45:食の技術
残暑は厳しいけれども、吹く風に秋の気配を感じるようになった頃。この日も冷たいお茶を用意して、とわ骨董店の店主の林檎は、ゆったりと籐の椅子に腰掛けていた。
レジカウンターの上には氷の詰まったブリキの器とそこに刺さった鱒の瓶、並んで小さな香炉が置かれている。
香炉の中には白い灰が入っていて、灰に乗った銀葉の上で、黄色い欠片がじわじわと溶けながら焦げていた。
甘く重い香りを楽しみながら、冷たいお茶を飲む。今日のお茶は薔薇の入った緑茶で、花の香りも混じり合って心穏やかになる物だった。
すこしずつお茶を飲んでいると、店の扉が開く音がした。
「いらっしゃいませ」
持っていたグラスをレジカウンターの上に置き、挨拶をして入り口の方を見ると、そこに立っていたのは紫色の髪を短く纏め、ラフなTシャツ姿をした男性だった。
彼は店内に入ってきょろきょろと周りを見渡し、驚いたような顔をして置かれた棚を見ている。時折、鼻に指を当てながら店内を周り、ふと林檎の方を見て訊ねた。
「なんかいい香りがしますけど、なんの香りですか?」
なるほど、彼は匂いの元を探していたのだなと気づいた林檎は、レジカウンターの上に乗った香炉を指して説明する。
「これはコパルと言って、若い琥珀の香りですよ。
こうやっていま、香炉で焚いているんです」
「へぇ、琥珀って燃えるんですね」
感心したようにそう言った男性は、また棚の方へ目をやる。そして、七宝の小物が並んでいる棚の、その上の段に手を伸ばした。そこには分厚い木の板に、丸い、模様の入った型が彫られたものが置かれている。
その型を手に取った男性は、まじまじとそれを見てこう言った。
「月餅用の型ですか?」
一目で月餅用の物だとわかるとは思っていなかったので、林檎は驚く。それから、もしそう言った物に興味があるならと、こう言葉を返す。
「そうですよ。他にも、和菓子用の物もございます」
すると男性は、月餅用の型から視線をずらして、その隣に置かれた小振りな型に目をやる。そちらは、魚の形であったり、花の形であったりが分厚い木の板に彫り込まれていた。
「あー、なるほど。焼き物とか蒸し物用のかな? このサイズだと」
納得した様子で小振りな型も手に取って居る男性の呟きの内容は、林檎にはよくわからない。ただわかるのは、彼がこう言った物に多少は縁がある人だろうということだけだ。
林檎が見つめる中、男性は幾つかの型を手に取って眺め、その中からひとつ、菊の花の形をした物を選んで林檎の元へと持ってきた。
「これをお願いします」
「はい、かしこまりました。ご自宅用ですか?」
「はい、自宅用で」
型を受け取った林檎は、電卓に金額を打ち込み彼に提示する。会計の準備をしている間に、木でできた型をクラフト紙の袋に入れて口をテープで封をする。それから、紺色の紙袋に入れてまた口の部分を唐草模様のシールで留めた。
「お待たせいたしました」
会計が終わり、男性に紙袋を渡す。その時に、林檎はふっと訊ねた。
「お菓子作りにご興味がおありなんですか?」
すると男性は照れたように笑って、こう答える。
「結構趣味でお菓子を作ったりするんです。
こう言う型を使ったお菓子も、調理師学校に通ってるときにすこしだけ囓ったので、懐かしくて」
「まぁ、調理師さんなんですね」
予想外の答えに、林檎は驚く。そうしていると、男性がちらちらとレジカウンターの上に乗ったブリキの器に視線を送っているのに気がついた。
林檎がにこりと笑って、ブリキの器に盛られた氷に刺さった鱒の瓶を撫でて、男性に言う。
「そう言えば、外はまだ暑いでしょう。冷たいお茶でもいかがですか?」
すると男性は、嬉しそうにこう答えた。
「はい、ありがたくいただきます」
その言葉に、林檎はレジカウンターの奥に有る棚の中から青と黄色の光を湛えたグラスをひとつ取りだし、鱒の瓶を氷から引き抜く。その瓶の栓を抜いてグラスにお茶を注ぐと、微かに青い香りと花の香りが漂った。
「どうぞ、すぐに椅子もお出ししますね」
男性にグラスを渡し、林檎はバックヤードから丸い座面のスツールをひとつ運び出す。それをレジカウンターの側に置いて男性に勧める。彼が腰掛けたところで、林檎も籐の椅子に座った。
男性がお茶の香りを聞いて呟く。
「薔薇の入った緑茶ですか。いいですね」
「あら、香りだけでわかります?」
「はい、なんとなくですけど」
調理師学校に通っていたと言うだけあって、食べ物の匂いには敏感なのだなと、林檎は感心する。
ふと、男性が林檎にこう訊ねた。
「そう言えば、店長さんのお名前を伺っても良いですか?」
「私のですか?」
こう言う仕事をしていると、名前を聞かれることはたまにある。なので、彼の質問も特に疑問ではなかった。
「私は林檎と申します。以後お見知りおきを」
すると彼も笑ってこう名乗った。
「俺はユカリっていいます。これからもたまにお邪魔させて貰って良いですか?」
「ええ勿論。いつでもいらして下さいな」
お互い名乗って、しばらくの間お菓子の話をして。食のことを専門で学んだユカリの話は、聞いているだけでお腹が空いてしまいそうだった。




