初恋魔女9
ベッドとテーブルの他には本棚を並べただけの、必要最低限のものしか置いていないその部屋は、大国フランクイヒ王国の王太子に相応しい華美を具えてはいなかった。
それでも、ルイらしいと思う。見た目よりも機能性のみを追求するところは、彼らしいと言えばらしい。
普段は許可を与えられた数人のみが立ち入ることを許されるその室内で、シェリは気まずそうに背中を丸めて小さくなっていた。
やわらかすぎるソファは、座るだけで体が沈み込んでしまう。落ち着かなくて何度ももぞもぞと体を動かしていたら、トイレに行きたいと勘違いしたメイドに化粧室の場所を耳打ちされてしまった。顔を真っ赤にして首を横にぷるぷる震る。
陶器の価値に詳しくはないけれど、ティーカップひとつだって驚くほど高いお値段なのだろうと思うと、紅茶を飲む手も小刻みに震えていた。その向かい側にはいつも通り澄ました顔のリアムが、足を組んで優雅に紅茶を飲んでいる。
気まずさと、恐ろしさから、シェリの顔はずっと俯いたままだった。
「フィルがいなくなったというのは真か?」
メイドたちが退出したのを見計らって、ベッドに体を沈めたままのルイが尋ねる。
背中を斬られてから一日中意識を失っていた間、蝋のように生白かった頬にもようやく僅かな赤みが戻っていた。
室内には現在、ルイ、シェリ、リアムの他に、ベッドの横に控えているレオの四名のみがいた。
苦いものを噛んだ顔をするルイとは反対に、レオは眉を動かすこともない。
「アルトワ伯の報告によれば、シュヴァリエがルイ殿下の暗殺を仄めかすようなことを呟き、近くにいたフィリップ殿下を攫って窓から飛び降りたようです。その際にアルトワ伯にナイフを向けて脅したとかなんとか」
「待て……窓から飛び降りただと……?」
「はい。フィリップ殿下のお部屋であります、五階の窓から生身で飛び降りたとか」
「………………頭が痛い」
顔を覆って天井を見上げ、殆ど溜め息ばかりの声が呟いた。
一日中眠り続けた彼は、目覚めてすぐに他の何よりもフィリップの名前を口に出した。今どこにいる、無事か。そう尋ねた問いに行方不明という答えが返ってきてすぐ、もう一度ぷつんと意識を失ってしまったのだ。
あれほど気にかけていた弟の行方が知れないことへの心労と、連日の緊張が溜まっていたらしい。
それからまた半日眠り続けて、真上に上っていた太陽は沈み、代わりに月明かりがあたりを照らしている。
今度は意識を失わないよう何度も眉間を親指で押して、深い息を吐き出した。
「……取り敢えずそれはいい。それよりも叔父上の証言が気になるな。シュヴァリエがそのように軽率な発言をするはずがない」
「同じく部屋に居合わせた者たちにも聞きましたが、全員同じ証言を繰り返しました。ただ、些細な部分にズレが生じておりますので、何者かに命じられて虚言している可能性は高いかと」
「やはりそうか……。叔父上は昔から王位を狙っていたお人だからな、どうせ叔父上に強要されての嘘だろう。気にかける時間だって無駄だからさっさと忘れてしまおう」
ハナから取り合うつもりはなかったのだろう。
そんなことより、とレオの体を躱すように首を伸ばしてシェリを向いた。
「フィルが昨夜、君の部屋を尋ねたと聞いている。どのような話をしたか、詳細を教えてくれないか?」
突然声をかけられて、びくりと肩が揺れた。
ティーカップを傾けていたリアムが目を細くしてルイを睨む。
「えっと、あの、と、特別なお話をしたわけではないのです。だから、お役に立てるかわからなくて」
「構わないよ。俺が君から直接話を聞きたかっただけなんだから」
微かにはにかむと、ほんの少しフィリップに似ている。
月が空に浮かんでいる今、シェリの姿は元の年齢に相応しいものに成長していた。ルイとの歳の違いは、ほんの二、三しか変わらない。
人と話すことに慣れていないシェリは、たったそれだけの言葉でルイを意識してしまう。
ぽすぽす頬を赤くして、手の中のティーカップに視線を落とした。
「昨夜……私の部屋をフィル……フィリップ殿下が訪ねられました。シュヴァリエ様と一緒にお姿をくらませたのがその日の昼間のことでしたから、城の中はまだ俄かに騒々しくて……あの、ま……窓から……シュヴァリエ様に抱えられて私の部屋へ……」
「……一応聞いておくが、お前の部屋は何階だったかな」
「……四階です」
「………………続けてくれ」
酷く重たい溜め息がこぼれ落ちた。
