初恋魔女2
フランクイヒ王国には現在、一人の王と一人の王妃、二人の王太子がいた。
現王位第一席ルイ・ド・フランクイヒ。八年前に長男が死去後、王位が一つ繰り上がり次期国王の位に座す。
現王位第二席はフィリップ・ド・フランクイヒ。兄があとひとりいなくなれば、次期国王の椅子は彼のものになる。
「今からフィリップ殿下にもお会いすることになりますが、どうかあまり驚かないであげてください。殿下が今もあのように振る舞っていらっしゃるのは、我々が臆病で傲慢だったからなのです」
シュヴァリエの元に赴く前、レオはそう言って微かに微笑んだ。まるで己を責め立てるような笑みは、深い言及を拒んでいるようでもあった。
けれど、彼の言葉がどういう意味かというのは、シュヴァリエが護衛を務めているというフィリップと対面してすぐに分かった。
身に纏うドレスはシルクの生地でできて、ふんだんにリボンとフリルがあしらわれている。
大きな丸い目は夜の色。青みがかかった黒髪は高く結い上げられ、リボンと花で飾られていた。
城の中庭でお茶を飲む彼は、シェリが子どもの頃に読んでいた絵本のお姫様そのものだった。
「フィリップ殿下、こちらはシェリ・ヴンサン・ラ・ジュブワ嬢。白の魔女のお弟子様でいらっしゃいます」
だから、レオに王子だと紹介されてもすぐにピンとはこなかった。
目尻が跳ねた目を更に吊り上げて、「白の魔女の?」と呟く声が思いのほか低かったから、ようやく、本当に彼がお姫様ではなく王子様なのだと悟る。
シェリを睨め上げる剣呑さにレオの後ろに隠れようとして、慌ててペコリと頭を下げた。ドレスの裾をつまんで腰を落とす。
「はじめまして、シェリ・ジュブワです。シェリとお呼びください」
レーヌの姓を名乗りたがるリアムと違って、己をヴンサンと呼称することを嫌うシェリは名前を短く言い直した。しかし、それを大して気にした様子のないフィリップは、ふうん、とだけ言ってピンク色の唇を歪ませた。
その色は、たしか、今王都で流行っている新色リップの色だ。彼が纏うドレスも、髪型も、そう。
かわいい、と思わずこぼれた声に、シェリは慌てて唇を掌で覆った。
「す、すみません、殿下! 私ごときが不躾でした」
神経質そうな顔が歪むのを恐れて、急いで頭を下げる。
しかし、恐る恐る頭を上げて見上げた彼は、高飛車にも見える気の強そうな顔をくしゃりと緩ませていた。
「本当に? 可愛いと思う?」
いっそ嬉しそうに声を弾ませる姿は愛らしい。
シェリより幾つか年上なのだろうフィリップは、笑うと年相応に幼く見えた。
ドレスは強要されて着ているのではないだろう。寧ろ積極的にしていると思えるその女装に、シェリは余計分からなくなってレオを見上げた。
彼は相変わらず、困ったように眉を下げている。そういう顔を、この数日で何度も見てきた。
「このドレスは今朝シュヴァリエが選んでくれたんだ。今王都で流行っているらしいんだが、どうだろう。余に似合うと思うか?」
「はい。あの、殿下にとてもお似合いで素敵です」
「そうだろう。シュヴァリエのセンスは信頼している」
聞き慣れた名前に視線を向けたシュヴァリエは、シェリと目が合うとレオと同じような顔をした。
彼が可愛いものを好きなことは、この短い付き合いのうちにシェリも知っている。そして、フィリップはきっとシュヴァリエが好きな可愛い子だった。
それなのにどうしてそんな顔をするのだろう、という答えは、後になってリアムから与えられた。ベッドの上に寝転がって難しそうな本を読みながら、簡単すぎる計算を解いたあとの退屈さを纏って言う。
「それは、フィリップ殿下が王位第二席だからだよ」
「第二席だと、どうしてそのようになるの?」
「ルイ殿下の兄君が亡くなって次期王位がルイ殿下に繰り上がったとき、フィリップ殿下はまだ五歳の子どもだった。けれど、もし彼に野心が芽生えたらルイ殿下を殺して、自分が国王になろうとするだろう? そうなったとき、国は権力を巡って混乱してしまう。フィリップ殿下にそういう野心を抱かせないために、五歳のうちから女性の格好をさせて、女性的な性格になるよう育てたらしいよ。結果、今じゃすっかり女装癖が板についたっていう話だ」
「そんなの……」
そんなの、あまりにも酷い、というのは言葉にならなかった。
声を失うシェリに、怠惰を纏った目が向く。
「ベルナールド殿も言っていたんだろう? 当時の臣下たちは臆病故にフィリップ殿下を信じることができず、傲慢故に小さな子どもの未来を己が御してもいいと考えた。殿下が女の子の姿をしているのは、なんてことはない、ただそれだけの理由だよ」
話は終わり、と本に視線を戻した兄に、それ以上重ねる言葉が見つからず押し黙る。膝の上で握った手は氷のように冷たく、青白い色をしていた。
国のために、まだ犯してもいない罪を防ぐために、己のあったかもしれない未来を摘み取られるというのは、どういう気持ちなのだろう。
太陽の下で見たレオとシュヴァリエの顔を思い出して、余計に頭から血の気が失せた。
その決定が下ったときに、彼らは既にフィリップの近くにいたのだろうか? もし、いたとして、彼らも国のためにフィリップの未来を摘み取る計画に加わっていたとして、彼らは一体どんな気持ちで、今、あの少年の隣に立っているのだろう?
