初恋魔女1
自分の前に立ち尽くす大男に、シェリは掌にじっとりと汗をかいていた。
リアムが仕事へと出掛けてから二時間が経過。その間、あとを託されたレオとシェリは何を話すでもなく、無言で向き合ったまま過ごしていた。
シェリに至っては、さっきから指先が動くどころか瞬きすらしていない気がする。青白い顔をしてだらだら冷や汗を流す姿に、さすがのレオも困り果てていた。
普段から仕事にかまけてばかりいるせいで、子どもへの対応の仕方が分からない。いや、彼女の内面は見た目と違って成熟したレディだと分かっていても、この気弱な幼子の姿を目前にすると、己の認識がぶれてしまうのだ。
「あの、ラ・ジュブワ嬢」
「ひゃっ! は、はいっ!」
声が裏返った。
今度はじわじわと顔を赤く染めはじめて、恥じ入るように下唇を噛んでいる。目元には涙さえ浮かんでいた。
嗚呼、可愛いなあ。自分にも子どもができたらこんな感じだろうか。殿下も幼い頃はこんなにかわい……くはなかったな。
ほんわりしていたうちに、今でも城で語り継がられている下剤事件を思い出した。あれは本当に酷かった。翌日、ルイが泣いても叱り続け、罰として吐くまで稽古をつけてからは大人しくなったが、当のレオは症状が完全に治るまで三日かかったのだ。それが今では王太子として立派に務めあげているのだから、月日の流れというのは分からないものだ。
昔を懐かしんで目元を優しくしたレオは、未だ怯えた様子のシェリを抱え上げた。
「今からシュヴァリエのところに遊びにいきましょうか」
ザ・完全人任せ。
悪ガキの相手をしたことはあっても、このような触れれば折れそうな少女相手となると勝手が違いすぎる。
昨日の報告によれば、シュヴァリエとシェリはかなり親睦を深めたらしい。実際、嬉しそうに「はい!」と頷くシェリに、密かに胸を撫で下ろした。
「あ、あの、その前にベルナールド様にお願いがあるのですが……」
「はい、何でしょうか」
「その、私のことは名前でお呼びください。私はお兄さまのように出来のいい魔法使徒ではありません。あまり畏まらず、気楽に接して頂きたいのです」
「それは……あまり気楽に話しかけてしまうと、あなたのお兄様に首を刎ねられてしまいそうなのでご勘弁頂けませんか?」
「そんなことは……! ああ……いえ、確かにお兄さまならやりかねませんね」
思い当たる節があるのか、肩を落とす少女の髪を一房、丁寧な仕草で指に絡めた。
「しかし、そうですね。週に二度とは言え、これから共に過ごすことが増えます。仲良くしていただけると私も嬉しい。シェリ様、よろしくお願いします」
「! ええ、よろしくお願いします、ベルナールド様」
花が綻ぶように微笑む姿につられて、レオの口元も薄く笑みの形をつくる。
「シェリ様はもう私のことを名前で呼んでくださらないのですか?」
「え?」
「レオ、と。昨夜はそのように呼んでくださったではありませんか」
低いバリトンに囁かれて、シェリの顔がぶわっと赤くなった。
顔だけじゃなくて指先まで全身熱い。まるで耳のすぐ横に心臓ができたみたいに、鼓動が大きく鳴っていた。
「き、昨日はベルナールド様に無礼を働いて申し訳ありませんでした! 驚いてしまって、その! もうあのような不躾は差し上げませんのでお許しくださいっ!」
「どうしてですか? 私は嬉しかったですよ」
「ふえしいっ!?」
「それに、私ばかりあなたを慕っては不公平だ。それとも、あなたは私のことがお嫌いか?」
「いや、そんな、あのっ」
しどろもどろになりながら言葉を重ねようとするが、うまく舌が回らない。
レオの肩に添えた手をぎゅっと握り、伺うように顔を覗き込む。
「そ、それでは……レオ様」
「はい、シェリ様」
貴婦人なら簡単に目をハートにして喜ぶであろう、涼しい笑みだった。
それを真正面から受けたシェリも湯上がったタコのように全身を真っ赤にして、頭から湯気が立ち上がる。
ヒュッ
「おっ、と」
言いながら、ひらりと体を逸らす。
さっきまでレオが立っていた足元に、文を括り付けた弓矢が刺さっていた。振り返った窓は開け放したままで、この近くには今頃ルイが閉じ込められているのだろう執務室がある。さてはそこにリアムもいるなという予想は、開いた手紙を読んで確信に変わった。