恐ろしくてそちらを見ることができないが、レオが気遣わしげにルイの背中を撫でている気配がする。
昨夜、フィリップが部屋に現れたときのことを、シェリはしっかりと覚えていた。
その日は星明かりが少なく、前の日にリアムと喧嘩をしてからまともに会話もしていなかった。目も合わせることなく、夜になれば必ず側にいてくれるリアムが、その日は仕事があるからと部屋に戻ってこなかったのだ。
シェリは夜が嫌いだった。
元の姿には戻れるけれど、昼間のうちは使える魔法が全く使えなくなるのだ。まるで、丈夫な鎧を脱いだような不安が体に纏わりついてくる。
ひとりは怖い。窓の向こうの暗闇から、見たこともない化け物が襲ってきそうだった。ベッドの下の隙間から手が伸びてきて、シェリを暗闇の中に連れ込んでしまうと思った。
ベッドの上でシーツにくるまって丸くなる。
早く、朝が来ればいい。そうすれば、また魔法が使えるようになる。奇跡みたいな魔法が、シェリを守ってくれる。
「シェリ」
窓の向こうに人影が見えた。コンコンと窓を叩きながら呼び掛けられる声に驚いて、喉の奥から小さな悲鳴がこぼれる。
けれど、すぐにその声が見知った人間のものであることに気付いた。
慌てて窓に駆け寄って、鍵を外す。開いた扉の向こうには、鮮やかな赤色をした髪の青年に抱かれる、フィリップがいた。
昨日着ていたピンク色の可愛らしいドレスは脱いで、フリルの少ないブラウスに黒のストライプが入ったベスト、パンツスタイルだった。黒い外套を羽織って、長い髪は後ろでひとつに結ばれている。
普段のフィリップの装いとは全く違うその姿に、瞬きを繰り返した。苦く笑った彼はシュヴァリエの首に回していた腕を解いて、部屋の窓枠を掴んだ。くるぶしまでしかないブーツが窓枠に足を掛ける。
「夜分遅くに、こんな場所からレディの部屋を訪ねてすまない。少々事情があってな、堂々と表を歩けないんだ」
「噂には聞いています! あ……その……、シュヴァリエ様がアルトワ伯に襲い掛かって、そのままフィリップ殿下を攫ったと……」
「ははは! たった一日でお前の悪評が広まってしまったな! お前の父上が聞けば、きっと卒倒してしまうぞ」
「俺の身に余る悪名ですよ」
シュヴァリエの胸に体を預けたフィリップのブーツを、片手で器用に脱がせていく。
シュヴァリエの体はまだ半身も外に露出しているから、シェリの方が落ちてしまわないかとハラハラしてしまった。
「しかし、シェリ様が本当に成長なさっているとは驚きました。大人の姿になると、愛らしいというより可憐な少女ですね」
「ん? お前の好みからは外れてしまったか?」
「滅相もない。相変わらず愛い方です。綺麗なドレスで飾り立てて俺の部屋に閉じ込めてしまいたいくらいだ」
「ほう。余にはそのような口説き文句を言った試しがないのに、随分と惚れ込んでいるんだな」
「殿下は部屋に閉じ込めるより、外に連れ出して自慢して回りたいんですよ。俺の主人はこんなに素晴らしいお人なのだとね」
「うん、まあ及第点だな」
上機嫌に笑って、靴下のまま窓の下の棚に片足を乗り上げる。部屋の中に舞い降りたフィリップの後に続くように、シュヴァリエも履いていたブーツを脱いで絨毯の上に降り立った。まるで体重が消えてしまったような、軽やかな足取りだ。
二人のやり取りを、目を白黒させて見守る。
なんだか、纏っている雰囲気が少しだけ変わったような気がする。
フィリップはこんな風にあからさまにシュヴァリエへの好意を見せなかったし、シュヴァリエも窓の外を登るなんて危険なことフィリップにはさせなかった。
「……お二人は、おつきあいをはじめられたんですか?」
「へ!?」
「は!?」
こてん、と首を傾げるシェリに、二人の顔が真っ赤になった。
図星かしら? それにしては、なんだかちょっとだけ違う気がする。
真っ赤になったままフィリップの方がぶんぶん手を横に振る。
「違う違う! こいつにはこっぴどく振られたんだ! 今は健全な主人と従者! それだけだよ!」
「こっ……! こっぴどくなどは振っていません! ただ、俺は殿下のためを思って」
「あー、いい、いい。そういうのは聞きたくない。世間体だとか立場だとか、そういう正論振りかざして振るのはやっぱりズルいんだよ。正論なんか今更聞きたくないし、そういうの全部分かってるうえでそれでも余はお前のことが好きなんだ」
「だ……っ、だから俺は……」
