり、「これも別に普通か」と呟いたかと思えばブリッジの状態で歩いてみたりと、そんな奇行は死んでも出来ない。
ついでに言うと、そんな彼女と一緒に帰ると周囲からの視線を集めるので恥ずかしくてたまらない。
「僕、電車だから」
駅前に着いた時、僕は側転して移動していた藤咲に言うと、藤咲は嬉しそうに「私も電車」と返事した。
「え」
思わず声が出る。当たり前だが、僕はようやく彼女から離れられると期待していた。
「ん? だから、私も電車通学だよ」
最悪だ。本日何度目かの軽い絶望を味わう。
今すぐ離れたかったが、徒歩で家まで帰るには遠すぎるので、仕方なく藤咲と電車に乗る。
電車では何をするのだろうかとヒヤヒヤしていたが、意外にも彼女は電車に乗るなりすぐにウトウトしだして、三分も経ってないうちに眠りについた。
藤咲が普通の行動すると安心するなと思ったが、華の女子高生が今日話したばかりの男の肩にこうして無防備に頭を預けるというのは、実は普通じゃないんじゃ……と気づき、思わず苦笑いがこぼれた。
肩に乗っかっている藤咲が気になって、何の気なしに横目で見てみる。
藤咲は他の女子高生のように髪を巻いたわけでも、軽い化粧もしているわけでもないのに綺麗に見える自然な美しさがあった。
今は眠っていて見ることは叶わないが、生命的な力強さが宿った瞳も彼女の美しさの一つだろう。
あぁ、でも……。
藤咲の髪に所々ある寝癖を見て、いくら綺麗だとしても髪くらいは梳かした方がいいかもしれないな、と少し笑う。
髪質自体は僕が見ても分かるほど綺麗だから、きっとしっかり手入れしたら今とは別の意味で注目を浴びることになるだろう。まぁ、本人は望まないと思うけど。
考えて、肩を竦める。
夕日のおかげか、穏やかな空気が漂う。
そう言えば、今日知り合ったばかりの藤咲に対してこんな風に思う僕も、大概変なのかもしれない。藤咲に影響されたのかな。
それから少しの間、優しい時間が流れた。
「次は〇〇駅、〇〇駅」と、車掌の声がする。その声を聞いた瞬間、藤咲は飛び起きた。
「私ここで降りるから。またね」
そう言い、軽く手を振って側転しながら電車を降りていく彼女を、夢が覚めたような気持ちでただただ呆然と見送ることしか出来なかった。
電車が走り出してから数十秒経ったくらいで、ようやくのんびりと頭が働き始めていく。
……側転しながら帰るなんて、異常だよな。
さっきの藤咲を思い出して苦笑いする。僕には到底出来そうにない。
さっき、少しだけ藤咲を“普通の女子高生”だと思ったせいだろうか。改めて彼女と僕が違う場所にいるということを認識して、何故だか気分が沈む。
少しの間、鬱々とした気分に浸っていると僕の降りるべき駅にもうすぐ着くというアナウンスが鳴る。
一瞬、このままずっと電車に乗っていようかな、なんて小さい子供が拗ねた時の反抗心のような気持ちを抱いたが、そんな事をする勇気はやっぱり僕にはなかった。
結局、いつも通り普通に電車を降りる。
やっぱり、藤咲は強いと思う。
駅から家に着くまでの間、負け犬のような気持ちでそんなことを考える。
藤咲は自分の行動について「逃げてるだけ」と言ったが、僕には逃げることすら出来ない。
要するに、逃げるのにも強さが必要なのだ。それに気づかないほど当たり前に強さを持っていて、それをまるで弱さのように言える彼女のことを羨ましいと思う反面、妬ましく、劣等感を感じてしまう。
「あー、あー、あー」
そう言って、思考を放棄するために頭をぶんぶん振る。
これ以上考えるのはやめよう。と、自分の心の影を誤魔化すように家の扉を開けた。
「あら、蒼。おかえりなさい」
いつもの様に、母が微笑みながら僕の名前を呼んで出迎えてくれる。
「ただいま」
母に合わせて微笑する。
