初恋魔女6
■流血表現有り
床を蹴る足が重い。
沼のなかを懸命に這い回っているみたいな、ドロリとした淀みが身体中にまとわりついているようだった。息ができない。顔を真っ赤にして、それでも懸命に足を前に出す。
世界中のすべてが、いい加減大人になれとフィリップを責め立てる。
そんなのわかっている。いつまでも子どものままでいられないなんてわかっている。それでも、お願いだから、子どものままでいさせて。もう、これ以上、傷付けないで。
目の前が真っ暗だった。
足が重たい。
息ができない。
「だ……れか、……けて」
喉の奥から息が漏れる音がした。
「だれか……たすけて。たすけて……! しぇり……あにうえ……たすけて……たすけて、」
こんなに、苦しいなら、恋なんてしたくなかった。
シュヴァリエと、出会いたくはなかった。
ずっと、ひとりぼっちで闇の中にうずくまっていれば、こんなにつらい思いはせずにすんだのだろうか。
今はあのときよりも深い闇の中に突き落とされたようで、身動きがとれない。
どこに向かっているのか判然としないまま階段を駆け下りる。唇はずっと、誰かに助けを求めていた。このまままっすぐ進めば、誰かに出会えるかもしれない。
誰か、誰でもいいから、早くこの闇の中から自分を引き上げてほしい。
「あっ……!」
足がもつれて階段を踏み外した。まだ階段の半ばまでしか降りていないその先は、暗く淀んだ闇のようだった。
このまま死んでしまうのだろうか。
それならそれで、未練はなかった。
もうこんなに苦しい思いをせずに済むなら、いっそ殺してほしい。
諦めたように目を閉じたフィリップの腕を掴み、引き上げられる感覚があった。夜色の瞳が大きく開かれる。
「シュヴァ……!」
「ご無事ですか、フィリップ殿下!」
真っ黒の瞳が細められてフィリップを覗き込んでいる。
普段は澄ましてばかりいるレオの額に汗が浮かんでいるのを、呆然とした気持ちで見つめた。
「な……んで」
その先に続く言葉は、何でシュヴァリエじゃないの、でもあったし、何でお前が、でもあった。
まるであの日の再現だ。
絶望のなかを深く落ちていったその先で、レオがフィリップを見つけた。
ただ、あの人じゃない。
フィリップが待ち望む、あの人は追いかけてくれない。
「うっ……うわああぁ! れお、レオッ! ぅわあああ!」
大声で泣きながら、レオの胸に顔をうずめて叫んだ。
まるで全てを知っているかのように、優しい手がフィリップの背中を撫でる。
「ッぁ……余のことを好きじゃなくても、いい。無関心でも、嫌いでも、いいんだ。ただ、シュヴァリエには余の隣にいてほしい。もぅ……、可愛いなんて言わなくていいから。シュヴァリエがいないと、い……息がッ、できないんだ……ッ! あいつが、余を見つけてくれたから。受け入れてくれたから。あいつが、いないと……余は、生きているのか分からなくなるっ」
夜眠るたびに、ベッドの中で思い浮かべるのはシュヴァリエの顔だった。
優しくて、紳士的で、フィリップを受け止めてくれるただひとりの存在。
「シュヴァリエを思う気持ちが、恋であればいいと、何度も思った。恋はキラキラ眩しくて、純粋で、間違っていないから。でも……っ、違ったんだ! これは、恋なんかじゃなかったッ!」
胸を締め付けるこの思いは、彼を見るたびに募る想いは、隣にいてくれる安心感は、恋だと思った。
幼い子どもの感情の引き出しは、それ以外の正解を見つけられなかった。
大人に近づくたびに、恋が何なのかを知るたびに、己の感情の正体に気付きそうになるたびに、枕を強く抱き締めて眠った。
やさしい夢が見られますように。
シュヴァリエと恋人になっている夢を見られますように。
どうか、胸を焦がすこの想いが、恋でありますように。
「この想いの正体は、執着だ! 醜くて、汚い。余はシュヴァリエがいないと生きられないんだッ!」
悲痛に叫ぶ声は引きつって、鼻水が顔を汚した。
次から次に溢れてくる涙がレオのシャツを濡らす。
大人になんかなりたくなかった。
無垢で、鈍感で、愛らしい子どものまま、己の感情の正体に気付きたくはなかった。
だって、執着なんて可愛くないでしょう。
可愛いものが好きなシュヴァリエは、きっと、こんな自分を受け入れてはくれない。
どこにもいかないで。僕を捨てないで。
もう、ひとりにしないで。
可愛い子でいるから。
無垢で、鈍感な、子どものままでいるから。
大人になんて、なりたくない。
