ほつれた糸
数分前まで俺は幸せの絶頂だった。
まだ17年間しか生きていないが、間違い無く数分前までは幸せだったと自信を持って言える。
「直人…?」
たった今まで笑い合っていた恋人が息を乱して頬を赤く染めながら、見知らぬ男を蕩けそうな眼差しで見つめていた。
詳しく無くても見るからに高そうなスーツ姿の男も直人に魅入っていて、まるで2人の間には言葉も要らないとばかりに自然と引き寄せ合って手を取り合い、抱き締め合った。
「っ…直!」
直人へと伸ばした俺の手は、横から差し出された何かに遮られた。
「いきなりの事で驚かれているかと思われますが、私の名刺です。そこの男の秘書をしています」
「秘、書…?」
差し出された名刺を受け取るが、今はそれよりも直人だ。
心臓が煩い。
嘘だ。違う。嫌だ。何かの間違いだ。
今にもキスしそうな2人に、頭の中が真っ白になる。
「社長…こんな所で未成年に堂々と手を出すのは勘弁して頂けませんか?」
「……佐原、車回せ」
「畏まりました」
「直人!」
声を振り絞って直人を呼んでも、直人は1度も振り返らず男に抱き抱えられる様に横付けされた車の中へ乗り込んだ。
「…見ての通りですが、お2人は運命の番であると思われます」
「運、命……」
「あちらの方は暫く私共でお預かりさせて頂きますがご心配なさらず、何かありましたらその名刺の番号までご連絡下さい。では、急ぎますので失礼します」
「なっ…なに言っ…」
穂高がバタンと無情にもドアは閉まり、あっという間に車は走り去った。
「…嘘だろ……」
ふらふらと近くのベンチに座り込む。
俺と直人は幼稚園の頃からの幼馴染で、家も近くて家族ぐるみの仲だった。
小さな頃から何をしても周りから褒められきっとαだろうと言われていた俺と、βの両親から生まれた容姿頭脳と特段秀でた処は無く平凡なβの直人。
小さな頃から毎日の様に穂高と直人は一緒に遊び、周りが異性に興味を示し始める年頃になっても2人は離れず常に一緒に居た。
何をするでも直人と一緒にいれば楽しくて、自然に手を繋ぎ、肩を抱き、これはまるで恋人同士なんじゃないかと気付いて想いを告げると、直人も同じ想いでいてくれた。晴れて付き合い始めたが、直人はαの俺にいつか運命の番が現れるんじゃないかと言う不安を日々抱える様になっていった。
何度も俺には直人だけだと言い聞かせたけれど、それでも直人の不安を完全に拭い去る事は出来ずに歯痒い想いを抱えていたが、数ヶ月前に直人が風邪を引いて行った病院で検査を受けると直人は後天性のΩだった事が判った。
直人から結果を聞き、2人で泣いて喜んだ。発情期が来たら番になろうと誓い合いネックガードを直人に贈り修学旅行前日の昨日、直人と初めてのセックスを経験した。
体の奥から湧く愛おしさ。こんなに幸せな事があるのかと初めて知った。
幸せ過ぎて怖い程だと思った。
好きになった子と結婚して、子供を授かる事が出来るなんて。
運命なんて、そんなものどうでも良い。
俺が直人の運命で、直人が俺の運命だから一生一緒に居るんだ。
そんな想いは、一瞬で儚くも脆く消えた。
「………なんだよ、これ…」
気付いたら握り潰していた名刺を開いて見ると自重的な笑いを浮かべる。笑ってしまう程に誰でも知っている会社の名前。
肩書は社長秘書だった。
と言う事は、直人を連れ去った彼奴は社長と言う事なのだろう。
直人ばかり見ていてあまり覚えて無いけど、若くて、モデルか俳優の様に整った顔をしていた…気がする。
一流企業の社長と、片や田舎の高校生。
同じαであっても肩書だけ見ると全く違う。
俺はαとして両親から良家のΩと番う将来を期待されている事は薄々感じてはいたが、俺は直人と生きて行く未来しか考えられなかった。
だから、直人がΩだったと判った時は本当に嬉しかった。神様はいるんだとさえ思った。これで誰にも文句を言われずに直人を幸せに出来るんだ、と直ぐにお互いの両親に報告をして承諾を得て、後は本当に直人の発情期を待つばかりだった。なのに、
「…直人の居ない、人生……」
考えられない。
晴天の霹靂とはこのことか。