そうやって青褪めるその瞬間は、まだ先のこと。今は事情を知らないシェリは、上機嫌なフィリップに勧められるままにテラス席に座って紅茶を飲んでいた。
今年の夏に摘んだ茶葉だと言う紅茶からは柑橘の香りがして、口に含むとフルーツのような甘さがあった。美味しい、と驚いて呟いたシェリに、少女の姿をしたフィリップが「そうでしょう」と嬉しそうに頷く。
「これもね、今日のお茶のためにシュヴァリエが用意してくれんだ。クッキーも食べるか? シュヴァリエはお菓子作りも上手で、よく持ってきてくれるんだ」
「そうなんですか。全然知らなかったです」
「殿下のお口に合えば何よりの光栄です」
フィリップの後ろに立つシュヴァリエが優しく微笑んで囁く。「うん」と頷くフィリップの頬には、僅かな赤みが差していた。
「そうだ、殿下にお気に入りいただければと思って新しいリボンを持ってきたんですよ。本当は朝のうちにお渡ししたかったんですけど、お支度が忙しいご様子だったので今になってしまいましたが」
「それは……君に会うのが久しぶりだったから」
「ええ。お変わりないご様子で、シュヴァリエは安心致しました」
「……うん」
「お着けしてもよろしいですか?」
「…………ああ、頼む」
シェリと話しているうちは饒舌だった少年が、シュヴァリエと話しているうちは頬を赤く染めて寡黙になる姿が、シェリには驚きだった。
土に膝をついてフィリップの前に腰を落としたシュヴァリエが、壊れ物に触れるような手付きで長い黒髪にピンクのリボンを巻き付ける。レースでできたそれは淡い色をしていて、お姫様のようなフィリップによく似合うと思った。
「うん、やっぱり。とても可愛いです」
キラキラ、キラキラ、フィリップの両目に涙の膜が張って、輝いている。
照れたように唇を噛み締めて、蕾が開く瞬間の、控えめな花が綻んだ。
「そう、か……。可愛いか」
自分の髪に結われたリボンに優しく触れて微笑む姿は、まさしく恋する乙女のものだった。
殿下は本当にシュヴァリエ様のことが好きなんだな、とシェリは思った。思ったら、勝手に声がもれてしまっていたらしい。
シェリの後ろに控えていたレオが小さな声で「シェリ様」と囁いて、肩に両手を回した。見上げた彼は、困った顔をしている。
驚いて視線を戻した先のフィリップの顔が、先ほどよりも真っ赤になっていた。その顔を、知っている。今朝、シェリもそういう顔をした。レオに名前を呼んで欲しいと言われたときと同じ、驚いて、恥ずかしくて、少しこそばゆい。
そう、か。そう、なんだ。
シェリと、フィリップは。
恋、を、している。
「ッ! シェリ・ジュブワ、君に話がある!」
「はっ、はい殿下!」
「シュヴァリエとベルナールドは少し席を外してくれ。いいな、余がいいと言うまで絶対に近づくではないぞ!」
「しかし殿下、我々には護衛という任が」
「ならば余らが視認できる程度には近くにいればいい! とにかくっ、話が聞こえる距離に近づくな!」
甲高い声に叫ばれて、二人は顔を見合わせた。
どうしましょう、とシュヴァリエの唇が動く。
シェリもどうすればいいのか分からなくて、ひとりでオロオロとしてしまった。
フィリップはそれ以上譲歩するつもりはないらしく、早く! と言って叫んだ。張り上げる声は裏返り、大きな瞳には今にも溢れそうな雫が浮かんでいる。
「分かりました。我々は少し距離を置きますが、何かあればすぐにお近くに控えます。それでよろしいですか?」
「ああ」
「承知致しました」
結局、折れたのはレオの方だった。
未だフィリップの後ろについて離れようとしないシュヴァリエの首根を掴んで、無理矢理引き摺っていく。
それほど離れるつもりはない。彼が今からシェリに何を語りたいのか、多少の検討はつく。護衛として許容される範囲とフィリップが満足する程度は応えて、レオの方も声が聞こえたとして無視してやるつもりだった。
「ベルナールド」
呼び止められて、「何でしょう?」と振り返る。首を抑えられたシュヴァリエが、手の中で「お考え直しを!」と暴れている。
「その……、我が儘を言ってすまない。このことは兄上には……」
叱られている子どものような顔をして、レオを伺い見る。
そんな不安になるくらいなら、我が儘を言わなければいいのに。未だ尚騒いで五月蝿いシュヴァリエの首を掴む手に力を込めた。
「もちろん、ルイ殿下にはお伝えいたしません」
「そうか、すまない」
ほっと胸を撫で下ろす少年の目が、首を掴まれて大騒ぎをしているシュヴァリエに向いた。今からレオに怒られやしないだろうかと、シュヴァリエの身を案じる目だ。
恋は盲目とはこのことだな、と心の内でひそかに思った。
フィリップ君は1640-1701年に実在したフィリップ一世(オルレアン公の方)がモデルですが、うちのフィリップ君は彼ほど波乱万丈な人生を送らないです。
この話で最初の恋がこの二人ってどうなの……と思いましたが、この二人が動き出さないことには話も進まないので石は投げないでください……。