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彼女の視る宇宙(そら)  作者: 藍原圭
第四章
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サイレント・ヴォイス(4)

「急性……緑内障?」

 緑内障――それも目の病気であることは知っている。だが――

 池田先生は、私は専門外ですが、と前置きをした上で説明を始めた。


「緑内障といっても様々なタイプの病型があるんです。通常、緑内障は自覚症状がなく徐々に進行するものが大半なんですが、中には一晩で一気に失明にまで至ってしまうものがあって、それが急性緑内障発作です」

 一晩で、失明。僕は全身が粟立つのを感じた。


「眼の中には、眼圧を保ち、栄養補給もする房水ぼうすいという液体で満たされているんですが、その房水は、角膜と虹彩の間にある隅角ぐうかくと呼ばれる部分を通って排出されています。急性緑内障では、隅角がふさがることで眼圧が急上昇し、激しい目の痛みや頭痛、吐き気、目の充血などを起こすんです。この頭痛や吐き気という症状だけで内科を訪れる人が多いんです」


「えーと、つまりは」

 頭が混乱して理解が追い付かない。

「眼球をゴムボールに例えるなら、房水が空気にあたります。空気の入れ過ぎで破裂しそうな程に膨らんでしまった状態が、今の藤崎さんの目です。これにより視神経に圧力がかかり、視神経を傷つけてしまう」

「でも、そもそも緑内障って年配の人がなる病気じゃないんですか」

 聞きかじりだが、少なくとも身近な人間で若くして緑内障にかかったという話は聞いたことがない。


「確かに、緑内障は中高年の方が大半です。この急性緑内障にしても中高年の遠視の女性に多い病気ですね。若年層、それも10代となると極めて稀です。私も今まで聞いたことがない」

「なんで……どうして……先輩が」

 生まれながらにして将来の失明という運命を既に先輩は背負っている。この上まだ追い打ちをかけるというのか。


「網膜色素変性症の方は、緑内障や白内障など他の眼病を併発する可能性が高いという臨床データを見たことがあります。といっても、急性緑内障を患うなんて変性症の患者の1パーセントもいないでしょうが……」

 数千人に一人という先天性の病を背負って生まれ、そのなかで更に1パーセント未満の病に侵された。もはや不運という言葉を使う気にもならない。一体先輩にどれだけ試練を与える気なのだろう。


「あの、治療法は」

 からからに乾いた喉で、辛うじて声を絞り出した。

「一般的にはレーザー光線を使って虹彩に小さな孔をあけて、房水の流れるバイパスをつくります。そうして隅角を広げて眼圧を下げることになります」

「そうすれば、治るんですか?」


 先生は顔をしかめた。

「治ると言ってよいかどうか……どれだけ視神経が生きているかによりますね」

「え?」

 言っている意味がよく分からず、僕は聞き返した。

「これ以上、眼圧で視神経にダメージを負わないようにして、視野障害の進行を食い止めることしかできないんです」


「もし……視神経の大半が既にやられてしまったら、どうなるんですか」

「今の医学では死んでしまった視神経を回復することは不可能です。一度失われた視野は二度と取り戻すことはできません」

 二度と取り戻せない。つまり、二度と見ることができないということだ。不可逆の喪失。

「本当に、手はないんですか」

 僕は声を震わせながら聞いた。


「iPS細胞って聞いたことあるでしょう。人工網膜など、再生医療の研究は各所で行われています。ただ、まだまだ研究途上です」

 研究途上。要するに、治療の手立てにはならないということだ。

「幸い、今回は片目の発作のようです。もし視野を失ってしまったのなら、もう片方の目が悪くならないように気をつけるしかありません」

 それはまるで処刑宣告のように聞こえた。

 


 鞆浦先生が到着し、間もなくして先輩の両親も駆けつけた。

 夜遅くまで遊んでいたわけではないので、その点は問題にはなりそうでは無かったが、何しろ年頃の一人娘が男と出かけた矢先での救急搬送。

 激高こそしなかったものの、延々と続く問い詰めに、僕はただ起こった事実を訥々と喋ることしかできなかった。


 鞆浦先生がその場にいて、間に入ってくれたのはこれ以上ない救いだった。もし僕だけだったらどうなったか想像もしたくない。

 それでも、別れ際の彼らの顔は――形容しがたい複雑な表情をしていた。

 先生が車で自宅まで送ってくれる中、僕はその顔が常に脳裏に張り付き、絶望的な気分で何一つ先生の言葉に応じられなかった。


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