もう、何もかもどうでも良い。
直人が居ないなら、頑張れる気がしない。
俺の想いはあの一瞬で見知らぬ誰かに踏みにじられた。
悔しい。
直人の事など何一つ知らない男に奪われた。
ずっとずっと大切にして来た。
大切で、大好きで、愛おしかった。
直人と家族になりたかった。
自由行動中で班のメンバーと離れていたが、メンバーに自分達の事は心配不要だとメッセージを送ると、電話帳を開いて母親の番号を表示させる。
直人との仲を小さな頃から一番側で見守っていてくれた母にこんな報告をしなければならないなんて、想像もしていなかった。
『穂高?どうしたの?』
「…母さん……」
『直人くんと喧嘩でもした?あ、スリにでもあったの!?』
「…スリじゃないよ」
いつもの母の的外れな言葉に落ちた心が少しだけ浮上して、小さく笑うとやけに落ち着いた声が出た。
『…どうしたの?』
「……さっき、直人の………運命が……」
『……一緒じゃないの?』
「…うん、相手、○◎の社長だってさ…」
『………穂高、貴方今1人なの?』
「ん…」
『帰ってらっしゃいよ』
「……ごめん…ちょっと……今は……暫く…1人になりたい……」
『…お金はある?』
「…うん、ごめん……母さん、ごめん」
『穂高、いつでも帰って来なさいね?連絡はこまめに入れるのよ?』
「うん……あ…俺の机の引き出しに直人のガードの鍵入ってるから…もし来たら渡しておいて」
言いながら鼻の奥がツンとしてきて、涙声が母にバレる前に返事を聞かずに通話を切った。
穂高が直人に贈ったのは何処でも買える安物のガードだ。工具を使えばすぐに鍵は壊してしまえるだろうから鍵を取りに来る可能性は低い。
「あれが最後のプレゼントになっちまったな…」
ぽつり、俯くと地面に1つの小さな丸い染みが出来て、1つ、2つとどんどん増えていった。
「穂高、焼き菓子全部売り切れたよ〜!」
「もう?早いな」
穂高は作業の手を止めて厨房の時計を確認する。まだ開店して3時間だ。いつもは早くても3時頃まで売り切れる事はないので、厨房から店内に入ると聞いた通りに棚からはごっそりと商品が減っていて、店長の実は嬉しそうに鼻歌を歌っていた。
「今のお客様が大量購入してくれたんだ〜」
「へぇ」
窓の外を見ると、確かにうちの店の1番大きな紙袋を2つ抱えて歩く細身の後ろ姿が見えた。
帽子や眼鏡で顔が見えない。あんな客居ただろうか。しかし、細い身体にあの量を持って帰るのは大変だろう。穂高は暫くその客を眺めて居たら近くに車を停めていたらしい。スーツ姿の男が紙袋を受け取り、車の中に入って行った。
「誰?近所の人?」
「初めてのお客様だったよ」
「ふぅん」
「子供達にお土産にするんだって。子沢山らしいよ」
「…そうか。じゃあ急いで追加の用意する」
「お願いしまーす」
実の鼻歌を聞きながら、穂高は厨房に戻った。
「子沢山か…」
あの日から17年が経ち、いつの間にか穂高は30歳を過ぎたが、直人を失ったあの日から家には帰っていない。
あの修学旅行の日、母との通話を終えた足で穂高は携帯を解約して行き先を決めずにヒッチハイクをした先に辿り着いた街へ移り住み、暫くバイトと勉強に明け暮れた。
幸いと言うか、小さな頃から親に反対されても直人と生きて行くと決めていたのでコツコツとアルバイトや小遣い、お年玉を貯めていたので、アルバイトをしながらなんとか生活出来た。
伝手を頼りになんとか調理専門学校への入学にこぎ付け卒業後は数年間アルバイトを掛け持ちして開店資金を貯め、意気投合した寮で同部屋だった実を店長に、穂高は厨房を担当して10年前に菓子屋を開店させた。
店舗オーナーが良い人なのも幸いだったが、立地の良さと開店当時から近所の評判も良くて最近はほぼ毎月黒地経営で、実家に仕送りも出来る様になった。
始めの頃は直人の事に触れられるのを避けたくて、両親に連絡を取るのを迷っていた。
直人の事には触れずにたった3行程度のメールを送った時は元気でいるならそれで良い、いつか里帰りしなさい。とだけ返事が来て、もっと早く連絡をすればと己を悔いた。