「れ、レオ様! お怪我はありませんか?」
「ええ、私は大丈夫です。それよりも、あなたのお兄様からお手紙が届きましたよ」
苦笑しながらシェリに見せた手紙には、「遊んでいないで仕事しろ」と簡潔に書かれた一文のみ。
「リアム様は千里眼もお持ちなのですか?」
「そんなはずはありませんが……」
二人顔を見合わせて、小さく吹き出した。
彼ならやりかねない、というのは共通認識らしい。
行きましょうか、という言葉に頷いた。肩に走っていた緊張は矢の襲来とともに消え去ったようだ。
***
「チッ。まだイチャイチャしている気配がする」
「貴様には千里眼でも備わっているのか」
地下書庫への立ち入り許可証にサインを走らせながら、呆れたように顔をしかめる。
この男の過保護性には慣れたつもりではいたが、魔法を超えた力があるとは聞いていない。
書庫に立ち入る許可を欲しいとやってきたリアムが突然険しい顔をして「筋肉ダルマがシェリを口説いている気配がする」と言い出したときは、とうとう頭がおかしくなったかと疑った。妹のことになるとおかしくなる嫌いは元々あったが。ていうか筋肉ダルマってレオのことか。もっと言い方あるだろう。
「ほら、遊んでいないでこれ受け取れ。必要なんだろ?」
サインを施したばかりの書面をひらひら振れば、渋面のまま納得していない様子で受け取った。
「敵は殿下ではなく奴の方だったか……」
「あいつは天然のタラシ男だから気を付けろ。無自覚に女性を口説く、歩く女性誘惑使徒だ」
「ご自身の犬くらい、首輪でもつけてしっかり管理しておいてくださいよ」
「はっ。あれにつける首輪など、大陸中を探し回っても見つからんさ」
ルイが幼い頃から背中を追いかけ回してきた男だ。どれだけの手練れで、難解な性格をしているかなど承知の上である。
主人であるはずのルイですら、きちんと手綱を握れているか怪しいところだった。
「しかし、筋肉ダルマと……クククッ。あの男をそのように言う奴はお前が初めてだ」
「……殿下にお楽しみいただけたようでなによりです」
肩を震わせる彼から書類を受け取る。
目を細くして、己の懐刀のことだぞ、と胸の内でなじった。
「しかし、まあ。殿下も変わったお人ですよ」
「なんだ、次は俺までなじるか?」
「そういうわけじゃありませんがね。普通は、貴族とはいえ一介の騎士に家族へ接するような信頼は預けませんし、幾ら白の魔女の弟子とはいえ僕は平民ですよ。このように簡単に執務室に招き入れ、気軽に言葉を交わすのは如何なものかと」
「ほお? お前にもその程度の常識があるとは驚いた」
「生憎、こう見えて優秀でして。披露する機会がありませんが、それなりの常識も備わっているんですよ」
「今後は是非、その常識を惜しみなく披露してほしいものだ」
これにはニコリと微笑むのみで躱してしまう。
目の前の端正な顔が溜め息をついたが、大多数の人間にはお望み通り猫を被っているのだから大目に見てほしいところだ。
そんな心うちも読めてしまい、諦めたように溜め息をもうひとつ吐き出した。手持ち無沙汰を誤魔化すように、手元の万年筆を指先で回す。
「まあ、俺はこう見えて名君だからな。優秀であれば、出身などに関わらず取り上げることにしている。レオは子どもの頃から見ているが、あれは本当によくできた男だ。貴様も、口は悪いが腕は確かだしな。多少の不遜は大目に見てやる。どうだ、寛大な男だろ?」
「あなたが国民から呼ばれている二つ名に納得いたしました」
「へえ、どんな?」
「ルイ・エガリテ、と」
それに、鼻を鳴らして笑った。
万年筆を握る手には力がこもる。
「はっ、俺が即位すれば差し詰め平等王といったところか? 光栄だな。俺をそう褒め称える奴らを丸めて豚の餌にしてやりたいよ」
「随分辛辣なお言葉ですね」
「平等とは無縁の場所で生きてきたからな。平等とは耳障りのいい言葉だが、お前たちを側に置くのは俺のためだ。俺の目に留まりたければ己を磨いてこい。自分から手を差し伸ばさない愚者の手をわざわざ引いてやるほどお人好しではないぞ。俺の生き様など知らぬくせに、自分への平等ばかり求めたがる馬鹿どもは家畜の餌にするのが相応しい」