「……殿下、もう泣くのはおやめください。恋と執着なんて紙一重の差でしかないのです。あなたがどのような薄暗さを纏おうと、シュヴァリエを想う気持ちは偽りではないのでしょう?」
「だが……ッ、余が奴を想う感情は、綺麗なものではないのだ。みなが語るような、キラキラと輝いて、眩しいものではない」
「たしかに、あなたが抱く感情は十代の処女が思い描く、清らかな恋心ではないのかもしれません。けれどね、恋が綺麗などとは、ただの御伽噺なんですよ」
ぐずるフィリップの背中を、大きなてのひらが優しくさする。
告げるバリトンは低く腹の下に響き、不思議とフィリップを安心させた。
「恋の正体は嫉妬と寂しさが殆どだ。しかし、殿下はその狭間に喜びを感じたことはありませんか? 名前を呼ばれただけで、手が触れただけで、死んでしまいそうになるほど胸が締め付けられたことがあるのなら、それは誰がなんと言おうと恋なのです」
「でもっ……」
「執着せねば生きられぬのなら、とことん執着してやればよいじゃありませんか。執着の名を愛に置き換えて、とことん愛してやればいいのです。傍にいてほしいと駄々をこねなさい。寝るときには必ず手を繋いでほしいと泣きなさい。自分だけを見てほしいと怒りなさい。ほら……、そうすれば、それは、もう、恋なのですよ」
小さなてのひらを覆い握って、フィリップの背をピンと伸ばさせる。
涙に濡れた睫毛がぱちぱちと瞬きするのに合わせて、うっそうと微笑んだ。
「さあ、泣くのはおやめください。あなたはこの国の王太子なのですから。欲しい男の心のひとつやふたつ手に入れてこそ、王太子の我が儘に相応しいとは思いませんか」
なにかが、すとん、と胸の奥に落ちる音がした。
その通りかもしれない、と勝手に唇が動く。
彼が白を黒と言えば、本当に黒に思えるような不思議な力があった。
「おまえは……変わったやつだな」
「お褒めに預かり光栄です」
「うん……。うん、ありがとう、レオ」
ようやく、引き攣った頬が微かに動いた。
目尻に溜まっていた涙がひとしずくこぼれ落ちる。
執着、してもいいのだろうか。
愛、してもいいのだろうか。
己のこの薄暗い感情を、恋だとのたまってもいいのだろうか。
そう言葉を継ぎ足せば、この男は「正解など神にしか分かりませんよ」と全てを見通したような澄ました顔で答えるのだろう。
もしも、あのとき。窓から落ちたフィリップを抱きかかえたのがレオであれば、また違った未来があったのだろうか。
その未来では、フィリップはこんな風に泣かないで済んだのだろうか。
そんなたらればはシュヴァリエに恋をしている今考えても無意味なことではあるけれど、ついつい夢想してしまう。もしもそんな未来があれば、その世界でのフィリップが笑っているといい。
「……ッ! フィル!」
悲鳴に近い声が回廊中に響き渡った。
驚いて見上げた階段の上に、肩で息を切るルイを見つけて目を丸くする。
普段は隙を見せない王位第一席の王太子が、髪をぐしゃぐしゃに乱して額には汗を浮かべているのだ。レオの腕の中にいるフィリップを見つけた彼は、深く息を吐き出して濡れた前髪を掻き上げた。
「よかった……何ともないか?」
「兄上……、ご心配をお掛けして申し訳ございません」
「いや、いい。お前が無事ならそれでいいんだ」
「まさか……、余のことを心配してくれたのですか……?」
兄、とは慕うけれど。
フィル、と愛称を呼んではくれるけれど。
子どもの頃、兄とまともに会話をした記憶はなかった。
よく知りもしない兄の寝首を狙うことを恐れられて、隔離の日々。しかし、どんな経緯で王位がひっくり返るかも分からないせいで、殺されることはない。生殺しの日々。
誰かからの愛情なんて、一度も受けたことがなかった。
家族も、兄弟も、友達も、フィリップは普通の人間が享受する愛を知らない。
「当たり前だろう。お前は俺にとって大切な、たったひとりの弟なのだから」
少し照れるように突き放すその言い方は、ルイらしいと思った。
ぶっきらぼうで、不器用な、兄は。
正しくて、優しくて、きっと国民が誇るよき善王になるのだろう。
ぶわぁっ、と涙があふれてきてフィリップは慌てて両目を覆った。
「わっ、わ、なんで……? あれ、とまんな……っ、まって、ちがっ……ちがうの!」
「ど、どうしたフィル! どこか痛むのか!?」
驚いて階段を駆け降りようとしたルイの背後に、人影がゆらりと動いた。
