RIVER(3)
古典はどうにかこうにか乗り越えた。だが問題は直後の休憩時間に持ち越されたも同様だった。
「菊池君、まさか藤崎先輩のこと知らないの?」
心底呆れた声で言うのは工藤志帆――このクラスの女子ヒエラルキーのトップ――である。ベリーショートの髪に引き締まった身体。容姿は美少女といって差し支えないと思うが、いかんせん常に棘のある話しぶりが個人的には苦手だった。
朝のHR前は誰も声をかけずに噂話だけで遠巻きに様子を伺っていたが、結局みな好奇心には勝てなかったようで、今は彼女を筆頭に質問攻めの最中である。
「この学校で藤崎先輩知らないってモグリもいいとこよ」
「いや、そう言われても……」
肩をすくめて僕は答える。
モグリも何も本当に知らなかったのだから仕方ない。普段僕の人間関係は半径数メートル以内で完結しているのだから。人の顔と名前を覚えるのは古典よりも更に苦手だ。
「藤崎家って相当な名門なのよ。確か旧華族だし、先輩の伯父さん県議会議員だし。勉強も学年トップクラスで、ソフトテニスは県大会で準優勝。おまけにあの美貌」
「タウン誌の表紙飾ったのって去年の8月だっけ」
「生徒会選挙にも相当推薦されたけど、本人が断ったのよね」
横にいた井内と小笠原――工藤の友人ということしか知らない――が相槌を打つ。
マジか。容姿端麗、頭脳明晰、文武両道、家柄も抜群。
そんな超人みたいな人を僕は冬の寒空の下、河川敷へお連れして水星観測なんぞに付き合わせてたのか。
確かに容姿だけでなく立ち振る舞いも様になっているように感じたけど、実際お嬢様だったわけだ。
「で、二人で連れ添って帰りながら何してたわけ?」
核心とも言える質問が工藤から飛ぶ。やはりそれか。
「何って言われても別に……先輩がうちの部活に興味あるみたいだったから、ちょっと話をしただけ」
嘘は言っていない。どうせ事の経緯を細かく言ったところで理解も信用もしてくれないだろう。
「部活って――菊池君の所属してる天文部ってもうすぐ廃部って聞いたけど?藤崎先輩がなんで今更そのことで話をしようとするわけ?」
そんなこと僕が一番知りたいことだ。怒りがこみ上げてくるのを何とか抑えた。
「先輩の考えてることは僕には分からないって。とにかく、何もないんだから」
話を切り上げて席を立とうとする。二時限目の化学は化学講義室の筈だ。移動しなければならない。
「藤崎先輩は――部活辞めちゃったのよ」
工藤が声を詰まらせる。僕は思わず振り向いた。
「去年の秋に突然辞めたの。顧問の先生から散々止められたし、私も何べんも理由を聞いたけど、『部活が嫌なわけでも、部員や先生が嫌いになったわけでもない。私の個人的な理由だから』って。それ以上は何も教えてくれなくて」
そうか。確か工藤はソフトテニス部だった。彼女にとって藤崎先輩は部活の先輩でもあったわけだ。
「突然部活は辞めるし、彼氏とも別れたらしいし、十人近く告白されてもみんな振っちゃうし。最近先輩が何を考えてるのか分からない――」
十人から告白とは流石だな、と場違いな感想を抱いた。一人として告白したこともされたこともない僕からすると異世界の住人みたいだ。
恋人がどうこうなんて放っておいてあげなよ彼女の勝手だろ――そんな言葉が喉元まで出かかったが、工藤の真に迫った顔を見ると何も言えず、僕は押し黙った。