「だから、お前は理由なんて言わなくて、ただ自分が余のことを好きか嫌いかだけ答えればいいんだよ。それでこの話は全ておしまいだ」
「でも、シュヴァリエ様がもし殿下のことを嫌いだと仰しゃったらどうなさるんですか?」
ふと不思議に思って聞いてみて、すぐに失言だと思った。
そんなもしも、フィリップはきっと考えたくもないはずだ。
慌てて頭を下げて謝ろうとしたシェリに、けれど、少年は唇の端をあげて優雅に微笑んで見せた。
「そんなもの、余に惚れさせればいいだけだ」
自信に満ち溢れた仕草で、肩に掛かっていた髪を後ろに薙ぎ払う。
思わず口元を両手で覆って、わあ、と声を上げてしまった。自分に言われたわけではないのに、頬が熱くなっているのが分かる。
いつものドレス姿じゃないからかもしれない。
それでも、思ってしまうのは。
「殿下……とてもカッコいいです……」
ついポツリとこぼれた言葉に、フィリップの後ろに従っていたシュヴァリエの方が嬉しそうに破顔した。
フィリップの小さな肩に両手を乗せて、だらしなく頬を緩めている。
「でしょう、俺のご主人かっこいいでしょう」
「き、気色悪い顔をするな! 貴様は真面目な顔の方がかっこいいんだから顔を崩すな! 笑うな! キリッとしろ!」
「んぅっ!」
「まだニヤついとるわバカタレ!」
唇を引き締めてなんとか真面目そうな顔をするけれど、やっぱり口元がニヤついている。
お互い顔を真っ赤にして吠えている様は微笑ましい。
思わず、ふふふっと声を漏らして笑うシェリに、フィリップが気まずそうに眉を寄せた。
「あー、違うこんな話をしにきたのではない。実は、シェリに折り入って頼みがあるんだ」
「頼み?」
「ああ。もうすぐ三部会が開かれるのは知っているな?」
「少しだけなら……」
「話が早くて助かる。本来なら兄上が出席するはずだったんだが、代わりに余が出ることになったのだ。まあ、尤も、悪逆非道な従僕に攫われてしまったせいで、出席が危ぶまれているがな」
その悪逆非道な従僕は、何か言いたげに口をもごもごさせてそっぽを向いてしまった。
拗ねてるのかしら? と顔を覗き込みたくなる。
「その提案をしたのはアルトワ伯だ。国王陛下の弟君で、余らの叔父上に当たる。昔から自分が王位に就くことを狙っているような人だった。今回の兄上襲撃にも、一枚噛んでいると余は考えている」
「そんな……! それじゃあ、早くそのことを殿下達にもお伝えしなければ……!」
「落ち着け。まだ証拠が揃っていない段階では、こちらが何を言ってもまともに取り合われないはずだ。だから、情報集めのためにも行きたいところがあってな。その間に、シェリにもやってほしいことがあるんだ」
「はい! 殿下のお役に立つためなら、何なりとお申し付けください!」
「うん」
ふと何かを考えるように、細い指先を顎に添えた。
可憐な顔立ちを、悩ましげに顰めている。
「その……殿下というのだけどね、やめないか」
「ふえ!? ど、どういうことですか? 何か気に触ることを言ってしまいましたか?」
「そういうわけじゃなくて、ただ、シェリと余はもう友達だろう? 君には兄上の件で随分と助けられたのに、また厄介事を頼もうとしている。それなのに余ばかり敬われては平等じゃない」
「友達……」
リアムには、彼とは友達になんかなりっこないと言われた。
けれど、今、そのフィリップから自分たちは友達と言われている。
ぽすぽす、顔が赤くなる。指先を擦り合わせて、恐る恐るフィリップを伺い見た。
「それでは……なんとお呼びすればよろしいでしょうか?」
「フィルと呼んでくれ。兄上も余のことをそう呼ぶ」
「っ! はい、フィル様!」
花が綻んだように微笑む様は、愛らしい。
フィリップも釣られて、うんと笑った。
控えめな仕草でシュヴァリエがフィリップの肩を叩く。そっと耳元に唇を寄せて、なにかを囁いた。
「そうか。すまない、シェリ。時間がないようだ。手短に話すが、今から話すことはくれぐれも他言無用で頼む。ただし、兄上に伝えてほしいことがあるんだ」
「何と申し上げればよろしいでしょうか?」
「……革命が始まろうとしている。その扇動者が城内に潜んでいる、と」
フィリップに言われた言葉を、そのままに繰り返す。
『革命』も『扇動者』も、シェリには聞きなれずピンとこない単語だった。
しかし、ルイは眉間に皺を寄せて、考え込むようにコメカミに指を添えている。怖い顔だ、と肩を竦めた。
恐る恐る見渡したレオも、リアムも、やっぱり怖い顔をして口を噤んだままにしている。