今朝鏡の前で確認したように、今この瞬間から僕は優しく笑う男子高校生の姿をしているのだろう。
「もう夕飯出来てるから、早く着替えてらっしゃい」
いつもより早いなと思ったが、藤咲と帰ったせいで自分の帰宅時間が遅れていたことに気づく。
「うん、分かった」
返事をし、すぐに二階にある自分の部屋に入って着替える。
さっきハンバーグの匂いがしたから今日の夕飯はハンバーグなのだろう。
そんなくだらない確信に近い予想をしながらリビングに降りると、やはりハンバーグが並べられていた。
「それじゃあ、食べましょうか」
僕を確認し、母がそう促すので頷いて一緒にいただきますを言う。
「美味しいね」
いつものように、一口目をしっかり味わってから料理の感想を言う。
「そう、よかったわ。今日は学校どうだった?」
「普通だよ。いつも通り」
本当はとんでもない事ばかり起こって大変だったけどね。と思いながらも、それを説明するのは骨が折れるため、普通に返答する。
「それは何よりだわ」
他愛ないテンプレのような会話が続く中、さっきまで可愛らしい動物の報道をしていたニュースキャスターが、殺人事件について報道しだした。ニュースキャスターの声の雰囲気が変わり、僕も母も思わず耳を傾けてしまう。
どうやら、アパートで夫が妻を殺したらしい。何ヶ所も刺傷があって、目も当てられないような状態だったとのことだ。
ニュースの内容を一通り把握した母が口を開く。
「人殺しなんて物騒ね。それに、結婚までした相手を殺すなんて異常だわ」
そうだね。と適当に返事しながら、警察に連行されていく殺人犯を見る。
彼の目は光を一切遮断したように黒く、虚ろであったが、どうしてか僕を強く惹き付けた。あえて理由を挙げるとするのなら、彼の目の奥に何かがあるような気がしたからだろうか。
彼にも何か事情があったのだろう。
よくあるパターンで、何かに耐えられなくなったからそれを伝えるための主張として行われたのが殺人だった……とか。
でも残念なことに、彼の殺人という主張の仕方は、普通では許されない“犯罪”という部類であり、それゆえに彼の主張は掻き消され、非難の声ばかりを受けることとなってしまった。
もし、彼が誰かに頼る形で普通に声を上げていたのなら、世界は彼を受け入れ慰めてくれたのだろうか。何もかもが上手くいったのだろうか。
おそらくそんな事もないんだろうな、とすぐに浮かんだ可能性を否定する。
きっと、気のせいだとか、そのくらい耐えろとか言われて終わるんだろう。もしかすると人殺しに至る前に誰かを頼ったのかもしれない。
残酷なことに、世界は普通に生きない人間を嫌い排除しようとするが、必ずしも普通に生きる人間に対して優しいというわけでもない。
もし、彼が“普通”の枠組みに収まっていたとしても、その“普通”は僕達とは違ったのかもしれない。簡単に言えば、育った環境によって元が歪んで形成され、人を殺すことを普通にしてしまったとか。
僕らの言う“普通”なんて環境や他人によっていとも簡単に形を変えられてしまう。
それに加えて人間は自分の“普通”を自分の意思で変えるのは極めて難しい。
だから、この予想が当たってたら……と思っただけでゾッとした。
「蒼、顔色が悪いけど何かあったの?」
いつの間にか黙って考え込んでしまっていた僕は、母の言葉で我に返る。
「大丈夫。少し考え事してただけだよ」
笑って答える。
「そう? あまり思い詰めないで、何かあったら頼りなさいね」
その言葉を聞き終わると同時に食べ終わり、「ご馳走様」とだけ言って逃げるように自分の部屋に行く。もう今日はこれ以上笑えない気がした。
……僕は母に思ったことを言わない。いや、正確には言えなくなったんだ。