しかし、分かったと返事をしながらもいつの間にか17年も月日は経ってしまった。
俺が幾ら目にしない様に心掛けていても、知りたくない情報が自然と耳に入る事がある。
何せ相手は日本有数の大企業の社長だ。
以前は気にもしなかったけれど、あの一件の後で彼は結構頻繁にメディアの露出が多い事に気付かされた。直人はあの翌年には子供を産み、今や10人の子共達の親らしい。
幸せに、やっているんだろうなぁ…
テレビで偶然見た旦那は、あの日とあまり変わらない風貌で未だモテるであろう爽やかな笑顔を浮かべていた。
直人は恥ずかしがり屋だから表には出たがらないとテレビ番組内で旦那が言っていた。
αは番への独占欲が強いと言われる。
どうせお前の独占欲で直人を囲っているんだろう?そんな負け惜しみを腹の奥に溜め込みながら、そんな日は決まって深酒をした。
「お邪魔しまーす」
「穂高くん!今日は!」
「今日は、秀」
今日は定休日だが、実とその息子の秀が暇だと言うので新作の試食をしてもらう為に店に呼んだ。
「秀、新作のパウンドケーキ食べるか?」
「うん!」
実の息子、秀は今年小学生に上がったばかりでまだまだ可愛い盛りで、産まれた時から穂高も秀のオムツを変えているので息子の様な感覚で可愛がっていた。
「あ、そう言えば昨日また取材の話が来てたんだけど…」
「またか…」
紅茶を煎れながら実は恐る恐ると言った様子で話し出す。
「1件はケーブルテレビの情報番組でもう1つは地元の小学生の社会化見学だって」
「小学生の方は受ける」
「了解。返事しとくね、来週の木曜日らしいよ」
「分かった」
3ヶ月前、テレビの生放送のバラエティ番組が突然店を訪ねて来た。
事前のアポイントメント無しで突然やって来てタレント自らが取材の許可を得ると言う企画もので、どうやら周辺の店は軒並み取材拒否されたらしくタレントもスタッフも焦っていた。
その時に周辺住民から店の話を聞いて藁にもすがる勢いでやって来たと言う取材クルーに店内で接客中だった実は驚き、穂高に確認を取ると話したが一同は実の容姿に食い付き、許可も得て無いのに勝手に店内に侵入してカメラを回した。
何事かと厨房に居た穂高が店内に出たら突然カメラとタレントに囲まれ、あれこれ聞かれた。
閉店間際でたまたま店に居た秀は機材を抱えたスタッフに蹴られそうになるわ、実にカメラが当たり痣を作るわで散々だった。
それ以降、取材は受け付けていない。
番組を見た客が放送から3ヶ月経った今も絶えないのは喜ばしい事だが、営業中に取材の電話が鳴り止まないのは迷惑極まりない。
3ヶ月前の忙しいながらも穏やかだった日々が懐かしい。
穂高は秀の頬に付いたケーキを指で摘んで食べては笑い合う実を横目で見る。
自分より頭1個程低い背丈にほっそりとした体型にぴったりな透明感のある肌に天使の輪が出来る癖の無いつるりとした黒髪に天然でカールしている睫毛がぱっちりとした目を縁取る。小さいが形の綺麗な鼻に小さくて血色の良い唇は紅く艶々としている。
実は見目麗しい誰が見てもΩだと解る様な容姿を持った男だった。
寮の同室になった実を見た瞬間にΩだと気付き穂高は部屋替えを申請したが、部屋替えは基本的に1年に1度の年度末にしか受付をしておらず、その当時は部屋が埋まっていて嫌なら自分で部屋でも借りろと言われ渋々始まった共同生活だったが、思いの外実との生活は快適だった。
実には高校卒業と同時に付き合い始めた恋人が居て、そのαの彼氏共々3人で仲良くなり2人は数年後に結婚をして子供を産んだが、旦那は秀を抱く事無く亡くなった。穂高は後から知ったのだが、彼は病気を患っていたらしい。
穂高へ残された手紙に実と子供の事を頼むと書かれていた。
責任感もほんの少しはあったが、直人を失ってから出来た大切な友人達を支えたい。
同じ調理学校で学び、生活も共にした。実も卒業後はずっと飲食店で働いていたから経営パートナーに誘う事に迷いは無かった。
「へぇー!それで実さんと一緒に働いてるんだぁ!」
「ああ」
「店長さんは結婚してないの?」
「俺はしてないよ」
「店長さんカッコいいのに!?」
