表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
彼女の視る宇宙(そら)  作者: 藍原圭
第四章
62/65

月下美人(5)

 僕は自転車をその場に倒すと海を目指して無我夢中で走った。広場から階段を飛び降り、砂浜の上に着地する。

 砂に足を取られる。幾度も転びそうになる。アキレス腱が悲鳴を上げる。だが構わず、無理やり身体を走らせる。

 近づくと明らかに分かった。紛れもなく、探していた藤崎先輩だった。


「先輩――藤崎先輩っ!」

 思い切り叫ぶが、風と波の音にかき消されてしまう。その間にも彼女は歩みを止めず、既に腰まで海につかっている。

 僕は海に足を踏み入れ、寄せる波をかきわけ彼女の元へ向かう。


「望さん!」

 僕は初めて、彼女の名前ファーストネームを呼んだ。

「透也……くん?」

 か細い声を発して振り向いた彼女を抱きしめた。外気と水飛沫で、身体は芯から冷え切っていた。

 彼女の身体はいたるところ擦り切れている。あらゆるものにぶつかり、転びながらここまで来たに違いない。


「なんで……どうして」

 虚ろな表情を浮かべて彼女が呟く。

「どうしてもこうしても、無いです。身体が冷えますよ――風邪引きます。帰りましょう」

「私のこと、誰から」

「お父さんから、聞きました。それで探しに来たんです」

「目のこと……知ってるんだね」

「……はい」

 彼女が今何をしようとしていたのか……それは敢えて聞かなかった。


「視覚障害って――全盲ってこんなに辛いんだね。すっごく甘く見てた。日が経つごとに、ただ事じゃ無いことを思い知らされた」

 僕の腕の中で先輩が震えている。それは寒さのせいなのか、それとも――

「真ん中にぽっかり穴があいてて……辛うじて視界の縁で光や色を認識できるくらい。月も昇ってることだけはぼんやりと分かる。でも文字も絵も全く分からない」

「先輩……」


「身の回りのことがこんなに出来ないなんてね。服も選べないし、相手の表情も分からない。あと、車より自転車がすごく危ないの。気がつかない間に近づいてきて。何度もぶつかって……外で物を落としたときもどこにあるか分からなくて、必死に足下探ったら何か汚い物を触ったり……」

 人間は情報の8割を視覚からに頼っているとも言われる。それがほぼ失われた彼女の苦しみは如何ほどか。


「眠っている間、夢を見るの。色のついた、鮮やかな夢。一緒に見た美術館の絵も、宇宙ステーションも、星も、そして透也くんの顔も。みんなはっきり出てくる」

 先輩の瞳に涙が浮かんでいる。光が失われてしまった瞳に。

「それが朝、目を覚ますと全部消えてる」

 嗚咽が漏れる。僕はただ、彼女を抱きしめる腕に力を込めた。

「目が覚めたのに、目の前に、何もない」


 死んで花実が咲くものか――人は簡単にそう言う。だが、彼らはその背景をどこまで知っているのだろう。未だに自殺の原因の1位は病気や健康によるものなのだ。

 4月は残酷な月。そんなことを言ったのはどこの詩人だったろうか。先輩にとって、本当に人生で最も残酷な月になってしまった。


「部活を――ソフトテニスを止めたのは」

 嗚咽交じりのまま、彼女が呟く。

「病気そのものより、勝てなくなって失望されるのが怖かったから。プレッシャーから逃げたの」

 親、同級生、後輩、教師、マスコミ。あらゆる人からの期待と羨望の視線。それはある意味、彼女が最も欲しくなかったものなのかもしれない。

「私とこれ以上付き合っても、迷惑になるだけだよ。両目が見えないだけじゃない。こんな風にひたすら打たれ弱くて。最後は死ぬことを選んでしまう人間だから」


「迷惑だから――弱いから、生きてちゃいけないんですか」

 僕も涙声になるのを止められなかった。

 強い人間、弱い人間、それは何をもって決められるというのか。己の欲するがままに行動し、それを糺されても傲然としている人間はある意味で強い人間だろう。そういう人種は世間に山ほどいる。彼女の根も葉もない噂話をばら撒いていた上級生連中のように。

 だが、そんな輩しか生きてはいけないというのなら、この世に救いが無さすぎるではないか。


「アルは……あいつは」

 雪の舞う極寒の日に、彼女と2人で拾った白い子猫。青色と金色の眼をしたか弱い命。

「片耳が、全く聞こえないんです。僕も知らなかったんですが、白猫は生まれつき聴覚障害を持つことが多いんだそうです。遺伝子の影響で、特にオッドアイである青色の目の側の耳が聞こえにくくなると」

「アルくんの、耳が……?」


 先日、動物病院に再び連れて行った際にそう診断された。どこか鈍感に感じたのは、性格のせいだけではなかったのだ。

「あの日、先輩に拾われなかったら……アルは確実に死んでました。野生動物で、感覚器に障害があるなんて致命的ですから」

 先輩の嗚咽が大きくなる。僕も涙が零れる。

「先輩は救ってくれました。アルの命を……それなのに先輩が死んじゃったら――アルの立場がないじゃないですか」


 僕は目の前の先輩だけでなく、海に向かって――否、この世界そのものに向かって叫んだ。

「僕がついてます。誰が何と言おうが、望さんの側にいます」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