母は自分の思う普通に他人が反することがどうしても許せない人で、例えばさっきの報道であった事件について考えていたことを言えば「どうしてそんな事を考えるの? 普通じゃないわ」と言われ、もっと酷ければ精神を病んでいるのだ、とカウンセリングまで受けさせられるだろう。
そんな面倒なことは御免だから、僕はいつからか口を閉ざし、普通への嫌悪感にも蓋をして、誰よりも普通でいることに努めた。
誰も“僕”を知らない。
それで良かった。“僕”より“普通”でいる方が生きやすかったから。
そんな時に彼女が、藤咲が現れたから、今日は僕にしては珍しく舞い上がってしまったんだ。
僕はどうしたって彼女のようにはなれない。今日だけで何度も思ったし、思い知らされた。僕もこれまで通り、“僕”ではなく“普通”で生きていくつもりだ。この醜い劣等感や嫉妬心も押し殺していよう。
だからその代わりに、誰よりも普通に抗っている彼女を見ていよう。
明日は何をしてくれるのだろうか。
この日、僕は久しぶりに少しの希望を抱きながら眠りにつくことができた。
それから藤咲との日々は“普通”と随分かけ離れたものになった。
教室でダンスを踊ったかと思えば、サバイバルゲーム(僕を巻き込んで)をしてみたりと、とにかく騒がしく異常だった。しまいには電車で「大音量で音楽を聴くなんて普通もいいところ!」と言ったかと思えば、アダルトビデオを大音量で聴きだして、あれは恥ずかしいにも程があった。その後、僕まで一緒に車掌に怒られて散々だった。
そんな藤咲ともまともに会話がすることが多々あった。昼休み、ご飯を食べながらとか。
その成果として彼女が犯罪に手を染める気がないという事を知ったんだけど、藤咲曰く、「捕まれば少年院で過ごすだけじゃん。普通に」とのことらしい。この時は理由が藤咲らしくて笑った。
普段笑わない僕が大笑いしたせいか、藤咲が目を丸くして驚いていた。僕自身も自分がこんなに笑える人間ということを知らなかったから、仕方ないけど、鳩が豆鉄砲をくらったような顔が強く印象に残っている。
会話を重ねてお互いにある程度知った仲になってきたということもあってか、騒がしいし巻き込まれて面倒なことも多くあったにも関わらず、自分の嫌いな“普通”をちょっとやり過ぎなんじゃないかと思うくらい生き生きと壊してくれる彼女を見るのが、自分の出来ないことを代わりにやってくれているようで好きだった。
ついでに言うと、そんな彼女と過ごす日々を悪くないと思っている自分もいた。太陽のように明るく強い彼女の傍にいると、それに影響されてか僕自身も少しだけ明るい気分になれたんだ。
だから、日を追う毎に強く心を蝕む嫉妬心も、劣等感も、これからの君との日々を思えば我慢できた。
僕にとっての非日常が何週間か続いたある日、藤咲が初めて学校を休んだ。
彼女は自分の運動能力を高めていたり、勉強を狂ったようにしていたりと、“普通”を壊すための基礎を固めている真面目な一面がある人だから、正直意外だった。まぁ人間、どんなに気をつけても体調を崩すこともあるよな。と納得しつつも未だに信じきれてない自分がいたくらいに。
藤咲のいない授業はまるで元の色を取り戻すかのように淡々と進んでいった。誰もが最初は彼女の不在に驚くものの、すぐに慣れて“普通”を作っていく。彼女の近くに居すぎたせいなのか、僕はそんな光景が気持ち悪く感じられた。
僕には友達のような存在がいなかったから分からなかったが、もしかすると友達が学校を休んだ時はこういう気持ちになるのかもしれない。
昼休み、少しの物足りなさを抱えながら屋上に行くと……。
「……藤咲?」
彼女がいた。
「あぁ、蒼くん」
僕を見つめて藤咲は笑った。これまで見たことない、辛そうな顔で。
