水の星へ愛をこめて(3)
紺色がかった空に、小さな光点が見える。ごく淡く、頼りない輝きだ。
スマホを取り出し、星空アプリで改めて確認する。
方角と高度は間違いない。もう一度双眼鏡を覗き込む。
夕方の空の星は飛行機と見間違えやすい。だがしばらく凝視しても移動したり点滅したりする様子はない。ちなみに「夕焼け空にUFOや火球が見えたよ!」という人が結構いるが、99パーセントそれは単なる飛行機か星だ。
「どうぞ」
先輩に双眼鏡を手渡した。
「見えるの?どこどこ」
「えっとあの橋の右の塔から上にずっと……あ、もうちょっと左かも」
他人に星の場所を指示するのは難しい。試行錯誤しているうちに、先輩の顔が僕の目の前にあった。香水か彼女自身の香りか、鼻孔をくすぐる。
まずい。
反射的に離れたが、先輩はというと探すのに夢中のようで気がついていないようだ。
「あーっ、あったあった!」
双眼鏡を覗き込んだまま、先輩は喜びの声を上げた。
僕は思わず周囲を見回した。やっぱり誰かに見られてないだろうか。
「小さくて……結構赤い色してる?」
「地平線に近いからですね。夕焼けと同じで、星の光も地球の厚い大気を通ってくるから。あと揺らめいて見えるのもそのせいですよ。川底の石がゆらゆら見えるのと同じで」
「そっかー。そうなのかぁ」
何度もうんうんと頷く先輩。双眼鏡を下ろすと、西の空を改めて眺めた。
一度位置がわかれば、肉眼でもぼんやりと見えてくる。水星の明るさは0等級から-1等級。つまり1等星の約5倍明るいのだが、薄明の中では目を凝らさないと見るのは難しい。
「面白いね」
え?、と僕は聞き返した。
「水の星なんて名前をつけられたくせに、水は全く無いんでしょ?でも水底に沈んだみたいに見えて……」
そうかもしれない。世の中にはシンクロニシティというものがある。天王星と名付けられた惑星が空のような鮮やかな水色で、海王星と名付けられた惑星が海原のような深い青色なのは全くの偶然だ。水星という名を冠することになったのも、案外人類の意思を超越した偶然性が働いた結果なのかもしれない。
「思ったより小さくて、ガッカリしてません?」
今見える彗星は小さくてつまらないと部室前で先輩に言ったが、水星もひと目で見て分かるほど輝ける星ではないし、内心は失望しているのではないかと不安に感じた。
だが彼女は首を振った。
「ううん、見れてよかった。たぶん今日誘われなかったら、一生まともに見る機会なかっただろうし」
「良かった――愛好家以外からはほとんど見向きもされないですけど、見る価値のある星だと思うんです」
先輩の気分を損なわないための言葉ではなく、これは僕の本心だった。
「500年前に地動説を唱えたコペルニクスですら、死の床で『私は水星という星を生涯見ることができなかった』と嘆いたなんて逸話があるくらいなんですよ」
「なにげに凄いことじゃん。貴重な体験をさせてもらったんだね」
がたんがたん――と音が響く。振り向くと列車が鉄橋を渡っていた。特急らしく、3両の連結車両が警笛を鳴らして疾走していく。1両のワンマン列車が大半のこの路線では、3両でも大編成だ。
列車が向かう南の果てに目を向けると、この街のシンボルである山の頂に建てられた送信所の鉄塔に赤色灯が灯っていた。
さて、と言って先輩は立ち上がった。
「帰ろっか」