王家直属の騎士団が着用する真っ白の隊服を着た、長身の男。ブラウンの長い前髪は目を半分隠して、青褪めた白い顔が無感情にルイを見下ろしている。
「……ッ! 殿下、お逃げください!」
腕のなかに抱えていたフィリップを突き飛ばして、レオが叫んだ。段差を踏み外したフィリップの体が踊り場に崩れ落ちる。
散々走り回ったせいで乱れた髪が、宙を泳ぐ。伸ばした手を、もう、誰も掴まない。
「ルイッ!」
朱が散った。
いつの日か見た赤よりも鮮烈で、黒が混ざった、朱だった。
背中から血を流すルイが階段を転げ落ちる。小さな体を抱きかかえたレオの手は、ルイの背中から流れ落ちる鮮血で赤く染まっていた。
「兄上……?」
「貴様ッ、一体どういうつもりだ……ッ!」
踊り場に倒れたフィリップは、どうして兄が血を流しているのか、レオが怖い顔をして怒っているのか、すぐにわからなかった。
ただ、階段の上で赤くよごれた剣を片手に握る、その、顔も知らない騎士から目が離せなかった。
長い前髪の下から覗く窪んだ瞳が、ただ恐ろしいものに見えた。
彼が持つ、よごれた剣が、高く天に掲げられた。反射的にフィリップの肩が跳ねる。レオの右手が腰のサーベルに伸びた。
「フランクイヒ王国、万歳ッ!」
それは、獣の咆哮に似た雄叫びだった。
引き攣った声は裏返り、唇の端に唾が溜まっている。
レオが駆け出すよりも早く、両手でしっかり握り締めた剣が、自分自身の心臓を勢いよく貫いた。
白い衣装が、赤に染まる。
つい今朝までは、大好きな人の象徴の色だった。
「ぐっ……うっ、フランクイヒ国王陛下ッ……、バンっザイ……ッ!」
言い捨てた男の体が、ぐらりと傾いた。
力をなくした人形が階段を転がり落ちていく。
落ちた先は、フィリップの目の前だった。
窪んだ目はギョロリと見開かれて、床に這い蹲るフィリップを睨みつけている。彼の胸に刺さったままの剣は落ちた衝撃で喉元まで裂け上がっていた。
人形から溢れ出した血液が床に頬を貼り付けたままのフィリップの顔を汚した。まだ生ぬるい液体に、喉の奥からか細い悲鳴がこぼれた。
「あ、あにうえ……」
「誰か! いないのか! 誰か人を呼んでこい! 」
小さな囁きは、レオの絶叫に簡単にかき消された。
大事な宝物を抱えるように、強くルイを抱き締めている。彼の顔は白く血の気が失せて、小さな体を抱き締める指先ばかりが赤くなっていた。
「誰かッ! ルイ殿下が賊に襲われた!」
両手を床について、上半身を起こす。
頬に付着した血液が、ぽたぽたと床に落ちた。
「あにうえ……」
レオの腕に抱かれているルイは、短い呼吸を繰り返していた。レオよりも血の気が失せた顔は蝋のように生白い。
閉じていた瞼が震えて、うっすらと夜色の瞳が覗いた。
遠くから、レオの声に呼ばれたらしい複数の足音がバタバタと近付いてくる。
「……フィル……、怪我をしたのか……? レオ……、フィルを診てやってくれ。血が……、出ている。俺はいいから、フィルを」
「なりません。なんと詰られようと、それだけはなりません」
奥歯を噛みしめるレオは、荒い息を吐きながら言い捨てた。
ルイを抱き締める力が余計強くなる。「いたいよ」と、彼は困ったように眉を寄せた。
階段を這うように上っていく。掌についた血が滑って、頬を段差に叩きつけてしまった。
「あっ……あにうえ」
「大丈夫か? フィル、怪我は」
「……ッ」
唇を噛み締めて首を横に振る。
この全身を汚す血は、自分のものではない。
けれど、ルイを汚す血は、間違いなく彼のものだった。
自分の方が痛いはずなのに。泣きたいくらい、痛いはずなのに。
兄は、よかった、と言って微かに微笑んだ。
遠くにあったはずの足音が、すぐ頭上まで迫りくる。
「殿下! 何事ですか!」
騒ぎにようやく駆け付けた騎士たちが、レオとルイをあっという間に囲んでしまった。
早口で何かを捲したてるレオの言葉に頷いた彼らが、二人の周りを囲んだまま階段を駆け上がっていく。何人かは踊り場に倒れたままの、人形の元に走り寄った。
「まって、まって……あにうえ、行かないで」
きっと、医務室に行くのだろう。
早く手当しなければ、本当に、兄が死んでしまうかもしれない。
それでも、待って、と手を伸ばした。
待って、兄上、待って。まだ、言わなければならないことがあるんだ。謝らなきゃいけないことが、たくさんあるんだ。だから、待って。もうちょっとだけ、待って。
伸ばした手を阻むように、フィリップの周囲も囲まれた。人を掻き分けるように、階段をよじ上る。
ぼくを、置いていかないで。