「そうか?ありがとう」
穂高が微笑むと、女の子達は頬を染めて一斉にきゃーっと悲鳴を上げる。
カットしたパウンドケーキにホイップクリームを絞って子供達に出すとわっと歓声が上がった。
小学生の社会化見学の取材を受けたが、まさかここでも実との事を聞かれるとは思って居なくて苦笑を浮かべると、女の子達の声が店内で接客していた実にも聞こえたのか、ガラス越しに実が笑っているのが見えてそろそろ交代して欲しいと視線で促す。
小学生と言えど女の子はおませなんだな、としみじみ思う。
直人の子供達は何歳なんだろう。
小学生も何人か居るんだろうか。
取材は一旦中止でパウンドケーキに夢中になる女の子の頬に付いたケーキを摘んで取ると、耳まで赤くなり俯きながらパウンドケーキを食べる姿が可愛い。
日頃会ってる秀も可愛いのに、自分の子となるとどんなに可愛いのだろうか。
自分が直人以外の相手と付き合える事がないのは分かっているから、自分の子供をこの手に抱く事など出来ないのは分かっているが、自分と直人の子供はさぞ可愛いんだろうな…なんて考えた事は一度や二度じゃなかった。
そんな妄想実現する事など無いのは分かっているのに。
「「「ありがとうございました!」」」
「気を付けて帰ってね」
「「「はい!」」」
実と共に子供達を店の前で見送ると、結婚式帰りと思われる紙袋を持ったスーツ姿が横切って行く。
「そう言えばスーツ出しとかないとな〜」
「そうだった…買いに行かないとな」
「あれ、穂高スーツ持ってなかったっけ?」
「もう何年も前のだから買い直す事にした」
「早目に準備しておきなよ?」
「ああ」
専門学校で仲良くなった同級生が上京して結婚をする事になり、穂高と実は招待を受けていた。
穂高は高校までの友人とは連絡を絶っている今、数少ない友達の晴れの日とあって実と共に店を数日間臨時休業にして式に出席する事にした。
「良い式だったね」
「まさか俺がこんなの受け取るとはな…」
穂高の手には可愛らしい花束が握られている。
ブーケトスの瞬間、独身女性の輪からトスの様に花束が穂高の出の中に飛び込んだ。
「穂高もとうとう結婚しちゃう?」
揶揄う様に言ってくる実に花束を押し付ける。
「たった1度抱いた奴を17年も忘れられない様な男に嫁ぎたいだなんて危篤な奴、そうそういないだろ」
「一途な男って何気にモテるんだよ?」
「…執着の間違いじゃないか?」
あの日、初めて直人を抱いた夜。
直人は発情期じゃ無かったから簡単に穂高を受け入れる事は出来ず、お互いガチガチに緊張して痛みを伴い、性的快感を得られる行為では無かった。
でも、心は満たされていて、一晩中抱き合って沢山キスをした。
「じゃあ荷物置きに行こうか」
「ああ」
引き出物を宿泊先のホテルの部屋に置いてから二次会の会場に向かう予定だったので、結婚式場のホテルの庭園を歩き出した。
その瞬間、風が吹いた。
「……え、」
あり得無い。
どうして、
「穂高…?」
急に立ち止まった穂高を振り返り実は不思議そうな顔をしている。
「………直人……」
「え?直人って…え、居るの?」
実は辺りをきょろきょろ見渡しているが、周りには誰も見当たらない。
「…いや、居る訳無いよな…」
「なになに?何がどうしたの?」
「…匂いが、」
「匂い?」
「何でも無い。気のせいだ」
未だ不思議そうな顔の実の背中を追おうとしたが、また穂高の足が止まった。
「…そんな訳無いだろ…?」
ふわりと、微かにだけど、恋しくて堪らなかった気配がする。
「…穂高、本当に良いの?」
「良いも何も、向こうは家庭がある。俺の存在なんて迷惑でしか無いだろ」
「迷惑なんて…」
「……悪い、もう行こう」
断ち切ろうと思うのに、いない筈の、する筈の無い気配がこんなにも側に感じる。
「穂高、貸して」
実は穂高の持つ引き出物を奪い取ると歩き出してしまう。
「日付が変わるまでには連絡の一本は入れてよね〜」
「実…」
また風が吹いて、気付いたら穂高は走り出していた。
「……直人……なおっ、」
走る度に濃くなる。
何で?そんな訳無いのに。
お前は幸せなんだろう?
