幼魔女4
時刻は夜半を過ぎた頃。
ようやく書類整理が一区切りつくという段になって、ルイはリアムに渡しそびれていた紙切れがあることに気付いた。
城で働く許可証と在住許可証。最近は何でも紙に残しておかなければならない手間が増えてうんざりする。こんなもの残さなくても、どうせルイの決定を覆すことができる人間は一人しかいないというのに。
急ぎの用ではないが、今日の様子を見る限り今度会ったときにでもというのは難しそうだ。一頻り唸ったあと、扉の外にいる騎士団団員にレオを呼んでくるよう頼む。
別に城の外に出るわけではないからレオでなくてもいいのだが、リアムに馬鹿にされる姿を他の人間には見られたくない。何が気に入らないのか、喧嘩腰でしか話せない少年を思い出してそっと息を吐いた。
「殿下、お呼びですか?」
そう言って執務室に入ってきた彼は、とっくに勤務時間も過ぎている頃に関わらず制服を着ていた。
なんというか、几帳面で真面目な男だ。きっと、こういうのが女性にモテるんだろうなあ。
「うん、大した内容じゃないんだが。リアムに書類を届けるのに付き合って欲しいんだ」
「私がですか? ああ……、なるほど。了解致しました」
その上頭の回転が速いんだから、文句の付け所がない。
これで未だに結婚していないんだから、さぞ数多の女性を泣かせているんだろう。
「殿下?」
「何でもない。行くぞ」
短く言って立ち上がる。
右手に持った紙をひらひらとさせながら、蝋燭に照らされた廊下を進んでいった。
「お前から見て、リアムの様子はどうだ?」
「問題はなさそうですよ。どうやらネコを被るのがお上手なようで、周囲とも上手くやっているそうです」
「俺の前でも被ってほしいものだな……」
嫌味ったらしい顔を思い出して、自然と眉間に皺が寄った。
明らかにルイを王太子として見ていない慇懃無礼な態度は、事によっては侮辱罪で牢に放り込んでも文句を言えないところだ。
クスクスと小さく笑う声が聞こえて、眉間の皺はそのままに背中を振り返る。
「何がおかしい」
「いえ、申し訳ありません。なんだかんだ言いながら、ここ最近の殿下は随分楽しそうなご様子。こんな紙切れ一枚、わざわざ殿下が出向かずとも、私にお任せくださればよろしいはずですが」
「それは……」
「それに、あなたは表面上のお付き合いを嫌っているでしょう。まるで彼は、それを知っているかのように、はじめから殿下に対してのみ素直に接されているなあ、と思ったまでです」
「……」
むう、と黙ってしまったルイに「あくまで私の感想ですよ」と柔らかな声が重なった。
確かに、奴の不遜な態度は腹立たしいところだが、一切の礼節を欠いているわけではないのだ。不遜に振る舞いつつ、絶対に越えてはいけない線は越えない。それにルイ自身も気付いているからこそ、余計な腹立たしさもある。
いっそ、本当に慇懃無礼に尊大な態度を振り撒いてくれれば、即刻首を刎ねてやるところだった。
「そうだ、彼は風の魔法使徒らしいですね」
「風……? ああ、小屋の扉はそういう原理か」
「幽霊じゃなくて安心しましたか?」
「五月蝿い禿げろ」
無礼なやつはもうひとりここにいたな。
ふん、と鼻を鳴らして歩くスピードを速める。ルイより頭二つは高いレオが、特に気にした様子もなくついてくるのが更に癪に障った。
魔法使徒が体内に宿す魔力にも、向き、不向きというものが存在するらしい。大地に宿る精霊と語り合う彼らは、体内に宿る魔力と同じ系統の自然からの恩恵のみ受け取ることができる。
自分の系統ではない精霊に関しては、まるで外国の言葉のように分からないのだ、というのは、長年城に勤める魔法使徒の言葉だった。
そこで、ふと気になることを思い出して進んでいた足が止まった。
「あいつ、確か薬師からも泣きつかれていたな?」
「ええ。なんでも、我が城の薬師が知らない薬の調合をかなり知っていたとか。ついでに言うなら、医者からも泣きつかれていましたよ」
風の魔法使徒は主に、気候の研究につく。
明日の天気は雨だとか晴れだとか、そういう一般的な天気占いとは別に、日照りが続く地域には雨を降らせ、雨が続く地域には太陽を連れてくるのだ。
薬師の職につくのは、土の魔法使徒である場合が多い。
彼らの殆どは農業に携わっているが、その過程で薬草を育て人々の助けになりたいと願う使徒は少なくないのだ。
「ついでにお伝えしておきますが、厨房とメイドからも泣きつかれていました」
「……人間調理器具か」
レオの言いたいことを察して、遠い目をする。
