静かな夜に(8)
「なんか矛盾してるよね。うん――分かってるけど」
先輩の声が真剣味を帯びる。
「今更ながら、空を見ることの楽しさというか、大切さが分かってきた気がするから。この間言ってたよね。『足下を見ずに星を見上げなさい』って言葉。そのとおりだと思う」
それは先日、僕がホーキング博士の言葉として挙げた、星空を見上げる動機だ。
「だからね。我儘なんだけど――日が沈んでから真っ暗闇になるまでの間だけ、星について色々教えてくれるかな。ただ見るだけじゃなくて、その背景を、物語を焼き付けながら見たいから」
黄昏、薄暮、薄明といった言葉で表現される時間帯だ。
見える星は限られる。むしろ見えない星が大半だ。望遠鏡でじっくり観察している余裕もない。
だが、それでも――
「それじゃ、その間だけ、天文部ってことでどうでしょうか」
性懲りもなく、僕は提案した。
「うん――それなら是非!」
彼女はぽんと手を叩いた。仕草の一つ一つが愛らしい。
「よろしくお願いします」
彼女は一礼すると、僕に手を差し出した。
「あ――」
握手を求められていると脳が理解するまで少々時間を要した。まさか、そこまで丁寧な反応が返ってくるとは思わなかった。
そっと目の前の手を握る。
その手は思っていたよりも小さく、冬の外気に晒されて冷たかった。けれど、彼女自身の体温を確かに感じた。
女子と握手するのは中学校の体育祭のフォークダンス以来だろうか。あの時もそれなりに恥ずかしかったけれど、一対一で向かい合っている今回の比ではない。
僕は静かに息を整えた。
「ようこそ天文部へ。今更なんですけど、3年生が引退して、2年生も消えちゃったので今は僕が部長代理やってます」
「1年生で部長かー、ご苦労さまです」
先輩はソフトテニス部を辞めたと言っていた。クラスの工藤の言葉通りなら、ちょうど2年生が次の部長に選ばれる頃の時期だった筈だけれど、辞めていなければ名実ともに彼女は部の代表になっていたのではないだろうか。
県大会で準優勝する実力と大勢の人望。先輩はそれを蹴って今、廃部決定済みの部にいる。半ば帰宅部の片手間とはいえ、本当にこの人を勧誘をして良いのだろうか。何かとんでもないことをしているのではないか。
「あ、そうだ。連絡先聞いとかないとね」
そんな僕の思案を余所に、先輩はスマホを取り出した。赤い手帳型のスマホケースだ。
「は、はい」
僕も慌てて取り出す。そうだ。仮初めとはいえ部員だ。連絡先を知っておくことは当然だ。決して個人的な疚しい理由からではない――一瞬のうちに脳内に理屈を並べた。
一応、現在の天文部もクラスも連絡網として登録しているが、今のところ有効活用された形跡はあまりない。同級生の女子の個人的なアカウントもほぼ入っていない。
QRコードを読み込むと、「ふじさきのぞみ」が登録された。アイコンは可愛らしいぬいぐるみだ。
これが、先輩のアカウント――
「あと、グループも作ろっか」
アドレスが入ったことに僕が感動している間に先輩がスマホの上で指を滑らせる。その意味を理解しないうちに、スマホ画面上に招待メッセージが表示された。
『天文部帰宅支部』からの招待だ。僕はゆっくりと『参加』をタッチする。
メンバー2人だけのグループ。廃部が決まった部の、そのまたさらに支部。部活動はもとより愛好会とも言えぬ存在。2人が放課後に空を見上げながら駄弁るだけ。この先、更にメンバーが入ることはあるのだろうか。
「では部長殿、明日からもご教授よろしくです」
「は、はい」
そう言って駅舎へ入っていく先輩を見送りながら、僕は思った。今は他に誰も入らなくていい――そんなことを。
僕は、事の重大さを理解していなかった。彼女が「星を見たい」という本当の意味を。それよりも、彼女との距離が縮まることに興奮していた。
その度し難さを、僕は後に心の底から悔いることになる。