藤咲の意外な表情に驚いて固まる僕を放って「こんな顔、普通に辛そうだよね。そう、普通。こんなの普通……」普通じゃだめなのに。と吐くように零す。
どう見てもいつもの藤咲と違う。
でも、一体僕はどう声を掛ければいいのだろうか。どうしたの? 大丈夫? いや、どの言葉もこの状況には相応しくないような気がする。
「私たちは普通が大嫌い」
ポツリと、僕がかける言葉を決めあぐねている最中に藤咲が呟いた。
「でも、でもね。普通を嫌うことなんて、普通なんだよ」
それが藤咲の核心なのだと、本能的に悟る。
「どれだけ普通から逃れようとしても、普通はいつも傍にいる。何をしてもきっとそれは誰かの普通になってしまうんだ。むしろ逃げようとすればするほど普通は存在感を大きくして、私を呑み込もうとする」
逃げたって無駄なんだ。と、藤咲は僕のなしえなかった行為をあっさり否定した。
彼女の言いたいことは十分理解しているつもりだ。平均が普通だと思っていても、誰かにとってはそれ以下が普通だったり、それ以上が普通だったりする。人によって普通は違うわけで、それを全て回避して裏切ることは通常出来ない。
「世界に呑み込まれそうで、毎日辛いんだ」
俯いて苦しそうに笑う藤咲。
僕の目には、藤咲はいつも普通から逃げながらも人生を楽しんでいるように見えていた。 いつも笑顔で僕を引っ張ってくれていたから。
だから僕は、今の藤咲を許すことが出来なかった。
何だかんだ楽しんでるくせに、僕より強いくせに、自由なくせに、そんなお前不幸そうな顔するんだよ。
藤咲に会って以降、ずっと感じていた彼女への劣等感や嫉妬心が醜く、抑えきれないほど膨れ上がるのを感じる。
だから魔が差したのだろう。悪意をぶつけてやりたくなったんだ、あの日のように。
「__普通なんてどこにもないよ」
風が吹く。妙に暖かくて、気持ち悪い風。
「普通なんてどこにもない?」
聞き返す彼女の声は震えている。
「そんなわけないよ。そんなものは綺麗事で、この世界に飲み込まれた“普通”の人間が言う言葉だ」
顔を上げた藤咲は力が抜けたように笑っていた。
その表情からは『君だけは、同じだと思ってたのに。お前も、そうなのか』と、悲痛な叫び声が聞こえてくるようだ。
いつかニュースで見た殺人犯のような黒くて絶望した瞳が僕の言葉を待っている。
「……僕は」
口を開く。
まるで、罪悪感から逃れるように目を逸らして。
「僕は、誰よりも普通だよ」
言い捨てた。
「そっか……」
藤咲の顔は見れない。見ない。
「そうだね」
今見てしまえば事の責任が全て自分のものになってしまう気がした。
「蒼は、普通だね」
ごめんね。と藤咲は謝った。
足音が遠くなっていく。
「待って」
そう言って顔を上げた時、既に藤咲の姿は無かった。彼女が目の前から呆気なく消えたことが、何故か虚しい。
もしかすると僕は身勝手にも期待していたのかもしれない。「なんちゃって」と笑ってまた普通を壊していってくれる彼女の姿を。僕のどうしようもなく醜い感情を救ってくれるのを。
でも、これはこれで、よかったのかもしれない。
放課後付きまとわれずに済むし、ただ前のように普通に戻ればいいだけなのだから。強いて僕がすることと言えば、普通じゃない藤咲を遠くから眺めるクラスメイトAになることくらいだろう。
きっと最初から、これが最適解だったんだ。
どうせ遅かれ早かれ、僕は藤咲を傷つけた。むしろ早めに離れることが出来てよかった。
うん。これでよかったんだ。
その日は当然、放課後に藤咲から声をかけられる事もなく、普通に帰って普通にその日を終えた。
僕の思った通り、僕はその日を境に藤咲とは関わらず、普通の道に戻って、藤咲の方も変わらず問題行動を繰り返していた。