水と火の魔法使徒は、主に災害が起こったときや戦争のときに活躍する。一言で言えば攻撃系の魔法使徒なのだ。
普段は日常生活の手伝いに駆り出されることが多い。
しかし、とんでもない化け物だな。薬学の知識に長けているだけではなく。五行のうち四つの魔法を使いこなすとは。
精霊は火、水、風、土、光の五つに宿っていると言われている。それら五つを示して、五行の精霊。四行をいとも容易く扱うのだから、五行全てを制覇していてもおかしくないはずだ。
弟子であれなのだから、白の魔女の実力は……。考えただけでゾッとして、二の腕をさすった。
「殿下、こちらのようです」
「ああ」
話しているうちに、いつの間にか目当ての部屋にたどり着いたらしい。通りに並ぶ扉と同じ、特徴のない扉だった。
そういえばリアムの非凡な才に驚いてばかりで気にしていなかったが、彼の後ろに怯えるように隠れていた少女には、どのような力があるのだろう。
森の奥で出会ったときの、春の匂いがする少女の姿が脳裏に浮かんだ。
ノックをしようと添えた右手が扉を叩くより早く、部屋のなかで何かが倒れる大きな音がした。反射的にドアノブを回して、扉を開く。「殿下!」とルイを諌めるレオの声は、緊張を走らせたルイの耳には届かなかった。
「おい、リアム! 何事だ!」
言いながら、勢いよく部屋のなかに踏み込んだ。
まず視界に飛び込んできたのは、白いカーテン。レースで編んだらしいカーテンは透けて、奥に見える月がぼんやりと光っている。
ぐるりと見渡せる部屋はベッドとテーブル、ソファ、壁沿いに棚を並べただけの簡素な作りだった。
この一週間で記憶にこびりついたハニーブラウンの髪が、床に散らばっている。「リアム!」と彼に駆け寄ろうとした足が、動き出す前に、止まった。
「お兄さま」
蜂蜜色の瞳から涙をはらはらと流して、少女が泣いている。
色素の薄い髪は月の光を受けて、きらきら光っていた。白い肌は青白く、まるで人形のように作り物めいている。真っ白のワンピースを着た彼女のなかで、唯一の色彩を放つ唇が「お兄さま」と言葉を繰り返した。
砂糖菓子のような甘い声だ。甘く、とろけて、脳を溶かしてしまう。
涙に濡れた瞳が、ゆっくりとルイを向いた。気後れして一歩後ずさったルイの肩をレオが引いて背中に隠す。彼の手には既に剣が握られていた。この空気の中でも異質な鈍い煌めきが、淡い月の光を受けて輝いている。
「……あなたは、誰ですか」
そう問いかけるレオの声には、少しの困惑が混じっていた。
不思議な質問だ。普段の彼であれば、誰何などせずすぐさま捕らえていただろう。
しかし、彼女に対する既視感に覚えがあった。
「わたし……わたしは、シェリです。シェリ・ジュブワ。殿下、レオ様。お願いです、お兄さまを助けてください」
「シェリ……ジュブワ?」
すぐに思い出したのは、気の弱そうな少女の姿だった。
それはおかしい。だって、彼女は十になる年頃程度に幼く、そう、如何にもシュヴァリエの好みそうな少女なのだ。
しかし、目の前にいる彼女はルイと同じかそれより年下に見える程度には大人びていて、記憶のなかのシェリとは間違っても重ならない。
困惑して立ち尽くすルイの前を走る影があった。横たわるリアムの首筋に指を当てて、瞳孔の動きを確認している。すぐに、少女を安心させるようにやわらかな笑みを浮かべた。
「大丈夫、寝ているだけです。きっと、疲れて気を失ってしまわれたんでしょう。詳しくは医者に見せないと分かりませんが、そう気を張らなくても大丈夫ですよ」
「よかった……」
ほっと安堵の息をつく彼女の肩から力が抜けるのが分かった。安心したようにリアムの顔を見下ろして、すぐにレオを見上げた。花が綻んだように微笑む頬が桜色に染まっているのを見て、ルイの胸が強く締め付けられるのを感じた。
「ありがとうございます、レオ様」
「いいえ。すぐに起きてくだされば、このまま医者のところに連れていきましょう。医者を呼ぶのは……やめた方がよさそうですし」
言いながら、レオの目が少女に向いた。
薄い色素の髪はたしかに魔法使徒特有のもので、波打つ髪はリアムの妹と同じ特徴だった。
耳まで赤く染め上げた彼女は照れるように俯きながら、長い髪の隙間から恐る恐るレオを見上げた。
「えっと……疑問に思っていらっしゃるのは存じております。お兄さまが目を覚ましたら、説明させてください。私にかかった、呪いについて」
「呪い……?」
呟いたのはルイだった。
リアムと初めて会った日、彼がそう言っていたのを思い出した。自分たちは白の魔女に呪われている、と。