なぁ、直人、お前の幸せそうな顔を見れたら俺は諦めが付くのかな。
「っ……直人…?」
「っ!」
直人は何故か庭園の端で床に突っ伏していた。
「直人、具合が悪いのか?…もしかして、発情期…」
「ち、違う、違うんだ……」
か細い声がうつ伏せになったままの直人から聞こえて来た。
「……じゃあ、どうしたんだ?」
「……穂高が、急に走って来たから…ビックリして、足がもつれて…」
穂高は戸惑いつつ、直人に近寄りしゃがむとそっと脇に手を入れて抱き起こして正面から直人の顔を見る。
直人に会えば諦めが付くのかも知れないと何度も思っていたのに、そんな希望は砕かれた。
「直人…お前、何で……」
直人は俯いているが、顔色はとても良いとは言えない。
あの日よりも頬は痩けてクマが出来た目元は疲労感を感じさせ、抱えた身体は記憶の中の直人よりも軽くなっていた。
「……え、」
直人の顔からふと視線を下ろした穂高は、それに釘付けになる。
「…お前の匂いがした…」
「っ……」
「…何で…お前は、あの運命と幸せなんじゃ無かったのか?何で、何でお前は…」
「…穂高」
17年前に贈ったガードにしてはやけに綺麗な直人の首元を保護するガードにそっと触れて、随分細くなった身体を抱き寄せた。
「…直人…なあ、何でお前…こんな物着けてるんだ?何でお前から匂いがするんだ?あの人と…番になったんじゃ無いのか?」
「………なって無い」
弱々しく穂高のスーツを掴んで、腕の中で小さく震える直人に抱き締める手に力が籠る。
「…子供は産んで、結婚はしてるんだろ?」
「っ………うん、」
段々と鼻声になる直人を抱き抱えて頭を撫でる。
昔よくしていた時の様に撫でると、直人の身体から力が抜けてぽつりぽつりと語り出した。
「…今まで大変だったな」
「僕は……穂高より、全然……」
あの日、急に高熱が出た様に何も考えられなくなって発情期になった直人が意識を取り戻したのはそれから3日後だったそうだ。
例の男の家に運び込まれ、意識もハッキリしていないのに避妊もせずに3日間。
直人が意識を取り戻した時には妊娠は避けられない状況だった。
発情期が開ける前に番にしようとガードもペンチで外されそうになったが、実が必死に抵抗をした。
けれど妊娠は確実で、結婚する他無いと迫る相手に直人は子供は産むが番にはならないと訴えた。
穂高よりも運命を選んだその時に番になると言う約束を取り付けた。
向こうはどうせすぐに自分を選ぶと思っていたのだろう。
しかし、いくら待っても自分を選ばない直人に焦れて発情期が訪れると避妊をせず抱き潰し、どんどん子供が増えていった。
いくらΩが子供を産む事に特化した身体的構造をしていると言っても、労りのない無理矢理の関係に直人の心は塞ぎ込みがちになり、旦那も外で別のΩを囲う様になった。
そして酒に酔った勢いで抱いたΩと番となってしまい、更に直人は旦那となった男から心を閉ざした。
そんな時、俺の声が聞こえた。
あの生放送の番組を直人の子供が見ていた。
声に反応してテレビを見ると俺が映っていた。
「17年経っても、穂高の事…忘れられなくて…僕、酷いこと…したのに…っ、自分であんなに不安がってた癖に…僕が裏切った……から…っ」
腕の中でぼろぼろと涙を流す直人はあの頃と変わらない香りがして、穂高は胸一杯に直人の匂いを吸い込み抱き抱える。
「……穂高、店員さんと…幸せそう、だったから…僕、もう…諦めなくちゃって、思って…」
「え…?」
「…実さん…と、結婚、してるんでしょ…?」
「そんな訳無いだろう」
「………えっ?」
直人がおずおずと顔を上げて、目をぱちぱちと瞬くと涙で濡れた睫毛をそっと指先で拭った。
「…あの放送は色々誤解を受けそうな内容だったけど、実には…死別してしまったが結婚をした相手がいる。子供もその旦那と2人の子供だ」