ただ、予想外の変化が一つあって、今までは藤咲を憧れの対象として見ていたのを“ただの異常なクラスメイト”として見るようになったからか、はたまたあの屋上で彼女の苦痛を耳にしたからか、これまで完全自由で楽しく生きていると思っていた彼女が苦しそうで、危ういものに見える時が多々あった。
もしかすると元からそうだったのだろうか。
屋上で昼ご飯を食べながら、ふと初めて話したことを思い出す。確か、屋上で話したんだっけ。
あの日も、僕は藤咲に悪意をぶつけた。
その時寂しそうに思えた背中は、藤咲の独りで普通から逃げる寂しさ、逃げても逃げられない辛さを物語っていたのだろうか。
それでも僕に付きまとったのは、普通が嫌いな僕という仲間を見つけて、少しだけ孤独感から救われていたからなのかもしれない。
だから、藤咲はあの日、こちらを向き、苦痛の悲鳴を上げながら唯一の仲間である僕に助けを求めてきたんだ。ずっと独りで抱えていた苦しみを。
でも、それなのに、僕は彼女がかつて持っていたナイフが落ちた途端にそのナイフを蹴って、自分のポケットに隠し持っていたカッターで彼女を刺したのだ。己の欲に従い、深く、深く。
最低だな、と自己嫌悪の念に駆られる。自分はなんてことをしたのだろう。しかも気づくのが遅すぎる。
既に、藤咲と最後に話した日から一ヶ月が経っていたのだ。今更、彼女が自分の話を聞いてくれるとは思えない。
にも関わらず、人は自分勝手なもので、心から自分の非を認めると相手に謝りたくなるのだ。
だから僕は今、藤咲に謝罪の意を伝えたくて仕方なかった。そして、それよりも強く彼女を“普通”の呪縛から解放したい思いがあった。おそらく、先程藤咲の気持ちを考えたからだろう。
どうすれば彼女を、自分を救えるかは知っている。ずっと前から綺麗事として何度も教えられていた。
それは、ずっと前から何度も僕や藤咲が思い知っていたこと、目を逸らしていたことだ。
彼女だけを戦わせるのは、もうやめにしよう。
この気持ちを今日伝えるべく、僕は放課後に屋上へ来るように書いた手紙を藤咲の机の上に置いた。
彼女が来るまで何時間でも、何日でも待つ覚悟で。
「普通から無様に逃げてる私を笑うためにわざわざ呼んだの?」
屋上に行くと意外にも藤咲はもう来ていて、僕が来るなり毒を吐いた。
「私が見苦しくて惨めに見えるんでしょ」
「違うよ」
誤解されないよう強めに否定するが、藤咲は辛そうに僕を見つめた。あの日僕が刺した心の傷を庇うように。
「無様でも、私は普通が嫌。誰かの当たり前に沿って生きたくないの。そんなつまらない人生を送るくらいなら、死んだ方がまし」
無意味でもなんでも逃げ続けるしかないの。と呟く藤咲の声は震えていた。
言いたいことを言ったのか黙ってしまった藤咲に、今度は僕が口を開く。
「藤咲の気持ちは理解してるし、僕も同じような気持ちを持ってると思う。でもね、それでも普通なんてものはどこにもないんだよ」
僕がそう言うと、藤咲は泣きそうな顔をした。きっとこの前も、最初に話した時もそんな顔をしていたのだろう。
でも、今度はこのままで終わらせない。
「僕も含め、みんなが“普通”だと思い込んでいるものは個人の“価値観”で、本来、他人に強要するようなものじゃない」
誰が迷惑と言おうが常識だと怒ろうが、僕らは僕らの価値観で生きていけばいいさ。そう言った僕は笑っていた。
あの日、君がいとも簡単に僕に違う世界を見せたように、僕は笑顔のまま言葉を続ける。
「だから、藤咲は藤咲の価値観に従えばいいんだよ。誰かの普通なんて無視して、自分の善悪に従えば。それが藤咲という人間なんだから」
そうした方が気持ちいいよ。といつか彼女がしたように耳元で囁く。
いい加減“普通”に振り回されるのは飽きただろう?そう言い終わってから藤咲の顔を見ると、藤咲はあの日の僕のような顔をしていた。