脳裏に浮かぶのは、かつて城で過ごした子ども時代だ。
父と母は多忙を理由にルイと向き合おうとせず、他の使用人はルイが十歳のときに亡くなった兄にかかりっきりだった。ひとりきり、本を眺めてばかりいた孤独の日々は忘れようがない。
弟との交流も殆ど許されず、兄は次期国王としてルイたちとは隔離。誰からも見向きされない日々に溜まるのは、寂しさと鬱蒼とした重さのみ。レオに唯一万全の信頼を与えるのは、そんな子ども時代の中で彼だけがルイを一人の少年として構い倒してくれたからだろう。
それが、兄が亡くなった途端王位第一席の権威を与え様々な官僚たちが媚びてくるのだから、平等など鼻で笑ってしまう。
神は人々に自然と魔法を授けたが、平等を与えるのは忘れてしまったらしい。
ルイ・エガリテとは、随分と都合のいい二つ名だと思った。平等こそ、ルイに最も与えられなかったものだというのに。
「と、まあ本音は鬱屈しているが、国民に愛されるのは悪いものじゃないな。是非父上には俺を見習ってほしいものだ」
「殿下の爪の垢を煎じて飲ませてみましょうか」
「それはいいな。早速、今夜にでも目の前で用意して差し上げよう」
ルイが平等王とするなら、父は浪費王といったところか。
他国から同盟の証に嫁いできた妻の浪費を長年許容し続けてきた彼は、現在の国庫が妻に圧迫されている現実から必死に目を逸らしている。年々上がる税に、国民の怒りは爆発寸前だった。
どれだけルイが手を回しても、変化を恐れる暗君は重たい腰を上げたがらない。それほど国王の務めを億劫と感じるなら、さっさとくたばって王位を譲ってほしい。
最近では、父への不満の陰に暗殺話まで持ち上がってる有様だった。国民と臣下の不満は、確実に王の喉元を狙っている。
手の中で回り続けていた万年筆を持ち直して、途中までだった書面に向かい直る。一週間後、国民を交えた三部会を開く予定だった。そこに国王とともにルイも臨席しなければならない。王太子として進めなければならない事案は底が見える気配もなく、既に脳は自身の仕事へ向き直っていた。
「お前もいつまでも油を売っていないで早く持ち場に戻れ。残業を抱え込むハメになっても知らんぞ」
「……殿下は、国王になる覚悟がおありですか?」
「はあ?」
怪訝な面持ちで見上げたルイは、その顔に能面のような冷たさを携えていた。
先ほどの与太話の延長と言うには、随分顔の色が暗い。
「ある、と言えばどうする? 父上を殺してくれるのか」
「僕はあなたを頼ったその瞬間から、殿下のカードの一枚ですよ。あなたがそれを望むなら、僕はあなたのための、白の魔法使徒となりましょう」
白と言うには艶やかすぎる瞳が、その瞬間赤く光った。
それはワインよりも鮮やかで、ルビーよりも暗い。
まるで、血の色だ。
「……ふん。聞く者によれば陰謀罪で死刑だな。何も聞かなかったことにしてやるから早く仕事に戻れ。俺も、お前も、暇じゃない。お前は賢いから、俺が言いたいことは分かるな?」
「それを聞いて安心しました。それじゃあ、僕も仕事に戻ります」
言って、ルイに背中を向ける。
背凭れに寄り掛かって深く息を吐いた。
使い勝手がいいと言うにはあまりに獰猛で、使い捨てるには有能すぎるカードだ。ルイが飼っている獣より手綱を握るのが難しそうだった。
扉を開いたリアムは部屋を出る直前になって、思い出したようにふり返った。
そうだ、と笑う顔は花のように可憐で、純真無垢。
「けれど、これだけは覚えておいてください。あなたがあなただから、他の誰のところでもなくここへ来た。あなたが変わらない限り、僕は殿下の下僕ですよ。ルイ・エガリテ」
「……その名で俺を呼ぶな」
悪あがきとばかりに吐き出した文句に、彼は受け取ったばかりの書類を左右に振って、ようやく部屋を後にした。
獰猛な獣用の首輪を二つ、大陸中を駆けずり回ってでも至急手に入れる必要がありそうだと頭を抱える。
あいつらを飼い慣らすのは、国を治めるよりずっと骨が折れそうだ。