「ぇえ……?」
戸惑う直人の頬を撫でていると穂高は気になっていた事を聞いてみる事にした。
「なぁ…もしかして先月店に来た?」
その瞬間、ぴくんと直人の肩が跳ねた。
「…直接、穂高の幸せそうな顔が見れたら…諦められるかと思って…」
「…諦められたのか?」
そっとおでこを突き合わせると、また直人の目元が潤み出す。
「っ……出来なかっ……」
「直人……どんな事があっても俺はずっとお前を愛し続けるよ」
「……ほだか……」
「お前が誰と結婚して誰の子供を産んでも、ずっと見守り続ける」
「っ……」
「だから、笑ってくれよ」
鼻先にちゅ、と口付けると直人の目からはまたぼろぼろと涙が溢れ出す。
「こちらとしては見守るよりも掻っ攫って頂けた方が都合が良いんですが」
音も無く現れた気配に穂高は直人を隠す様に胸元に寄せると声のした方に目を向けた。
「…貴方は、」
「佐原さん…」
記憶を手繰り寄せて思い出すが一瞬しか顔を見なかったけど、確かにこの人は穂高に名刺を渡して来た秘書の佐原と言う男だった。
穂高は直人を立ち上がらせると直人の服の汚れを払って佐原の様子を伺う。
佐原は2人の様子を黙って見ている。
穂高は直人から手を離すと身体を離した。
「心配なさらなくてももう去ります。今は関東に住んでいませんので、直人とも今まで連絡も取っていませんでしたし」
「穂高…」
直人の声が震えている。
結局、直人の笑顔を見れる事は無かったけど。
これで良いのかもしれない。
そう思う事にした。
「知っていますよ」
けれど、佐原から思い掛けない返事が返って来た。
「え、ああ…先月の、貴方でしたか…」
「はい」
直人が店に来た時にスーツ姿の男が居た。
あれは佐原だったらしい。
「貴方に直人様を攫う覚悟は無いのですか?」
「………は?」
訳の分からない事を問われて、穂高は眉間に皺が寄る。
「ちょっ…佐原さん!」
「直人様は黙っていて下さい」
「っ……」
「攫うも何も、直人には旦那に子供達も居る」
「…もう少し骨のある人かと思ってましたがとんだ腑抜けでしたか」
「…何が言いたいんだ」
「佐原さん!」
「17年も想い続けて、抱き締めただけで終わりですか」
「…子供達に罪は無い」
「まぁ、その心配は無用ですが」
「「え?」」
ぽかんとする2人を他所に佐原は持っていたタブレットを操作すると差し出した。
「こちらをご覧になっても同じ事が言えますか?」
「動画…?」
「…あっ」
タブレットを2人で覗き込むと直人が小さく声を上げた。
画面真ん中の再生ボタンの後ろには子供が何人か居る。
「直人の…?」
「…うん、僕の子達…え、何だろ…」
穂高は再生ボタンを押すと子供達が一斉に話し出す。
「「「お母さ〜ん、穂高さ〜ん!」」」
「え、」
子供達はテンション高く手を振っている。
しかし、何故か会った事も存在も知らない筈の穂高の名前を子供達は呼んだ。
「穂高さん初めまして。代表して話します。長男の尊です」
リビングなのだろうか、ソファーの真ん中に座っている高校生位の男の子が自己紹介をした。
「先日は穂高さんのお店のお菓子皆で頂きました」
「美味しかったですー!」
「苺のクッキー美味しかった」
「チョコのも美味しかったよね」
他の兄弟達もお菓子の感想を言い出すのを尊が止めに入る。
「はいはい全部美味しかったね。穂高さんの人となりも分かって、僕等子供達の中で母を穂高さんに任せられると言う結論が出ました」
「「えっ」」
いきなりの展開に、穂高と直人は顔を見合わせる。直人の様子から、直人は何も聞かされて居なかったらしい事が分かる。
「僕達の事もお父さんの事も気にしなくて大丈夫です。安心して一緒になって下さい」