ずっと忘れていた小さな希望のようなものを見つけたような、そんな顔。
そうだ。そのままその希望を掴んでしまえばいい。そう強く願ったが、それでも藤咲は自信が無さそうに俯いて言った。
「でも、自分の価値観なんて、いきなり言われても分からないよ……」
当然だろう。藤咲はこれまで“普通”から離れた言動をすることだけに重きを置いて生きてきた。自分の価値観でやりたい事をしろと急に丸投げされても分からないだろう。
だから僕も一緒に戦うんだ。
「これからゆっくり分かっていけばいいよ」
優しく言う。
聞く人が聞けば、綺麗事に聞こえるかもしれない。それでも、この覚悟は紛れもなく本物だった。
「丁度、僕も自分の価値観をこれからゆっくり探していくんだ。仲間だね」
手を差し出す。
大丈夫。もう独りになんてしない。してたまるか。
「うん。ありがとう……」
藤咲が僕の手を握る。
「お礼を言うのはこっちの方だよ。藤咲が居なきゃ僕も気づけなかった。本当にありがとう。藤咲のこと、これまで何度も傷つけて、ごめん」
そう言うと、藤咲は僕と握手している反対の手で僕の額にデコピンした。
「ほんとに! 辛かったんだから」
「ご、ごめん」
少しの沈黙。
やがて、耐えきれなくなった藤咲がぷっと吹き出してそこから堰を切ったように笑い始めた。
つられて僕も笑う。
今日の夕日はいつもより暖かく、優しかった。
あれから一週間、藤咲は学校に来なかった。
藤咲は藤咲なりに受け止める時間が必要だと分かっていたから、不安には思わなかった。何なら一ヶ月くらいは学校に来ないと思ってさえいた。
「おはよ、一週間ぶりだね」
藤咲に話しかける。
「おはよ。あんまり長く休むと蒼が寂しがると思っちゃって」
冗談めかしたように言う藤咲は、まるで憑き物が落ちたように明るく笑っている。
「今日からまたよろしくね。同志さん」
藤咲が握手しようと手を差し出す。
「ああ、こちらこそよろしく」
僕は彼女の手を握った。
見つめ合った数秒間、優しい空気が流れる。それが何だか気恥ずかしくてお互いに目を逸らしたが、話したいことがあったのか、藤咲が思い出したように口を開く。
「あ、ところでこのグミ、コンビニで買ったんだけどいる?」
藤咲が袋から一つ取り出して差し出してくるので、
「ん、ありがとう。貰うよ」
と何も考えずに受け取り、藤咲が持っている袋を見て味の表記を確認する。
「…………ゴキブリ味?」
とんでもない味だ。一部の人はこの表記を見ただけで倒れそう。
「普通から逃げてる時に出会った味で、これがクセになるんだよね〜」
そう言いながら躊躇無くゴキブリ味のグミを口に入れる藤咲。どうやら変な物に挑戦する機会が多かった彼女には変わった好みが出来ているらしい。
藤咲が言うなら……と意を決して食べる。
「あ、美味しい」
思わず声が出る。
意外にもゴキブリ味は美味しかった。いや、正確には美味しいわけではないんだけど、絶妙な不味さがクセになる。
「でしょー?」
と、自慢げに言いながらグミを食べ続ける藤咲を見ながら、これから先、僕も変な物を好きになる機会が増えそうだな。と苦笑いする。
それも悪くないと思う辺り、案外僕も普通のフリをしていた変人に過ぎなかったのだろう。
「ありがとうな。藤咲」
「え? そんなに美味しかった?」
この後、調子に乗った藤咲にゴミ味だの靴下味だののグミを食べさせられ、あまりの不味さに気絶したと言うのはまた別の話である。
お読みいただき、ありがとうございます。
初めて短編らしいものを書いたので、拙い部分は多くあると思いますが、少しでもいいと思っていただければ幸いです。
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