サイレント・ヴォイス(2)
時間を忘れるほど話し続けたせいで、気が付くと夕方だった。
少しでも先輩と一緒にいたいと思い、最寄り駅まで送ることを伝えると先輩は嬉しそうに頷いてくれた。
川辺の歩道を2人でゆっくりと歩く。鮮やかな夕陽が川面に反射している。初めて河川敷で一緒に水星を見たあの日も、こんな夕暮れだっただろうか。あの時はまさか、先輩が僕のパートナーになるなんて思いもしなかった。
ふと――先輩がしきりに顔に手をやっているのが気になった。
「先輩、どうかしましたか」
「うん。ちょっと目のかすみと痛みがね……最近特にひどくて」
先輩が両手で顔を覆う。
「少し、座って休みましょう」
幸い近くにベンチがある。暗くなってきたとはいえ、無理してまで急ぐほどの時刻ではない。
だが先輩は僕の言葉が聞こえているのかいないのか、顔を覆ったまま動かない。
「あの――先輩?」
「ごめん……ちょっと」
消え入るような声で呟くと、先輩はその場にうずくまった。
「大丈夫ですか?気分が……悪いんですか?」
僕は慌てて尋ねた。朝から顔色は良くなかったと思うが、やはり元々体調を崩していて無理が祟ったのだろうか。だとしたら、途中で切り上げるべきだったか。僕は自分の迂闊さを呪った。
「気分というより――頭が、すごく痛くて」
頭痛――そういえば以前に電話した時もそう言っていた気がする。ただの受験勉強の疲れやストレスかと思っていたので、今日1日外で遊べば回復すると勝手に思っていたのだが、むしろ悪化してしまったのではないか。
僕もしゃがみ込んで先輩の顔を覗き込むと、先輩の顔は顔面蒼白だった。普段から肌の白い先輩だが、もはや青白いといった形容が正しい程の顔色になっている。
そのとき――
「うっ……あ」
先輩は咄嗟に出したハンカチで口元を抑えた。吐き気をこらえている。かと思うと、その場に倒れこんだ。咳き込むと、ハンカチの隅から吐瀉物が零れた。
「先輩っ!」
尋常な状態ではない。頭痛と嘔吐――食中毒か。いや激しい頭痛ということは、消化器の疾患ではなくまさか脳出血の類ではないのか。乏しい知識で思い当たる症状はそれくらいしかない。それとも先輩に何か持病があってその発作なのだろうか。それすら分からない。
いずれにせよ、自分の手に負える状況ではない。思わず周囲に目をやるが、近くに通りすがりの人は見当たらない。すぐに救急車を呼ばなければ。
救急車――呼ぶのは初めてだ。110番も含めて、緊急通報をした経験など全くない。
震える手でスマホを取り出す。無意識にチャットアプリを開いてしまい、慌てて閉じた。通報――そもそもスマホから通報できるのか?119番は、そのまま番号を押せば繋がるのか?
電話番号案内ダイヤルに「110番って何番ですか」という通話があったという笑い話をバラエティで聞いた記憶があるが――それは誇張ではないことを思い知った。
なんとか119、で発信すると、スマホが振動して上部に何やらメッセージが表示され、思わず取り落としそうになった。それは位置情報通知が行われた証だったのだが――動揺していた僕は気が付きようがなかった。
「119番消防署です。火事ですか、救急ですか?」
通話口の先で、男性オペレーターが淡泊に応答する。実際はそうでもなかったのだろうが、僕にはひどく無機質に聞こえた。
「救急、です……」
「救急ですね。救急車が必要ですか?」
「は、はい――」
救急車が必要だからかけているに決まっているだろう。手順通りなのだろうが、僕は内心舌打ちした。
「では住所を教えてください」
「住所って……」
ここの正確な住所など分からない。答えに詰まっていると、オペレーターが助け船を出した。
「近くにある大きな建物などがあれば、それを言ってください」
そう言われて周囲を見渡すと、小型の変電所が遠方に見えた。僕はそれを告げる。次いで僕の名前や年齢などを聞かれたので、それも伝えた。
「どうされましたか?」
「同伴の女性が、急に激しい頭痛を訴えて動けなくなって――あと、嘔吐もしていて……」
先輩の病状を伝える。意識はあるか、吐血はしているか、など立て続けの質問に辿々しく答えた。
「その方は、持病などはありますか?」
「分かりません――少し目を悪くしてはいますが、特に持病を聞いたことはないです」
「分かりました。そうしたらですね、もう救急車は出動しましたから」
落ち着かせるようにオペレーターが言う。もう通話を切っても大丈夫ですよ――そう言われて我に返るまで、僕はスマホに耳を押し当て続けていた。
鞄から取り出したタオルとハンカチをベンチに敷くと、僕は先輩を横向きに寝かせた。うろ覚えの知識で、嘔吐しているときは気道を塞がないようにこの姿勢にするべきと聞いた記憶がある。
気がつくと先輩の顔は汗だくで、黒髪が肌に張り付いていた。頭痛が止まないのか、眼元を抑え続けている。
「先輩……」
永遠に感じる時間。僕はただ先輩の手を握り、背中をさすり続けるしかできなかった。