「なっ…」
子供達はうんうんと頷いているが穂高と直人は唖然とする。
「では、後は佐原さんから聞いて下さい。あ、今度は皆で穂高さんのお店に伺わせて頂きたいと思います」
「行きたーい!」
「お兄ちゃん、皆で行ける?」
「行けるよ、皆でばいばいしようね」
「「「お母さん穂高さんばいばーい!!」」」
再生が終わっても2人は無言で画面を見つめていた。
「あの子達…いつの間に……」
直人は驚きに引っ込んでいた涙がまたぽろぽろと溢れ出す。
「それと、こちらも預かっています」
そう言って佐原は直人に封筒を差し出した。
タブレットを佐原に返して封筒を受け取ると、直人は中身が分かったのかハッとして佐原の顔を見て、ゆっくりと封を開けた。
「……この鍵って……」
穂高には嫌と言うほど見覚えがあった。
「ガードの……本当に、あの人が…?」
「はい。ですから、お二人には覚悟を決めて頂きたいと思います」
穂高はそっと直人の肩を抱き寄せる。
さっきからずっとしていた直人の香が、少しずつ濃くなってきている。
「直人」
「ぁ……っ、」
そっと首元のガードに触れる。
その下の綺麗な首筋に触れたくなる。
「俺と一緒に来てくれるか?」
「穂高……っ、うん…っ」
直人を抱き締められる幸福を噛み締めていると、佐原が一礼して無言で立ち去って行った。
「…不思議な人だったな…」
「佐原さん?…誰も味方が居なかったあの家で色々助けて貰ってたんだ」
「17年直人を支えてたんだな…」
「…佐原さんもだけど……1番は…」
直人はそっと穂高の胸元から顔を上げると、手を顔の前に掲げて、穂高に小指を見せた。
「これがあったから…いつか糸が…穂高に会わせてくれるんじゃ無いか、って…」
学生の頃まだΩだと分かる前、穂高にいつか運命の相手が現れる事を恐れていた直人。
穂高が外に出るのを怖がっていた直人を連れて行った夏祭りの露店で見付けた子供用の指輪。
赤い石が付いたその指輪がなんだか赤い糸の様に見えて、2つ並んで置いてあったその指輪を両方買って直人の小指と自分の小指に嵌めた。
「これで俺達は赤い糸で結ばれてるから離れる事なんて出来ない」
そう言って指輪を嵌めた小指を絡めると、直人は泣きそうな顔で笑った。
「持っていてくれたんだな…」
ワイシャツのボタンを外してネックレスを中から取り出すと、直人はあっと声を上げた。
「…俺もずっと身に付けてた」
「……穂高…」
リングを外して小指に嵌ると直人の小指に絡める。
「直人、愛してる。ずっとお前だけを愛してる」
「…っ、僕も……穂高、愛してる」
「鍵、使っても良いか?」
「…っ、うん…」
途端に顔が赤く染まった直人の息が少し荒くなって来た。
「わっ」
穂高は直人を横抱きにすると歩き出した。
「俺が泊まってるホテルに向かうが、良いか?」
「っ………う、ん」
最後は蚊の鳴く様な声だった。
首まで赤く染まった直人に穂高は高鳴る気持ちを何とか抑えホテルに向かう。
「…穂高、大好き」
震える手で直人のガードの鍵を外すと白い、噛み跡の無い首筋が露わになって穂高は鼻の奥がツンとして、手で顔を覆うと直人がその手を取り、指輪にキスをした。
「もう二度と離れないから、だから…っ」
息が上がって、記憶の中のあの日と同じ直人の目が今は俺を映している。
「噛んで、穂高、噛んで…っ」
真っ白なその首筋に歯を立てると、思い切り噛んだ。
お互いに泣いてぐちゃぐちゃな顔で求め合い、とても大人同士の睦み合いとは言えなかったが、それでも、とても幸せだった。
その後、直人は穂高と共に店舗間住居に移り住み、子供を産み続けてΩの出産数でギネスの世界記録を更新していった。
穂高編、読んで頂きありがとうございました。
直人視点も書けたら上げたいと思っています。