27:不思議の青銅器
吹く風が柔らかくなり、小さな緑が芽吹き始めた頃。その日は薄曇りで、薄暗いとわ骨董店の店内も、一際暗くなっているように感じた。
今日はあまりお客さんが来ない。そう思いながら、店主の林檎はぼんやりと棚の前に立って、銀化ガラスの瓶を眺めていた。
虹色に光る銀化ガラスを眺めていると、ふわふわと絵画のイメージが頭に浮かんできた。それは光を求め、新しい色彩表現をしようと努力をし、それ故に世間に受け入れられなかった様々な画家の物だった。
あの睡蓮の池は、今どうなっているのだろう。そう取り留めも無く考えていると、店の扉が開く音がした。
「いらっしゃいませ」
入り口の方を向き声を掛けると、そこに立っていたのはオペラ色の髪の男性。
「どうも林檎さん。お久しぶりです」
「あら、緑さんお久しぶりです」
「ちょっと、見させてもらっていいですか?」
「勿論ですとも。ゆっくりご覧になって下さい」
短く言葉を交わし、林檎はいつも座っている籐の椅子に腰掛ける。そこから緑の様子を窺っていると、どうやら古い硯を見ているようだった。
そういえば、以前来た時に欲しいといっていたっけ。そんな事を思い出しながら、緑はどの硯を選ぶのだろうかと見守る。
コオロギがあしらわれた硯、蓮の葉と花の意匠が施された硯、池の中を覗き込む亀が彫られた硯。どれも繊細で素晴らしい出来の物だ。
みっつのなかから、緑がひとつ手に取って、林檎の所へと持ってきた。
「すいません、これください」
それは亀が彫られた硯で、林檎はにこりと笑って受け取る。
「かしこまりました」
倚子から立ち上がり、レジカウンターの中へ入る。それから、電卓に値段を打ち込み提示する。緑が会計の準備をしている間に、林檎は硯が持ち運び中割れないよう、引き出しから出したクッション材で丁寧に包み、それをクラフト紙の袋に入れテープで留める。包装した物を紺色の紙袋に入れて、口を唐草模様のシールで留めて、会計を済ませてから緑に渡した。
「えへへ、ずっとこれが欲しかったんです」
そう言って、緑は嬉しそうに笑う。思わず林檎も嬉しくなった。
「それは良かったです。
そうだ、良かったらお茶でもいかがですか?」
なんだか話したいことがあると言った素振りの緑にそう訊ねると、緑は照れくさそうに返す。
「実は、それもちょっと期待してきたんです」
「あら嬉しい。それじゃあ少々お待ち下さい」
林檎はそそくさとバックヤードに入り、丸い座面のスツールをひとつ運び出してきてレジカウンターの近くに置く。それを緑に勧め、それからお茶の準備を始めた。
レジカウンターの奥にある棚から出したのは、萩焼のカップと、金彩と色彩が鮮やかなベンジャロン焼きのカップと、ガラスのティーポット。ティーポットの中に茶葉を入れると、緑が不思議そうな顔で訊ねた。
「なんか甘い香りがしますけど、そのお茶はなんですか?」
その問いに、林檎はティーポットを軽く持ち上げて答える。
「桃の香りがついた緑茶です。この香りが好きなので、ついつい買い置きしてしまうんですよ」
くすくすと笑って、ティーポットの中にお湯を注ぐ。甘い香りがより広がった。
ティーポットを軽く揺すり、カップに注いでいく。まだたっぷりとお茶の入ったティーポットをレジカウンターの上に置き、ベンジャロン焼きのカップを緑に手渡す。
「お待たせしました」
「あー、良い匂い。いただきます」
早速カップに口を付ける緑を見て、林檎も萩焼のカップを持っていつもの籐の椅子に座る。そうすると、緑が早速話を始めた。
「そういえば、以前このお店に青銅器のマスクが有ったと思うんですけど」
「はい。そのマスクは今、博物館に入れてしまったので、ここには無いのですが」
なぜ緑があの青銅器のことを知っているのだろう。不思議に思っていると、緑が話すにはこう言う事だった。
「実は、あのマスクを引き取った博物館が俺の職場で、いま専門チームが解析をしている所なんです」
「まぁ、緑さん、あの博物館にお勤めだったんですね」
なるほど、あの博物館は書の所蔵も多いと聞くし、それなら書道を嗜んでいる緑の職場としては十分に納得できる。
それにしても、あの青銅器は結局なんなのだろう。
「結局、あの青銅器はなんなんでしょうか?」
林檎が疑問を率直に聞くと、緑は難しそうな顔をする。
「ああいった青銅器のマスクに関する文献は全く無いのに、あれ自体はもの凄く古い物なんですよ」
「そうなんですか? どの程度古い物……なんでしょうか」
「放射線検査をした結果、殷よりも前、夏王朝くらいの物ではないかと推測されてるんですよ」
「えっ、そんな古い物なんですか!」
緑の言っていることが本当だとするのなら、あの蚤の市でふと手に取ったあの青銅器の仮面が、何故一度とは言え自分の元に来たのだろうと、そんな疑問が湧く。
あの青銅器には緑も頭を悩ませているのだろう、すこしだけ溜息をついて、カップに口を付けている。
けれどもすぐに笑顔になって、林檎に言った。
「でもまぁ、解析するのは専門チームですから。俺は結果が出るのをゆっくり待つだけです」
「確かに、そうですよね」
緑は硯を買うだけでなく、この話をしたくて今日ここに来たのではないかと林檎は思う。
「とりあえず、今は美味しいお茶を楽しみたいですね」
「うふふ、ゆっくりしていって下さいね」
仕事でつらい時もあるだろうけれども、ここでこうやって息抜きをできるなら、それはそれで良いのではないかと、林檎もお茶に口を付けた。




