6:雨の日の思案
蒸し暑い日が続く。すっかりと梅雨入りし、大粒の雨が降ることもこの頃は少なくない。この日も、空は分厚い雲に覆われて薄暗く、音を立てて雨が降っていた。
雨の音を聞きながら、林檎は香炉でお香を焚く。熱せられた銀葉の上で、没薬がじわりと溶けていく。立ち上る細い煙と共に、気怠く甘い、樹脂の香りが漂う。
自分をこの店の中に押し込めているかのようなこの大雨の中、お客さんは来ないのではないかと、林檎は思う。家からここまで来るまでの間はいくらかましな雨足だったけれども、今降っている雨はまるで鉄格子のようだった。
没薬の香りの中、雨の音を聞きながらぼんやりと思考を巡らせる。今、林檎の頭の中にあるのは、ゴールデンウィーク中に仕入れてきた青銅器のことだった。
饕餮紋の彫られた、青銅製のマスク。随分と古びた感じの物ではあったけれども、少なくとも林檎が大学で学んだような考古学の舞台に上がるような物では無かったし、勿論そんな物が存在したという文献も無い。だから、現代、古くとも近代になって、何かの見世物や国内向けのお土産として作られ、古びた加工をされた物だと思っていた。
製造された年代は目視では全くわからない物だったけれども、自分の店に置く分には十分に面白く、魅力のある物だと思い買ってきたのだ。
なんとなく。で買ったと言っても過言では無いその青銅器のマスク。それを、お店のホームページに掲載すると、後日、博物館からそれを収蔵したいという申し出が来て驚いたのは記憶に新しい。
あの青銅器は、一体何だったのだろう。博物館が欲しがるような、博物館ならばその存在を知っているような、そんな重要な存在なのだろうか。
歴史の上でそんなに重要視されるほど、貴重な物だったのだろうか。そして、一体いつの時代に作られた物なのか、一体どの様な目的で作られた物なのか。大学で考古学を専攻し、青銅器の研究をしていた林檎にも、全く察することの出来ない物だった。
「あの仮面は……」
何か、裏の歴史に隠された物なのだろうか。それとも、現代社会で表に出すことができないような、葬られた歴史に存在していた物なのか。
今になってあの青銅器の仮面の事を考え、ぞっとする。自分は、とてつもない物に触れてしまったような気がしたのだ。
もしあの青銅器が何かの祭具であったり、呪術の道具であったりしたらどうだろう。そう言った物を発掘し、研究したからと言って呪いが襲いかかると言うことはないと思う。その様な迷信じみたことはきっと気の迷いなのだ。けれども不安になるのだ。あの仮面が災いを呼ぶのでは無いかと、要らない心配をしてしまうのだ。
そんなことをぼんやりと考え、身を震わせていると、次第に雨音が小さくなってきた。穏やかになった雨の音と、薄暗い店内。その中に漂う甘い香りを身で感じて、すこし心が落ち着いた。不吉なことを考えてしまったのは、きっと強い雨音をひとりで聞いていたせいなのだと、そう自分に言い聞かせる。
悪いことは早く忘れよう。そう思った林檎はレジカウンターの奥に有る棚から、紫がかった茶色の急須を取りだし、お茶を用意する。淹れるお茶は、透明の密封容器に入ったプーアル茶だ。
欠片になった茶葉を急須の中に入れていると、店のドアが開く音がした。
「いらっしゃいませ」
そう声を掛けて入り口を見ると、そこに立っているのは、畳んだ蝙蝠傘を持っているひとりの男性。彼は白銀色の髪をきっちりと編んで、結い上げている。服装も、見た目の年齢の割には落ち着いた雰囲気の物だった。
「あら、先程は真利さんがどうも」
林檎が笑ってそう言うと、男性もはにかんで口を開く。
「いえ、誰にでも苦手な物はありますから。
でも、女性の方が強いと、なんというか、驚きますね」
先程、と言うのは、林檎が思案に沈むそれより前の時間の事。店に苦手なナメクジが出たと真利に呼ばれて大騒ぎしていたところに、この男性が来たのだ。
恥ずかしいところを見せてしまったと反省しきりだったのだけれども、様子を見る限り、男性は真利の店を十分楽しんできたようだったし、こちらの店まで見て貰えるのはありがたかった。
彼は静かに、じっくりと店内を見て回る。そしてふと、棚に飾られた仏像の首を見て、余程驚いたのだろう、短く、言葉にならない声を上げた。
「大丈夫ですか?」
この仏像の首を見て驚くお客さんは少なくないけれども、ここまでの反応をされたのは初めてだったので、林檎も驚いてしまう。
林檎の問いかけに、男性は気持ちを落ち着かせようとしているのか、服の胸の部分を右手で掴んでこう言った。
「えっと、そうですね。まさか仏像の首があるとは思っていなかったので……
これって、その、大丈夫な物なんですか?」
大丈夫な物、と言うのは法的にだとか、倫理的にだとか、そう言う事だろう。林檎は落ち着かせるように、穏やかな口調で答える。
「はい、その仏像は、ちゃんと手続きをした上で輸入した物ですので、問題のある物ではありませんよ。
それに、壊されて、打ち棄てられているよりは、せめて首だけでも大切にした方が良いと思って」
その言葉に、男性は納得した様だった。
安心した様子の男性は、また店内を見て回る。螺鈿の箱の中に入ったつまみ細工の髪飾りを手に取って、遠くを見るような眼をしたけれども、すぐに髪飾りを元に戻し林檎の手元を見てはにかんだ。
林檎の手元には、茶葉が入れられた急須がある。
林檎はぱんっと手を合わせてから、そそくさとバックヤードに入り、スツールをひとつ用意する。
「真利さんのところでもお茶を召し上がってると思いますけれど、こちらもいかがですか?」
「なんだか催促してしまったみたいですいません。いただいていきます」
男性が椅子に座ったところで、林檎は急須にお湯を注ぎ、茶葉を洗う。
プーアル茶の黒豆のような香りと、没薬の香りが混じり合って、その香りを嗅いでいるうちに、ひとりでいる時にあれほどさざめいていた気持ちがようやく落ち着いた。