静かな夜に(4)
「そういえばさ、今日はどんな本を借りていくの?」
先輩が話題を変えたので、内心安堵した。
「まだ決めかねていて……」
まさか先程は彼女に見惚れていたとは言えず、適当に誤魔化した。
「今日は本返しに来てたんだよね」
「ええ」
返却に来た2冊の本のことを簡単に話した。
「うーん。なんか難しそう……」
「まぁ僕もあんまり理解できてないですから」
先輩の学力なら十分理解できる内容だと思うが、これは趣味嗜好の問題でもあるので何とも言えない。
「読みやすい本があるなら私も読んでみようかな」
「ええと、それなら」
二人で席を立つと、書架の前に移動した。現代小説のコーナーを探す。
「『オデッセイ』って映画知ってます?」
「あ、聞いたことあるかも」
僕は書架から一冊の本を取り出して、彼女に見せた。
アンディ・ウィアーのSF小説『火星の人』。『オデッセイ』の原作だ。
「もともとWeb小説だったんですが、人気が出て映画にまでなったんです。読みやすいし、コミカルなところもあって面白いんでオススメです」
「『火星の人』……火星人とは違うんだよね?タコ型宇宙人とかの話じゃなくて」
思わず僕は軽く吹き出した。
「やっぱり火星人っていうとそういうイメージなんですね」
H・G・ウェルズが1897年に出版した小説『宇宙戦争』に登場したタコ型宇宙人は火星人のイメージを世間に定着させた。今でも宇宙人といえばグレイかタコ型が定番だろう。
「火星は……あんな宇宙人はもちろん生物もいないんだよね」
「ですね。つい半世紀くらい前まではいるかもしれないと期待されてたんですけど。この話は火星に取り残された近未来の宇宙飛行士の奮闘を描いた作品ですよ」
絶望的な状況に置かれながらも、常にポジティブに、ちょっとブラックジョークも交えながら問題を1つ1つ解決していく主人公マーク・ワトニーが非常に魅力的な作品だ。専門用語だらけにも関わらず、読みやすい文体であっという間に読了してしまった。
「うし、透也くんがお勧めするなら借りよう」
「ありがとうございます」
気恥ずかしさと嬉しさに心をくすぐられながら僕は先輩に本を渡した。漫画や雑誌ならともかく、この手の本を他人に薦めたのは初めてかもしれない。
「ちなみに、火星は見やすいの?」
「今はちょうど地球から遠ざかってる時期なのでちょっと暗めですね。大接近時ならギラギラ輝いて、望遠鏡で見ると表面模様が見えたりして面白いんですが……」
火星は2年に一度地球に接近し、およそ15年に一度大接近する。大接近時には木星を超えた明るさになり、望遠鏡で見ると日々表面が変化していくのを楽しめる。昨年の天文部の活動でも接近に合わせて火星表面の観測とスケッチを行った。ところが、どうやら火星の地表で大規模な砂嵐が起こったようで、望遠鏡を覗けど模様はまるで見えず、鞆浦先生共々落胆した。
「どの方向に見えるの?」
「今の時期なら、夜更けに東から南の方角に見えますよ」
「そっか……」
残念そうに言う先輩。出来ることなら夜中だろうが何だろうが2人で見に行きたいが、さすがにそれは無理だろう。
「何年か前に、夜中にすっごい赤い星が見えたんだけど、あれが火星だったのかな」
「うーん。季節にもよりますけど、単純に赤い星なら火星の他にもいくつかあるんですよね。アンタレスとかベテルギウスとか」
前者はさそり座、後者はオリオン座の代表的な恒星だ。直径が太陽の数百倍ある、赤色超巨星と呼ばれる年老いた星である。
「ベテルギウス――」
ふと先輩が反応を示す。有名だから先輩でも知っていておかしくない星だが、何か思うところがあるのだろうか。
「今見えるんだっけ」
「ええ。冬の代表的な星座のオリオン座の1等星ですから。空を見上げればすぐ見つかりますよ」
「夕方でも?」
「少し暗くなれば東の空に見えると思いますが――」
彼女は少々思案する仕草を見せたが、すぐにこちらを向いた。
「もし良かったら、今日も案内してくれないかな?」